artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

山田弘幸「Fragment」

会期:2016/06/17~2016/07/09

EMON PHOTO GALLERY[東京都]

ちょうど東京国立近代美術館の吉増剛造展を見たばかりということもあって、EMON PHOTO GALLERYで開催された山田弘幸展の出品作にアーティストとしての共通性を感じた。山田は昨年度の第5回EMON AWARDのグランプリ受賞作家だが、写真家という枠組みから大きく逸脱した作品を発表し続けている。「素材」を得るための基本的なメディウムとして写真を使用してはいるのだが、それらをプリントするときに、画像に絵画的な操作を施したり、テキストを書き込んだり、実物とともにミクスト・メディアとして提示したりする。原稿用紙に書いた「男」という文字を重ねてプリントしたり(ネガ画像とポジ画像で)、紙に釘で無数の穴を穿って図像を描いたりといった、写真家の仕事とは思えない作品も多い。そのあたりの、発想をすばやくかたちにしつつ、変形し、拡張していく画像操作のあり方が、吉増と重なって見えてくるのだ。
あまりにも多彩な作品群なので、焦点を合わせるのがむずかしいのだが、今回の展示のメインとなっていた大作「NOSOTROS SOMOS」は、珍しく彼の意図がストレートに伝わってくる作品だった。とはいえ、この作品もかなり複雑な構成で、トレーシングペーパーにプリントしたセルフポートレートを中心にして、その背後に父親と母親の結婚式の写真、軍服を着た祖父の写真、母親が撮影した仏壇の写真などが二重、三重に重なり合っている。それに加えて、余白には「私たちは……」を意味する「NOSOTROS SOMOS」や、「一か八か」という意味だという「A TODA MADRE O UN DESMADORE」といったスペイン語の文字が書き込まれている。つまり、祖父、両親、自分と繋がってくる過去─現在─未来の時間軸を、一旦バラバラに解体し、強引に結び合わせて再構築する試みなのだ。
山田のようなタイプのアーティストに、「普通の」写真表現を求めても無駄だろう。彼の画像操作は単なる思いつきではなく、現実の背後に潜む「見えない」ヴィジョンを引き出したいという強い意志を持って、確信犯的に為されているからだ。まだ、思いつきを撒き散らしている段階だが、それがもう少し明確にひとつの方向に収束していくようになれば、恐るべき表現力を備えた「写真家」が出現してくるに違いない。

2016/06/25(土)(飯沢耕太郎)

大塚咲「3P」

会期:2016/06/24~2016/07/10

神保町画廊[東京都]

性的な行為を写真として表現するのは、簡単なようでなかなかむずかしい。人間が何かに夢中になって没入している時の、真剣かつ厳粛で、時にはたまらなく滑稽な表情や身振りは、写真の被写体としてとても魅力的なのだが、下手すると退屈なポルノグラフィ以上のものにはならないからだ。しかも、それは時には法の規制を受けるような「危ない」イメージであり、写真家も観客も感情を完全にコントロールするのは不可能である。何人かの写真家たちが、そのぎりぎりの綱渡りを試みてきたが、あまりうまくいかないことが多かった。
プロフェッショナルの性的なパフォーマーとして活動してきた大塚咲の新作は、自らが被写体となるという仕掛けのなかで、その難題にチャレンジしている。この「3P」のシリーズには、彼女自身を含んだ3人/3組の男女が登場してくる。その複雑に進行していくプロセスを捉えるために、彼女が思いついたのは、複数のイメージをA3サイズで「コンタクトプリント」のように提示することだった。100カット以上をひとつの画面におさめることで、めくるめくような視覚的な効果が生じてくる。それに加えて、単独の写真(2L、A3、A2サイズ)も300点近く展示することで、ギャラリーの空間を活かしたインスタレーションとして、とてもうまく構成されていた。「性は好奇心に突き動かされて、どうして人の本性を見せるんだろう。どうして心の傷を見せるんだろう。どうしてそれを見た時、私は安心するんだろう」。写真の選択にはまだ甘さが残るが、写真展に寄せたこの大塚のコメントを見る限り、性行為を媒介にした人間観察には、さらなる深化が期待できそうだ。

2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展

会期:2016/06/07~2016/08/07

東京国立近代美術館[東京都]

「全身詩人」吉増剛造の仕事を、その「声」との関わりを中心に、主に美術家としての側面にスポットを当てて再構築する大胆かつ野心的な企画である。1961年以来の「日誌・覚書」、自ら鏨とハンマーで文字を打ち込んだ「銅板」、カセットテープに録音した大量の「声ノート」、「自筆原稿」(吉本隆明と中上健次の原稿も含む)、映像作品「gozoCiné」、東日本大震災を契機にスタートした自筆原稿+水彩画の「怪物君」、舞踏家、大野一雄とのコラボレーション映像等々、盛り沢山の内容だった。
ここでは特に彼の「写真」の仕事について考えてみたい。展覧会の少し前に刊行された語り下ろしの『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社、2016)によれば、吉増の「写真的原体験」は、6歳の時に疎開していた和歌山県永穂で、アメリカ軍が投下した大量の「銀のテープが空から降ってくる」のを見たことだったという。それを吉増は、ロラン・バルトが『明るい部屋』で記述した、「ある別の人の目で見ているような、非常にレアな驚きの瞬間を写真が伝える」経験と重ね合わせる。そのような「本当の写真」は、普通に撮影しただけでは出現してこない。ゆえに「二重露光」などの画像操作が持ち込まれる。吉増の「写真」のほとんどは、そんな「写真的原体験」の再生、降臨をもくろんでいるといえるだろう。「二重露光」だけではなく、ポラロイドや横長のパノラマサイズの画面のような、コントロールが難しい画像形成システムを多用したり、テキストやドローイングと併置したりといった、通常の「写真」のあり方とは異質の操作が施されるのはそのためである。
とはいえ、それらの操作は、写真という表現媒体がもともと抱え込んでいた魔術性や呪術性を、全面的に開放するために為されているのは明らかである。ドローイングや「銅板」への翻刻と同様に、吉増の「写真」もまた、秘儀的であるように見えて風通しがよい。『我が詩的自伝』では、たびたび荒木経惟へのシンパシーが語られているが、確かに、荒木の書やドローイングにまで逸脱していく近作と、吉増の「写真」とは共通性が多いのではないだろうか。

