artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ
会期:2016/01/16~2016/03/21
国立国際美術館[大阪府]
「エッケ・ホモ(この人を見よ)」。新約聖書に登場するこの有名な言葉から、本展を宗教美術展だと早合点する人がいるかもしれない。しかし実際は、戦後現代美術が人間をどのように表現してきたのかを、約100作品でたどる企画だ。展覧会は3部構成をとる。第1部「日常の悲惨」は、鶴岡政男、山下菊二、中村宏などによる戦後日本の社会問題をテーマにした作品で始まり、工藤哲巳、荒川修作を経て、村岡三郎、A・ウォーホル、G・リヒターらに連なる。第2部「肉体のリアル」では、小谷元彦、オルラン、F・ベーコン、塩田千春などの赤裸々な表現が連続する。盛り上がりという点ではここがピークであろう。第3部「不在の肖像」は、G・シーガル、内藤礼といった内省的な作家や、北野謙、B・ボーネン、A・ジャコメッティなどによるアイデンティティの揺らぎあるいは複数のアイデンティティを捉えた表現が並び、J・ボイスと島袋道浩の作品で静かに幕を閉じる。ハードな表現が数多く並ぶゴリゴリの現代美術展ではあるが、人間という主題は普遍的なので、必要以上に小難しく考える必要はない。むしろ自分の側に引き寄せて作品と向き合えば、得るものが多い機会になるだろう。また、出展作品の大半(約90点)が国立国際美術館の所蔵品であり、コレクションの厚みが窺える展覧会でもあった。
2016/01/15(金)(小吹隆文)
シリア・失われた故郷 鈴木雄介 写真展
会期:2016/01/09~2016/01/24
ARTZONE[京都府]
ニューヨークを拠点に活動する報道写真家・鈴木雄介の個展。彼が2013年にシリアで取材した戦闘地帯とそこで暮らす人々の写真及び動画、そして2015年にレスボス島で取材したシリア難民の写真を展示した。恥ずかしながら筆者はシリアの状況について無知であり、本展でその現実を知り大きな衝撃を受けた。紛争がいったんこじれ出すともはや誰にも止められず、ひたすら負のスパイラルを転げ落ちていく。その様子は本当に痛々しくも恐ろしい。日本が同様の状況に陥らないことを心底から願う。シリアと難民に対して我々はどう対応すべきなのか。筆者を含む多くの日本人は返答できるレベルに達していない。まずは状況を把握すること。そのためにも本展の全国巡回が望まれる。なお、作者の鈴木とキュレーターの山田隼也は扇動的な態度を取らず、「まずは知ってほしい」の姿勢で臨んでいた。その冷静さは称賛されるべきだ。また本展では、動画の説得力が写真より明らかに上回っていた。やはりこれからは動画の時代なのか。筆者も勉強をせねばと自戒した。
2016/01/12(火)(小吹隆文)
伊澤絵里奈「そんな気がした」
会期:2016/01/09~2016/01/31
SUNDAY[東京都]
伊澤絵里奈は2013年の第9回「1_WALL」展のファイナリスト、同じ年に東京工芸大学大学院を修了している。その時の作品《うつろに、溶け込んで》は、「私に最も近い存在」である「弟」を中心に撮影したスナップショットのシリーズだったが、その後「彼」ができたことで、被写体の幅が広がった。今回の東京・三宿のカフェ・レストラン「SUNDAY」のギャラリースペースでの初個展では、「弟」と「彼」の写真をあえて「混ぜこぜ」にするようにして展示していた。
基本的には、90年代以降の日本の女性写真家たちのお家芸とでもいうべき、身近な他者にカメラを向けた、軽やかな「プライヴェート・フォト」といえる。だが、被写体との距離をできる限り縮め、感情移入しつつ撮影していた90年代の女性写真家たちと比較すると、どこか違いが出てきているように感じる。「弟」も「彼」も。どちらかといえば突き放した素っ気ない撮り方であり、身体の部分(手、脚、首筋など)や身振りの細部を、じっと観察しているように見えてくるのだ。自分とは異質の「近くにいる奇妙な生きもの」の観察日記といえるかもしれない。この観察眼がもう少し研ぎ澄まされてくると、なかなかユニークな作品に育っていきそうだ。
