artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

Ultra Picnic Project「写真の使用法──新たな批評性に向けて」

会期:2015/12/05~2016/12/19

東京工芸大学中野キャンバス3号館ギャラリー[東京都]

「Ultra Picnic Project」は東京工芸大学と武蔵野美術大学による共同研究プロジェクトで、「デジタル環境下における様々な写真の使用法を考察・研究することで、近代写真が追求してきた価値を再考し、これまでとは異なる写真表現の可能性や価値観、教育の可能性を探る」ことを目的として「1年間限定」で展開されてきた。その成果を発表する作品展が「写真の使用法──新たな批評性に向けて」で、プロジェクトの参加メンバーが「批評性」を基準に出品作家を選考し、以下の作家たちの作品が東京工芸大学中野キャンバス3号館のロビー・スペースで展示された。稲葉あみ(高橋明洋推薦)、金村修(圓井義典推薦)、かんのさゆり(丸田直美推薦)、水津拓海(坂口トモユキ推薦)、寺崎珠真(小林のりお推薦)、早川祐太+高石晃+加納俊輔(大嶋浩推薦)の5人+1組である。
かんのさゆりや寺崎珠真のようにキャリアの転換点になるようなクオリティの高い作品を出品している作家もいて、面白い展示だったのだが、何といっても水津拓海の仕事を初めて見ることができたことがよかった。1976年生まれの水津は「年間300日以上秋葉原に滞在して秋葉原とアキバ周辺の文化を撮影している」のだという。秋葉原を訪れる外国人の観光案内にも携わっている。そういう「アキバオタク」の極致というべき眼差しのあり方が、細部まで異常に鮮明な展示作品の、隅々まで浸透していることに驚嘆した。とはいえ、彼の撮影の手法そのものは、むしろ正統的な都市のスナップショットを踏襲している。会場で水津と話していて、彼が土田ヒロミの1970~80年代の都市群集スナップの傑作『砂を数える』(冬青社、1990)に言及したのが興味深かった。土田のフォークロア=人類学的なアプローチが、意外なかたちで受け継がれているということだろう。

2015/12/11(金)(飯沢耕太郎)

リフレクション写真展

会期:2015/12/08~2016/12/19

表参道画廊+MUSEE F[東京都]

湊雅博がディレクションする「リフレクション写真展」も、今年で8回目になるのだという。場所を変えながら「風景」をモチーフにした写真作品という枠組みを守って続いてきたが、今回は東京・原宿の表参道画廊+MUSEE Fで、阿部明子、榎本千賀子、田山湖雪、由良環という4人の女性写真家たちが参加して開催された。
いつもだと、それぞれが自分のテーマで作品を発表する「個展」の集合体という形式なのだが、今年はもっと展覧会としての狙いがはっきりしていた。榎本が新潟(「砂の都市から」)、田山が静岡県の藤枝(「水くぐり」)、由良が東京・羽田空港周辺(「都市の余白─羽田を歩く」)で撮影したシリーズを発表し、阿部がそれぞれの土地のイメージを重層的にコラージュさせた作品(「田・藤枝・新潟・羽」)をそれらに付け加えていく。実際の展示も写真家個々の名前は表示せずに、互いの写真が重なりあい、浸透するようなかたちに組みあげられていた。
そのもくろみが完全に成功していたかどうかは、やや微妙だと思う。解説抜きだと展示・構成のコンセプトがうまく汲み取れないだけでなく、3つの土地のそれぞれから立ち上がってくる気配が、やや強引な写真の配置によって、むしろ希薄になっているようにも感じた。それでも、このような相互浸透的な「コラボレーション」の試みは、彼女たちの写真家としてのキャリアにおいて、貴重な経験になっていくのではないだろうか。次年度以降のさらなる展開を期待したい。

2015/12/11(金)(飯沢耕太郎)

岡部桃「Bible & Dildo」

会期:2015/11/26~2016/12/22

成山画廊[東京都]

岡部桃が2014年に刊行した『Bible』(SESSION PRESS)は、正直気持ちが沈み込む写真集だ。性転換手術後の生々しいイメージに、3・11以後の被災地やインドの光景が混じりあい、重なり合う。赤っぽいハレーションを起こしたような色味に染め上げられたプリントも、吐き気がするようなおぞましさだ。だがそれらの鈍い痛みをこれでもかこれでもかと送り込んでいる写真群を見ているうちに、なぜか奇妙に静まりかえった、柔らかな微光に包み込まれた世界に連れて行かれるような気がしてくる。見続けているのがつらくなるようなイメージの羅列には違いないのだが、そこにはたしかに「これでいいのだ」という肯定感が漂っているのだ。
岡部は1981年、東京生まれ。1999年に写真新世紀で優秀賞(荒木経惟選)を受賞し、2001年には写真ひとつぼ展に入選して注目されるが、その後日本での発表は滞り気味だった。2013年に発表した写真集『Dildo』(SESSION PRESS)と『Bible』がアメリカやヨーロッパで反響を呼び、2015年にはオランダの「Foam’s Paul Huf award」を受賞するなど、その「痛み」に肉薄する表現のあり方が、むしろ海外で高く評価されるようになった。今回の成山画廊での展示は、「深く愛した恋人との家族写真、記憶の記録」である「Dildo」と「死に対する絶望と恐怖」に彩られた「Bible」とが合体した構成であり、点数は12点と少ないが、テンションの高い作品が並んでいた。もう少し大きな会場での展示もぜひ見てみたい。

