artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

ミロスラフ・クベシュ「人間よ 汝は誰ぞ」

会期:2016/06/22~2016/07/30

gallery bauhaus[東京都]

1927年にチェコ南部のボシレツに生まれたミロスラフ・クベシュは、プラハ経済大学で哲学を教えていたが、68年のソ連軍のプラハ侵攻後に職を追われる。以後、年金生活に入るまで、煉瓦職人や工事現場の監督をして過ごした。1960年代以降、アマチュア写真家としても活動したが、2008年に亡くなるまで、あまり積極的に自分の作品を発表することはなかったという。その後、ネガとプリントを委託したプラハ在住の写真家、ダニエル・シュペルルの手で写真が公表され、2010年には写真集(KANT)も刊行された。今回のgallery bauhausでの個展は、むろん日本では最初の展示であり、代表作57点が出品されている。
生前はほとんど作品を発表することなく、死後に再評価された写真家としては、アメリカ・シカゴでベビーシッターをしながら大量の写真を撮影したヴィヴィアン・マイヤーが思い浮かぶ。クベシュもマイヤーも、6×6判の二眼レフカメラを常用していたことも共通している(クベシュが使用したのはチェコ製のフレクサレット)。だがその作風の違いは明らかで、クベシュの写真には、マイヤーのような、獲物に飛びかかるような凄みやあくの強さはない。広場や公園や水辺で、所在なげに佇む人物に注がれる視線は、どちらかといえば穏やかであり、屈託がない。クベシュは生前に発表した写真評論で「自分の中に稀有なものをもち得ない人間はいない。その何かのために僕たちは彼を好きにならずにはいられない」と書いているが、その誠実で肯定的な人間観は、彼の写真に一貫している。とはいえ、チェコにとっては苦難の時代であった1960~70年代の暗い影は、明らかに彼の写真にも浸透していて、人々の表情や仕草に複雑な陰影を与えている。チェコ人だけでなく、この時代を知る誰もが、彼の写真を見て、懐かしさと同時に微かな痛みを感じるのではないだろうか。チェコには彼のほかにも「埋もれている」写真家がいそうだ。ぜひ、別の写真家たちの作品を見る機会もつくっていただきたい。

2016/07/23(土)(飯沢耕太郎)

金川晋吾 写真展 “father”

会期:2016/07/13~2016/07/24

gallery Main[京都府]

金川晋吾の「father」は、ある日ふらっと家を出て「蒸発」を繰り返し、離婚・失職して単身アパートで暮らす父親を撮った写真シリーズ。同名の写真集の出版を記念した個展が開催された。展示は2つの要素で構成され、2008年~09年にかけて金川が父親とその暮らしぶりを撮影したカラー10数枚と、父親自身がほぼ毎日「自撮り」したセルフポートレイト計5年間分が、1年分ずつ分厚い本にまとめて展示されている。
金川が父親を撮った写真には、肉親でありつつも蒸発を繰り返す不可解な存在に対して、カメラをコミュニケーション・ツールとして接近と隔たりの振幅を行き来しながら、掴みきれない距離感のもどかしさが露呈しているように感じられた。公園を散歩する父を遠目に捉えたショット、窓ガラスやテーブル、ソファなど遮蔽物を介したポートレイト。窓ガラスにおぼろげに反映した父親の姿は、外の風景と二重写しになり、存在を希薄化させている。そうした心理的な距離感を感じさせる写真がある一方で、無防備な寝顔やクローズアップなど、親密な距離感を感じさせる写真もある。父親の像は、尊厳をもった一人の個人と、ただ置物のようにぶっきらぼうにそこにある中年の肉体とのあいだで揺れている。また、父親が「不在」の部屋を撮った写真では、家具も何もない剥き出しの空間が、不在感や生活感の希薄さを強調する。散らかったテーブルの上の置き手紙のようなメモには、「やっぱり生きていくのが面倒くさい」という一行が記されている。
一方、父親自身が撮ったセルフポートレイトは、2009年4月の開始から、計5年間分が時間の束として蓄積している。この撮影行為は、金川が35mmフィルムのコンパクトカメラを父に預け、「毎日一枚、自分の顔を撮る」ことを依頼して始まったもの。父親はこの依頼を律儀にほぼ忠実に遂行している(「ほぼ忠実に」というのは、ところどころ、1日から数日間、日付が飛んでいるからであり、その欠落は彼の「蒸発期間」を示す)。撮影行為を5年間続けている執念は、作家性への接近を感じさせる。だが分厚い写真の束をめくるうちに、眉根を寄せ気味の無表情が延々と続く羅列が、異様さを否応なしに増幅させていく。均質な表情、ほぼ同じアングルと背景。ページを繰るたびにカウントされていく日付が、同じ一日を延々と反復している感覚を逆説的に露呈させる。どの日を切り取っても均質であり、社会と関わることを拒絶したこの人の内側では、時間が止まっているのではないかと思わせる。自分の存在を記録化して残すというより、ひたすら自己の消去に向かって撮影行為を繰り返しているように思え、狂気的な様相をはらんでいるのだ。それは、SNSや画像共有サイトに溢れる「セルフィー(自撮り)」における、他者からの承認欲求(=「いいね」が押された数)とは根本的に異なる態度である。自らにレンズを向けてシャッターを切り続ける彼の眼は、他者も、自分自身の内面も、何も見ていない虚無なのかもしれない、と思わせる怖さがにじんでいる。
「作品」という明確な意志の下に遂行された行為でもなく、「ささやかな日課」と言うには逸脱した行為の過剰さ。だがそこには、存在証明(「蒸発中」でないことの文字通りの証)、息子からの依頼に応えるというコミュニケーション的側面、ポートレイト(の複数性)がはらむアイデンティカルな問題に加えて、「写真と眼差し」、「写真は内面や本質を写し取れるのか」という問いが浮かび上がっていた。

