artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
横須賀功光/エドヴァ・セール「Shafts & Forms」
会期:2013/09/21~2013/11/22
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
EMON PHOTO GALLERYでは、2003年に亡くなった横須賀功光が遺した作品を定期的に発表している。今回は1964年の日本写真批評家協会新人賞の受賞記念展で最初に発表され、広告写真家としての彼のイメージを刷新した「射」(Shafts)シリーズから12点(ほかに「光学異性体」「光銀事件」から1点ずつ)が展示されていた。
注目すべきなのは、横須賀の写真とともにフランスの女性彫刻家、エドヴァ・セールのブロンズ彫刻作品が展示されているということだ。有機的なフォルムの物体が連なって形をとっていくセールの彫刻作品は、「射」の写真群ととてもうまく釣り合っているように感じた。金属製のオブジェを撮影した「射」は、横須賀の写真のなかでも最も抽象度の高い、見方によっては彫刻的と言える作品だからだ。
ただし横須賀がこのシリーズでもくろんでいるのは、オブジェそのものよりも、その周囲に広がる反射光の偶発的なヴァイブレーションを、銀塩のフィルムに定着することであり、一見彫刻のように見えるオブジェは、その「光銀事件」を引き起こすための装置にほかならない。その意味ではセールの「純粋彫刻」とはまったく質が異なる作品と言える。だが、逆に違ったタイプの作品が併置されていることで、活気あふれる展示空間が成立していたと思う。今回のような異種格闘技の展示は、横須賀の写真に限らず、これから先もっと積極的に企画されてよいのではないだろうか。
2013/10/09(水)(飯沢耕太郎)
熊谷聖司「はるいろは かすみのなかへ」
会期:2013/09/21~2013/11/03
POETIC SCAPE[東京都]
1994年、神奈川県の森戸海岸のひと夏を撮影した「もりとじゃねいろ」で第3回写真新世紀グランプリを受賞して以来、熊谷聖司は着実に写真家としての歩みを進めている。派手な活躍をしているという印象はないが、自費出版的なものも含めて、これまでに出した写真集、開催した個展の数だけでも相当多数になるのではないだろうか。
今回の「はるいろは かすみのなかへ」は2008年以来、故郷の北海道函館に近い大沼国定公園を、四季を追って撮影し続けているシリーズの第4作にあたる。「あかるいほうへ」(2008)、「鳥の声を聞いた」(2010)、「神/うまれたときにみた」(2011)と続いてきたこの連作も、夏、秋、冬と季節が巡り、今回の春のシリーズで完結することになる。熊谷はほかに、身近な場所を撮影し続けているスナップショットを、日々積み上げつつあるが、この風景写真のシリーズは、彼の創作活動のもうひとつの柱となっているように思える。
「風景」といっても、それほど仰々しいものではない。カメラを手に森や沼のほとりを歩き回る熊谷の足取りは軽やかで、肩に力を入れず、自然体でシャッターを切っている。今回の展示作品では、水面に細かな模様を描くさざ波やたなびく霞などが、写真家と被写体との間の距離をじんわりと溶解し、穏やかな対話が成立しているように感じた。写真という表現媒体を慎ましく、だが確実に使いこなしていこうとする熊谷の営みは、いまや実り豊かな収穫の時期を迎えつつあるのではないだろうか。
2013/10/06(日)(飯沢耕太郎)
須田一政「凪の片(なぎのひら)」
会期:2013/09/28~2013/12/01
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
須田一政のような写真家の作品を見ていると、どうしてこのような光景を確実に捉えることができるのかと不思議に、というよりは不気味に思えてくる。見慣れた眺めの中に見慣れぬ異界を嗅ぎ当てる能力なのだが、その確率があまりにも高いことに驚きを抑えきれなくなってくるのだ。やはり、何かこの世ならざるものを「呼び込む」力が異様に高いとしか言いようがないだろう。
今回の東京都写真美術館の展示は、須田の代表作を集成した本格的な回顧展である。よく知られている「風姿花伝」をはじめとして、「物草拾遺」「東京景」など、1970年代に6×6判のフォーマットで撮影したモノクロームプリントがひしめき合うように並ぶ。嬉しいのは、まだ写真家として本格的に活動し始める前の1960年代に撮影された「恐山へ」と「紅い花」のシリーズが展示されていることだ。35ミリ判から6×6判への移行期に撮影されたこれらの写真群にも、すでに背筋をゾクゾクとさせるような気配を発する異物を、的確につかみ取っていく能力が充分に発揮されていたことがよくわかる。