2015/12/10(木)(飯沢耕太郎)

山端祥玉が見た昭和天皇──摂政から象徴まで

会期:2015/12/01~2016/12/24

JCIIフォトサロン[東京都]

天皇の写真は政治的、文化的にとてもデリケートなテーマといえる。1872(明治5年)に内田九一が最初に撮影した明治天皇の肖像写真は、やがて「御真影」として神格化され、奉安殿に祀られることになる。昭和天皇のイメージも、第二次世界大戦前と戦後ではドラスティックに変化した。戦前、ジーチーサン商会を経営して写真撮影、印刷、プリントなどの業務をおこなっていた山端祥玉は、1945年にサン・ニュース・フォトス社を設立し、宮内庁の嘱託として皇居で天皇一家を撮影した。その中には一家団欒を楽しむ「家庭人」としての姿や、顕微鏡を覗く「科学者」としての写真が含まれており、「人間宣言」した天皇のイメージに沿った内容になっている。これらの写真は『LIFE』誌(1946年2月4日号)にまず掲載され、翌47年に亀倉雄策のデザインによる写真集『天皇』(トッパン)として出版された。
今回のJCIIフォトサロンでの展覧会は、山端の遺族からJCIIに寄贈されたオリジナル・プリントから構成したものである。かつての「御真影」にまつわりつく大日本帝国の君主の負のイメージを払拭し、新たな「民主国家」にふさわしいものに変えていくために、山端らがいかに腐心したかをうかがわせる、興味深い内容の展示になっていた。毎年、年末になると、白山眞理のキュレーションで日本写真史をさまざまな角度から読み解いていく展覧会が開催されているが、今回も意外性に富んだいい企画だった。なお、同サロンの地下のJCIIクラブ25では、「アルス──『カメラ』とその周辺」展が同時開催されていた。北原鐵雄(北原白秋の弟)が経営していた出版社、アルスから刊行された『カメラ』をはじめとする写真雑誌の周辺を細やかに辿る好企画であり、戦前から戦後にかけての写真の大衆化の一断面が浮かび上がってくる。

2015/12/10(木)(飯沢耕太郎)

松江泰治「LIM」

会期:2015/11/28~2015/12/26

TARO NASU[東京都]

松江泰治の目の付け所はさすがとしか言いようがない。「構想10年」だそうだが、世界各地で「墓地」を撮るという素晴らしいアイディアを思いつき、それを完璧に形にしてみせた。ペルーの首都、リマ(「LIM」)で撮影された写真群を中核として、アジア、アフリカ、中近東、ヨーロッパなどに広がっていく作品を見ていると、彼がここで提起している「墓地こそが都市である」というテーゼが、これ以上ないほどの説得力を備えていることがよくわかる。
それにしても、死という不可避的でありながら不条理の極みというべき出来事を、人間たちがいかに手なずけ、社会化してきたかを見るうえで、墓地ほどふさわしい指標はほかにないのではないだろうか。半ば砂に埋もれた石塔のかけらが散らばるサハラの墓地、素っ気ない枕のような造形物が規則的に並ぶイスラム世界の墓地、あたかも人がそのまま暮らしていそうな外観の中南米の墓地等々、各地の墓地のあり方は、そのままそれぞれの土地の社会や歴史の縮小模型のようだ。松江の写真家としての力量と、近年、より柔らかなふくらみを感じさせるようになったカメラワークの冴えが見事に発揮された傑作だと思う。
ただTARO NASUでの展示は「LIM」シリーズから15点+映像作品のみなので(ほかに1990年代のモノクロームの風景作品が15点)、「要約版」という趣でやや物足りない。その全貌は、青幻舎から同時に刊行された同名の写真集で確かめていただくしかないだろう。こちらは、編集、デザイン(秋山伸+榊原ひかり/エディション・ノルト)ともしっかりと組み上げられていて、見応えがある。


《PUQ 141133》 ©TAIJI MATSUE Courtesy of TARO NASU

2015/12/08(火)(飯沢耕太郎)