artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
水谷太郎「new journal」
会期:2013/11/01~2013/11/23
Gallery916 small[東京都]
操上和美の「PORTRAIT」展を開催中のGallery916に付設する小スペースで、水谷太郎の作品を見ることができた。水谷は1975年、東京都出身。東京工芸大学卒業後、主にファッションや広告の分野で活動している。今回が初個展だそうだが、写真家としての能力の高さを感じとることができたのが収穫だった。
展示されているのは、どれも最近撮り下ろしたという3つのシリーズである。「White Out」は、アメリカ・カリフォルニア州を中心に撮影された路上の看板の写真(18点)。タイトルが示すように、それらの看板は白く(あるいはグレーに)塗りつぶされている。何かメッセージが描かれる前の「空白」は、被写体として心そそられるだけでなく、「意味」を消失した現代の社会状況を暗喩的に指し示しているようにも見えなくはない。「New Wilderness」は2枚ずつ対になった風景写真のシリーズ(10点)。撮影されているのは沼、森、火山地帯の岩などだが、水面への映り込みと水中の水草とを多重露光のように捉えたり、写真を逆さに展示したりといった微妙な操作を加えている。ここでも、現代社会における自然観の変容のあり方が、彼の心を捉えているということだろう。それに加えて1点だけ、本業のファッション写真として撮影された、UNDERCOVERのTシャツ(TIME OF RAGEというメッセージが発光LEDで描かれている)を身につけた若者の写真が展示してあった。
関心の幅の広さと、映像化のセンスのよさは、この世代の写真家たちのなかではかなり高度なレベルまで達している。次はテーマの絞り込みと深化が大きな課題になってくるはずだ。
2013/11/01(金)(飯沢耕太郎)
あなたの肖像─工藤哲巳 回顧展
会期:2013/11/02~2014/01/19
国立国際美術館[大阪府]
1994年以来、約20年ぶりとなる工藤哲巳の大回顧展。前回も大規模だったが、今回は総点数約200点と一層のスケールアップを果たしている。その主因は、前回はフォローし切れなかった1950年代・60年代の作品が数多く出品されたことだ。また、20年の歳月が工藤の再評価を進め、国内外の美術館で彼のコレクションが形成されるようになったのも大きい。帰国作品のなかには、《インポ分布図とその飽和点における保護ドームの発生》(ウォーカー・アート・センター蔵)のように、半世紀ぶりに国内公開されたものもあった。このように充実した内容のおかげで、本展では、反芸術から滞欧時代を経て1980年代以降に至る彼の業績をほぼ概観できる。同時に、工藤流ニヒリズムとでも言うべき思想の変遷を窺えるのも見どころだ。他には、大著となった図録の充実ぶりも特筆しておきたい。
2013/11/01(金)(小吹隆文)
写真家 中村立行の軌跡──モノクロの昭和/ヌードの先駆
会期:2013/10/19~2013/11/06
O美術館[東京都]
中村立行(りっこう、1912-95)の名前を知る人は、もうあまりいないだろう。だが、私が写真評論の仕事をし始めた1980年代には、彼はいまだ健在で、『アサヒカメラ』のようなカメラ雑誌にユニークな作品を発表していた。今回の展示は、その中村の初期から80年代に至る代表作約200点を集成したものである。丁寧に編集されたカタログも含めて、日本の写真表現の歴史にユニークな足跡を残したこの写真家に、こうしてスポットが当たるのは素晴らしいことだと思う。
中村立行と言えば、真っ先に思い浮かぶのは1940~50年代に制作・発表されたヌード写真である。1936年、東京美術学校油画科卒業という経歴を活かした、フォルマリスティックなアプローチは、日本のヌード写真の歴史に新たな時代を画するものだった。だが、今回の展示でむしろ大きくクローズアップされたのは、第二次世界大戦中から戦後にかけて精力的に撮影された「モノクロの昭和」の写真群である。学童疎開、焼け跡・闇市の時代をしっかりと見つめ、的確な技術で記録した写真群は、林忠彦の「カストリ時代」に匹敵する貴重な歴史的資料と言える。