2016/07/23(土)(高嶋慈)

クロダミサト「美しく嫉妬する」

会期:2016/07/22~2016/08/07

神保町画廊[東京都]

2009年に写真新世紀展でグランプリを受賞したクロダミサトは、2010年から撮影しはじめた新シリーズを、11年に写真集『沙和子』(リブロアルテ)として刊行した。京都造形芸術大学時代からの友人をモデルに、あえて男性向けのヌード雑誌風のポーズをつけたこのシリーズは、大きな反響を呼ぶ。それから6年余り、写真家もモデルも30歳になって、あらためて「女が女を撮る」ことの意味を再確認するために撮り下ろされたのが、今回の「美しく嫉妬する」である。
実家のある三重県と東京で撮影された新作は、『沙和子』とはかなり肌合いが違う。若さが弾けるような勢いは薄れ、無理なポーズをつけることもなくなった。「そこにいる」モデルを自然体で受け入れ、どちらかといえば記念写真のようにそっけなく撮影している。どうやら表現よりも記録(ドキュメント)という要素が強まってきているようだ。つまり、彼女たちにとって、ヌードを撮り─撮られるという関係の持ち方は、むしろ日常的なものになりつつあるということだが、これは諸刃の剣になりかねない。ヌードであることの非日常性が失われていくことによって、以前の緊張感や高揚感が弛んでいってしまうからだ。そのあたりのバランスをうまくとりながら、ぜひこの先も長く撮り続けていってほしいと思う。
なお、日本カメラ社から同名の写真集(展示とは1点を除いて別カット)が刊行されている。こちらは「女同士の二人旅」の途中で撮影されたという雰囲気がより強まっている。

2016/07/22(金)(飯沢耕太郎)

「Retrace our Steps -ある日人々が消えた街」 カルロス アイエスタ+ギョーム ブレッション 写真展

会期:2016/06/24~2016/07/24

CHANEL NEXUS HALL[東京都]

東京・銀座のCHANEL NEXUS HALLでは、いつもいい写真展が開催されるのだが、その情報が写真・美術関係者にはあまり浸透していないように感じる。広報活動に少し課題があるのかもしれない。今回の展示は、フランス・パリを拠点に活動する2人の写真家、カルロス・アイエスタ(1985年生まれ)とギョーム・ブレッション(1980年生まれ)が、福島県の原発事故の被災地を撮影した5つのシリーズから構成されている。アイエスタとブレッションは、震災直後の2011年3月に「幻覚を見るような思いで原子力発電所周辺の無人地帯を」撮影した。そしてその後、5年間をかけて、粘り強く撮影のプロジェクトを継続していった。
人気のない街の建物や街路を、フラッシュ光で浮かび上がらせる「光影」、透明プラスチックの球体とセロファン・ラップを配置した風景をバックに、住人たちがポーズをとる「悪夢」、次第に草や樹木に覆い尽くされていく街並をクールに撮影した「不穏な自然」、廃墟化したコンビニに残されていた食品を商品撮影の手法で映像化する「パックショット」、さらに住人たちのインタビューとポートレートによる「回顧」の5シリーズは、従来のドキュメンタリー写真とはかなり肌合いが違う。だが、このようなアート的な手法にあまり違和感を感じないのは、逆に福島の現場の状況があまりにも現実離れしているからなのだろう。5年という時を経て震災の記憶が急速に風化しつつある現在、フランス人写真家たちによる意欲的な試みを、このようなかたちで紹介するのは、とても意義深いことだと思う。

2016/07/21(木)(飯沢耕太郎)

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浦芝眞史展 身体の森で

会期:2016/07/20~2016/08/05

ガーディアン・ガーデン[東京都]

1988年、大阪生まれの浦芝眞史は、昨年の第13回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞した。本展はその受賞記念展である。受賞作はゲイの男性たちを撮影したスナップ的なポートレートだったのだが、被写体や手法を固定することなく、さらに幅を広げていけるかが大きな課題だと感じていた。今回の展示を見ると、その答えが少しずつかたちをとりはじめているのがわかる。これまでと明らかに違っているのは、モデルのなかに性同一障害の女性が含まれていることで、彼女=彼の「身体の森」に分け入ることで、その揺らぎを写真のなかに取り込むことができるようになっていることだ。今回の「反する性を同時に感じながら」の撮影の経験は、これから先の浦芝の写真世界の展開に、大きな影響を及ぼしていくのではないだろうか。
もうひとつ注目したのは、展示会場のインスタレーションである。大小の写真をフレーミングしたり、壁に直貼りしたりした新作に加えて、「1_WALL」展の受賞対象になった旧作も、サービスサイズほどの小さなプリントに焼いて並べられている。そのことによって、彼の思考と実践がどのように展開してきたのかが、観客にも充分に伝わるつくりになっていた。かつては、ややわざとらしいポージングの写真が多かったのだが、それが新作になるにつれて自然体に変わっていったことも、はっきりと見てとることができた。
身体性のズレや揺らぎに着目して作品を発表してきた写真家といえば、何といっても鷹野隆大(「1_WALL」展の審査員の一人)だ。浦芝も鷹野に続いて、このテーマに新たな角度から取り組んでいってほしい。

2016/07/21(木)(飯沢耕太郎)

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