なんといっても圧巻なのは、会場の最後のパートに展示されていた新作の「凪の片」のシリーズ。以前は被写体を剃刀のように鋭く切り裂いていた視線の強度がやや弛み、そのことによって、逆に形を持たない何やら魑魅魍魎のようなものたちの気配が、画面の至る所からわらわらと湧き出してきているように感じる。いや、もはや須田一政その人が、なかば魑魅魍魎と化しているのではないだろうか。怖い。だが、知らず知らずのうちに引き込まれていく。
2013/10/06(日)(飯沢耕太郎)
渡辺眸「Tenjiku」
会期:2013/09/06~2013/10/12
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
渡辺眸は鈴木清(1943年生まれ)とほぼ同世代の1942年生まれ。本展でも、彼女が1970年代に撮影した「ヴィンテージ・プリント」がまとめて展示されていた。写真家が被写体を撮影してから、あまり間を置かずにプリントされた印画を、希少性を鑑みて「ヴィンテージ・プリント」と称するのだが、最近はその価値が広く認められ、販売価格も上がりつつある。あまり偏重しすぎるのも考えものだが、確かに「ヴィンテージ・プリント」は魅力的ではある。今回の渡辺の展示でも、やや色褪せ、黄ばんだ風合の印画紙が、過ぎ去って降り積もっていく時の象徴のように、燻し銀の輝きを放っていた。
タイトルの「Tenjiku(天竺)」は言うまでもなくインドの古名だが、どこか魔法めいた響きがある。渡辺は1970年代によくインドを訪れ、前半(1972~73年)は主にモノクロームで、後半(1976年~)はカラーでスナップショットを撮影していた。渡辺の写真のなかにも、魔法がかかっているような場面がたくさん写っている。牛、山羊、鴉やニワトリ、象などの動物と人間たちの世界は渾然一体になっており、そこでは人間は動物のように、動物は人間のように見えてくるのだ。
そのような神秘的、アミニズム的な雰囲気は、どちらかと言えばモノクロームの写真の方に色濃い。カラーになると、生活感、現実感が増してくるように思える。だが、より体温に近い状態で撮影されたカラー写真のインドの光景にも、また違った面白さがある。光と闇の両方の側から湧き出てくるような色彩が、みずみずしい生命力で渦巻き、流れ出てくるからだ。
2013/10/04(金)(飯沢耕太郎)
鈴木清「流れの歌 夢の走り」
会期:2013/09/27~2013/10/26
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]
2000年に亡くなった鈴木清の写真の仕事は、2008~09年にオランダ、ドイツを巡回した「Kiyoshi Suzuki: Soul and Soul 1969-1999」展や、2010年に東京国立近代美術館で開催された「鈴木清写真展 百の階梯、千の来歴」展によって、彼の生前の活動を知らない世代にも受け入れられつつある。今回のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムの個展では、最初の写真集である『流れの歌』(1972)、およびグラフィック・デザイナー、鈴木一誌と組んで写真集づくりに新たな局面を見出していった『夢の走り』(1988)収録の写真が展示されていた。
今回特に重要なのは、写真集には収録されなかった作品が、「ヴィンテージ・プリント」として展示してあったことだ。たとえば、『流れの歌』の表紙にも使われている、洗面器の底に貼り付いたつけ睫毛の写真のヴァリエーションと思われる作品がある。上下2枚の写真が組み合わされていて、上には虫眼鏡で拡大したメンソレータムの容器が、下には洗面器と髪を洗う女の姿(当時同居していた妹さんだろう)が写っている。いかにも鈴木らしく、身の周りの状況を独特の角度から切り取ったいい作品だが、僕の知る限り、この写真は雑誌等にも未発表のはずだ。おそらく鈴木が写真集を編集する段階で候補作としてプリントし、最終的には使用しなかったものだろう。
このような写真が出てくるのは嬉しい驚きだが、反面やや心配なのは、鈴木の仕事の全体像がまだ確定していないこの時期に、プリントとして販売されてしまうと、今後のフォローが難しくなるのではないかということ。とはいえ、展示を積み重ねていくことで見えてくることもたくさんあるはずで、より若い世代のなかから、彼の写真をしっかりと検証していく動きがあらわれてくるといいと思う。
2013/10/04(金)(飯沢耕太郎)