もうひとつの重要な仕事は、1973年にキヤノンフォトサロンで展示された「路傍」である。広角レンズで、道端のさまざまな情景を切り取っていくこのシリーズを、中村本人は「モク拾い写真術」と称している。特定の主題にこだわることなく、路上をさまよいながら、琴線に触れる情景を拾い集めていくスタイルは、同時代の「コンポラ写真」にも通じるものがある。60歳代という年齢を感じさせないういういしい、だが強靭な視線が印象的だ。本展では、実際にキヤノンフォトサロンに展示されたパネル貼りのプリント30点が、そのままの形で並んでいて、フレームにおさまったほかの作品にはない、ざらついた手触り感が異彩を放っていた。
2013/10/29(火)(飯沢耕太郎)
森村泰昌「レンブラントの部屋、再び」
会期:2013/10/12~2013/12/23
原美術館[東京都]
森村泰昌が1994年に原美術館で開催した「レンブラントの部屋」展は、いま振り返ると彼の作品世界の展開において大きな転機となった展覧会だった。80年代~90年代初頭の「美術史シリーズ」において、批評性と遊戯性を融合させた軽やかなステップを踏んでいた彼は、この「レンブラントの部屋」で自らの身体と精神の裂け目を強引に押し開いていくような作風に転じていく。それは90年代後半以降の「女優シリーズ」や「なにものかへのレクイエム」の生々しく、痛々しいほどに直接的な表現へとつながるものだったと言えるだろう。
今回はその1994年の個展の再演でだが、レンブラントの油彩画やエッチングを元にした23点のほかに、「烈火の季節/なにものかへのレクイエム(MISHIMA)」(2006)、ゴヤの「ロス・カプリチョス」を演じた「今、こんなのが流行ってるんだって」(2005)など、近作も数点加わっている。だがなんといっても、レンブラントの魂が憑依したような、森村の鬼気迫るパフォーマンスが見物と言えるだろう。
とりわけ凄みを感じるのは、最後の部屋に展示された作品「白い闇」である。レンブラントの「屠殺された牛」(1655)をモチーフにしてはいるが、吊り下げられた肉塊の横に、顔に醜いいぼいぼのメーキャップを施し、ハイヒールを履いた素っ裸の森村泰昌が立ちつくすという構図は、衝撃的としかいいようがない。森村はこの作品で、美術史からの引用という手法を踏み越え、逸脱していったのではないだろうか。「白い闇」というタイトルには、蝋燭から白熱電灯、蛍光灯へ、そして絵画から写真、映画、TVモニターへという近代文明の発展の帰結として、原子爆弾の炸裂があったのではないかという問いかけが込められているという。「3.11」そして「FUKUSHIMA」を経験した現在、その寓意性はより鋭い刃となって観客を切り裂く。
2013/10/29(火)(飯沢耕太郎)
牛腸茂雄『見慣れた街の中で』
発行所:山羊舍
発行日:2013年9月1日
山羊舍から限定500部で刊行された『見慣れた街の中で』は、牛腸茂雄の作品世界を新たな角度から読み解いていくきっかけになる写真集ではないだろうか。『見慣れた街の中で』は、『日々』(関口正夫との共著、1971)、『SELF AND OTHERS』(1977)に次ぐ、牛腸の3冊目の写真集で、1981年に刊行された。83年の逝去の2年前、生前の最後の写真集になる。写真集には、東京や横浜で撮影されたカラー写真によるスナップショット47点がおさめられている。ところが、写真集刊行後の82年に東京・新宿のミノルタ・フォトスペースで開催された同名の個展には、74点の作品が展示されていた。今回の新装版の『見慣れた街の中で』には、その写真集に未収録だった27点が加えられた。さらにスキャニングと印刷の精度が上がったことにより、牛腸が撮影したカラーポジフィルム(コダクローム)の色味が、より鮮やかによみがえってきている。
最大の驚きは、新たに付け加えられた27点の写真が発する異様な力である。むろん、内容的には、これまでの写真群とそれほど大きな違いがあるわけではない。だが、より曖昧で浮遊感の強い写真が多いように感じる。牛腸は旧版の『見慣れた街の中に』の序文に「そのような拡散された日常の表層の背後に、時として、人間存在の不可解な影のよぎりをひきずる」と記している。彼の言う「不可解な影のよぎり」は、確かにこのシリーズの基調低音と言えるものだが、それが写真集の巻末に収められた27点では、よりくっきりとあらわれてきているのだ。特に街の雑踏から子どもたちの姿を切り出してくる眼差しに、ただならぬこだわりを感じてしまう。本書の刊行によって、牛腸が『見慣れた街の中で』で何を目指していたのか、そしてそれが彼の最晩年の仕事となった『幼年の「時間(とき)」』のシリーズにどうつながっていくのかを確かめていくことが、今後の大きな課題として浮上してきたと言える。
2013/10/26(土)(飯沢耕太郎)