artscapeレビュー
声ノマ 全身詩人、吉増剛造展
2016年07月15日号
会期:2016/06/07~2016/08/07
東京国立近代美術館[東京都]
「全身詩人」吉増剛造の仕事を、その「声」との関わりを中心に、主に美術家としての側面にスポットを当てて再構築する大胆かつ野心的な企画である。1961年以来の「日誌・覚書」、自ら鏨とハンマーで文字を打ち込んだ「銅板」、カセットテープに録音した大量の「声ノート」、「自筆原稿」(吉本隆明と中上健次の原稿も含む)、映像作品「gozoCiné」、東日本大震災を契機にスタートした自筆原稿+水彩画の「怪物君」、舞踏家、大野一雄とのコラボレーション映像等々、盛り沢山の内容だった。
ここでは特に彼の「写真」の仕事について考えてみたい。展覧会の少し前に刊行された語り下ろしの『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社、2016)によれば、吉増の「写真的原体験」は、6歳の時に疎開していた和歌山県永穂で、アメリカ軍が投下した大量の「銀のテープが空から降ってくる」のを見たことだったという。それを吉増は、ロラン・バルトが『明るい部屋』で記述した、「ある別の人の目で見ているような、非常にレアな驚きの瞬間を写真が伝える」経験と重ね合わせる。そのような「本当の写真」は、普通に撮影しただけでは出現してこない。ゆえに「二重露光」などの画像操作が持ち込まれる。吉増の「写真」のほとんどは、そんな「写真的原体験」の再生、降臨をもくろんでいるといえるだろう。「二重露光」だけではなく、ポラロイドや横長のパノラマサイズの画面のような、コントロールが難しい画像形成システムを多用したり、テキストやドローイングと併置したりといった、通常の「写真」のあり方とは異質の操作が施されるのはそのためである。
とはいえ、それらの操作は、写真という表現媒体がもともと抱え込んでいた魔術性や呪術性を、全面的に開放するために為されているのは明らかである。ドローイングや「銅板」への翻刻と同様に、吉増の「写真」もまた、秘儀的であるように見えて風通しがよい。『我が詩的自伝』では、たびたび荒木経惟へのシンパシーが語られているが、確かに、荒木の書やドローイングにまで逸脱していく近作と、吉増の「写真」とは共通性が多いのではないだろうか。
2016/06/24(金)(飯沢耕太郎)