2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)

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東京カメラ部2016写真展

会期:2016/06/23~2016/06/26

渋谷ヒカリエ9F「ヒカリエホールB」[東京都]

フェイスブックやインスタグラムに日々アップされている写真のあり方がとても気になる。正直、それらをこまめにフォローしようとは思わない。量があまりにも膨大すぎるし、質的にも玉石混交の極みであることは重々承知しているからだ。とはいえ、そこに現在の写真を撮ること、見ることの営みが集中してあらわれていることを認めるのにやぶさかではない。
そんなSNSにおける写真表現のあり方を概観するのにぴったりなのが、東京・渋谷のヒカリエホールBで開催された「東京カメラ部2016写真展」である。東京カメラ部というSNSでの発表を中心に活動している団体が主催している展覧会で「3億人が選んだ10枚」の写真の展示をメインに、『アサヒカメラ』と共催した「2016写真コンテスト 日本の47枚」、また「2016写真コンテストInstagram部門」で受賞した作品などが並んでいた。「3億人」というのは「東京カメラ部とその分室がタイムラインで紹介している作品の2015年延べリサーチ(閲覧者)数」だという。たしかに常時フェイスブックやインスタグラムにアクセスしている人の数を換算すれば、それくらいになるだろう。その「3億人」が46万枚から「いいね!」をつけて、今年の「10枚」に選ばれる確率は0・002%になる。
選ばれた写真には、たしかになるほどと思わせる魅力がある。地平線に見事な虹がかかっていたり、紅葉の山々に筋状に光が当たっていたり、夜桜に妖しい雰囲気の女性モデルを配したり、富士山にかかる笠雲を巧みな構図で捉えたり、それぞれ撮り方に工夫があるし、技術的なクオリティも当然高い。「いいね!」がつく写真の条件は見事に揃っている。とはいえ、それらの写真はどれも「どこかで見たことがある」想定内の範囲に留まっている。逆にいえば「どこかで見たことがある」写真でなければ、「10枚」に選ばれるわけはない。均質性と平均性と穏当さこそが、これらのSNS写真を貫く原理であることが、あらためてよくわかった。
ここに選ばれた写真家たちは、一般的に写真雑誌や写真ギャラリーで見る名前ではないが、その世界では有名人なのだろう。彼らが、どんな風に固有名詞化されていくのか、むしろそのあたりが気になる。ちなみに「3億人が選んだ10枚」の作者は以下の10人である。浅岡省一、北川力三、岩崎愛子、工藤悦子、柴田昭敬、黒田明臣、本間昭文、八木進、松岡こみゅ、伊藤公一。

2016/06/23(木)(飯沢耕太郎)

圓井義典「点-閃光」

会期:2016/06/06~2016/08/10

PGI[東京都]

前回、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催された個展「光をあつめる」(2011)と比較しても、圓井義典が今回展示した「点-閃光」のシリーズ(17点)は、より思弁性、概念性が強まっているように感じる。もともと、考えながら制作活動を展開していくタイプの写真家なのだが、草むらや樹木、水面の反映、あるいは光の反射そのものなどの日常的な事物を撮影した本作では、ホワイトヘッドやロラン・バルトの知覚論や記号論を援用することで、「写真論写真」への傾きがさらに大きくなってきているのだ。
圓井が展覧会に寄せた文章でいう「日々の情景と(私でもある)それが、網膜を介して出たり入ったりしながら重なり合う」状況を、写真というメディムを通じて捕獲することは、むろんこれまでも多くの写真家たちによって試みられてきた。既成の意味の体系によって、そこに写っているモノを解釈されることを避けるために、それらは時にブレたり、ボケたりした光の染みにまで還元され、極端なクローズアップによって全体と細部との関係が曖昧にされる。だが時として、撮影行為の起点であるはずの「私」が、(私でもある)存在として宙づりにされ、被写体も何が写っているのかを特定できないように配慮されることで、緊張感を欠いた、似たような予定調和の画像の繰り返しになってしまうことがある。今回の展示を見る限り、圓井の営みは、そんな「写真論写真」の隘路に落ち込む一歩手前を、さまよっているように思えてならない。
いまさら「私」と被写体(世界)との二項対立を持ち出すつもりはない。だがそのあいだの「関係性」の戯れのみに写真行為を解消してしまう危うさも、よく承知しておくべきだろう。「何を、なぜ撮るのか」という問いかけは、古くて新しいものであり、いまなお有効性を保ち続けているのではないだろうか。

2016/06/22(水)(飯沢耕太郎)