今回の展示は、写真編集者・ライターの山内宏泰の企画による「provoke page.3」として開催された。新進写真家にスポットを当てて毎月開催されている連続展で、これまで天野祐子、 田菜月が展示し、次回は山崎雄策展が予定されている。場所がややわかりにくいのが難だが、ゆったりとしたいい展示スペースなので、長く続くことを期待したい。
2016/01/10(日)(飯沢耕太郎)
野村浩「Invisible Ink」
会期:2015/12/16~2016/02/06
POETIC SCAPE[東京都]
「青い魔法のインク」という異名を持つ「Invisible Ink」とは、「イギリスArgletonに住むWilliam Louisが、銀塩の技術が衰退し、デジタル化が進む今日に、写真の魔法を取り戻すことをねらって再製品化したインク」だという。会場のガラス戸棚には、Louis氏の祖父が開発したという、そのインクの製品見本や使用説明書、プリントのサンプルなどが並べられていた。
正体を明かせば、この「Invisible Ink」なるものは、野村浩の創作物である。野村はこのところ、フィクションとノンフィクションの境界を行ったり来たりする作品を発表し続けているが、今回もその延長上の仕事といえる。いつもながら手の込んだ仕掛けで、写真史の知識がないとつい騙されてしまうこともありそうだ。
だが、問題はむしろその仕掛けよりも、「Invisible Ink」(実際にはサイアノタイプ)の技法によって定着されたイメージのほうではないだろうか。野村はかつて、街中でゴッホの自画像が印刷されたチラシを目にして「生身のゴッホが立ちあらわれたようで、ゾッとした」ことがあるという。その体験を再現するために、ゴッホの画集に収録された自画像を全部複写し、そのいくつかをサイアノタイプでプリントした。それら、ぼんやりと心霊写真のように浮かび上がる、異様に歪んだ顔のイメージは、たしかに強烈な喚起力を備えている。それだけでも充分と思えるほどだが、「Invisible Ink」というフィクショナルな要素を重ね合わせることで、画像のリアリティが逆に強化されているように見えるのが興味深い。それにしても、野村の奇妙なアイディアを次々に思いつく才能には、いつも驚かされる。
2016/01/09(土)(飯沢耕太郎)
渡辺眸「『旅の扉』~猿・天竺~」
会期:2016/01/08~2016/01/24
アツコバルー[東京都]
渡辺眸は1968年に東京綜合写真専門学校を卒業後、東大全共闘や新宿のアングラ・ムーブメントを撮影したあと、1972年からアジア各地を旅しはじめる。今回のアツコバルーでの展覧会では、1970年代から90年代にかけてインド・ネパールで撮影された「天竺」と、ネパールのモンキーテンプルで猿たちと出会ったことで、日本各地でも撮影するようになった「猿」の2シリーズが展示されていた。
渡辺の「天竺」には、不思議な時間が流れているように見える。普通、旅の途上で撮影された写真には、ある種の寄る辺のなさを含み込んだ「通過者の視線」があらわれてくるのではないだろうか。移動のあいだにふと目にとめた事象が、一瞬ののちには消え失せてしまうような儚さがつきまとうということだ。ところが、渡辺の写真に写っている人も動物も風景も、「永遠」といいたくなるような長い時間、そこに留まり続けているように見える。渡辺と被写体との無言の対話の時間が、そこに封じ込められているように思えてくるのだ。それは「猿」シリーズでも同じことで、ネパールや日本各地で撮影された猿たちも、明らかに「永遠」の相を身に纏っているようだ。
今回の展示には、1998年にプリントされたという大伸ばしのデジタル・プリント13点も展示されていた。会場構成のアクセントとしてうまく効いていたのだが、現在のデジタル・プリントと比較するとかなり画像の精度が落ちる。ただ、そのモアレ状になってしまったドットが、逆に面白い視覚的効果を生んでいた。20年近く前のデジタル・プリントが、すでヴィンテージ・プリントとして機能し始めているというのが興味深い。
2016/01/08(金)(飯沢耕太郎)