artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

「T」大崎のぶゆき

会期:2013/09/17~2013/09/28

galerie 16[京都府]

水溶性の紙にペイントし、水の中に浸してイメージが溶解・崩落する様を撮影した映像作品や、壁紙の模様が溶け落ちる映像作品で知られる大崎のぶゆき。昨年に大阪で開催した個展では自分自身を題材にして「記憶」という要素を加味したが、本展ではその発展形とも言うべき新作が展示された。それは、友人Tに子ども時代の記憶を取材し、大崎自身がTの記憶をトレースするというものだ。具体的には、取材で聞き出した場所に実際に出かける、インターネットで情報を収集するなどの行為を行なったが、その過程で浮き彫りになったのは、Tの記憶が極めて曖昧なことだった。つまり人間の記憶はリアルとフィクションがミックスされているのである。作品は、Tから提供された記憶にまつわる写真、関連する物体、大崎の映像とスチール写真で構成されていた。リアルとも、フィクションとも、その両方とも言い難い作品世界を見ていると、はなはだ不安定な浮遊感に襲われる。しかし、その感覚は不快ではなく、むしろ甘美さを伴っているのだ。この両義的な感覚こそが本展の核心であろう。

2013/09/17(火)(小吹隆文)

秦雅則「Thanksgiving on summerday?」

TS4312[東京都]

会期:2013年9月6日~29日(金、土、日曜のみ)

以前「秦雅則は不思議な生きものだ」と書いたことがあるのだが、今回東京・四谷三丁目のTS4312で展示された彼の新作を見て、その思いがさらに強まった。発想と、それを形にしていく手続きの両方に、独特の歪みとバイアスが働いているように感じるのだ。
今回のメインとなるDVD作品は、男女両性具有の二人の「神」を表象しているのだという。例によって何人かの男女の顔やボディをパソコン上で継ぎはぎし、ぎくしゃくとした動きを加えている。「神」の周囲には色鮮やかな花々が咲き乱れ、それらが生成と消滅をくり返している。反対側の壁に8組のポートレート作品が並ぶが、これもどうやら複数のモデルの顔のパーツを繋ぎ合わせたもののようだ。片方の顔は、やや苦しげで沈痛な表情が多いが、対になるもうひとつの顔の前には、「神」の周囲に咲いていた花が開き、笑顔や安らぎの表情に変わっている。それとは別に、なぜかメスとオスのグンジョウツノカミキリを一対にした作品も展示されていた。
これらの作品が何かの寓意を表現していることは確かだが、テキストがほとんどないので、解釈は鑑賞者にゆだねられている。とはいえ、秦が組み上げた「神や神らのいたずら」の物語に、奇妙なリアリティと説得力が備わっていることも確かだ。「神」にも人間たちにも、どこかで見たことがあるような既視感と、気味が悪いほどの生々しさがある。パソコンの画面上にのみ存在するこの神話空間を、もう少し緊密に創り続けていくと、とんでもないスケールの大きさを備えた作品世界が生まれてきそうな予感もする。

2013/09/15(日)(飯沢耕太郎)

瀬戸正人「Cesium/Cs-137」

会期:2013/09/11~2013/09/24

銀座ニコンサロン[東京都]

福島県出身の瀬戸正人は東日本大震災から約1年後の2012年2月に、大事故があった福島第一原子力発電所の敷地内に入った。フランスの環境大臣の視察があるというので、ある通信社の依頼で立ち入り禁止の区域内を撮影したのだ。その時、タイベックスーツのマスクごしに見た海辺の眺めは、「美しいといえばこの上なく美しい光景」だった。事故によって撒きちらされたはずの放射性物質(セシウムの量は約35キログラム、チェルノブイリ原発事故の約半分)が、まったく「見えない」ことにむしろ衝撃を受けた瀬戸は、その「恐怖なるモノを写真として可視化したい」と考えて、福島県内の山林、河川、田畑などにカメラを向けるようになる。今回銀座ニコンサロンで展示された「Cesium/Cs-137」(11月7日~13日に大阪ニコンサロンに巡回)は、それらの写真群を集成したものだ。
特に力が入っているのは、黒く縁取られた大判プリントに引き伸ばされた16点の作品で、水の底に沈む植物の根、地面に降り積もった落ち葉、枯れ木などがクローズアップで捉えられている。そこにはむろん、「眼に見える恐怖」の対象としてのセシウムの姿は影も形も見えない。だが、その腐敗臭が漂うような黒々とした眺めは、むしろ別の思いを引き出してくるようにも思える。水底へ、地の底へと止めどなく引き込まれ、われわれの世界を構成する物質そのものが形をとってくる場面に立ち会っているような、驚きとも恐怖ともつかない感情の湧出を、瀬戸自身が戸惑いつつ受け入れているようなのだ。
もう少し時を置かないとはっきりとはわからないが、写真家・瀬戸正人の転換点となりうるシリーズではないだろうか。なお展覧会に合わせて、Place Mから同名の写真集が刊行されている。

2013/09/15(日)(飯沢耕太郎)

平野正樹 写真展 After the Fact

会期:2013/09/14~2013/11/09

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

写真家の平野正樹は、近年、「Money」シリーズに取り組んでいる。これは、交換価値を失った紙幣や株券、証券、債権証書などの画像を取り込み、克明に拡大したもの。裏表の両面を上下に配し、背景にはそれらを部分的に引用した図像を反復させている。
今年の4月に東京・表参道のギャラリー、PROMO-ARTEで催された個展では、リーマン・ブラザーズをはじめとする諸外国の紙幣・証券類を展示していたが、本展の展示物は満鉄の株券や徴兵保険の証券など、帝国主義時代の日本に限定されていた。なお、「Money」のほかに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの家屋に撃ち込まれた銃弾の痕跡をとらえた「Holes」、アルバニアの国内に現存する戦時中のトーチカを収めた「Bunkars」、東ティモールの内戦で打ち破られた窓を主題にした「Windows」も併せて発表された。
政治的・社会的な主題と正面から向き合った写真が一堂に会した会場は、壮観である。展覧会のタイトルに示されているように、それらの写真には過去への志向性が強く立ち現われていたが、同時に現在との接点がないわけではなかった。たとえば壁面に立ち並んだ「Money」は交換価値を失った点で墓標のように見えたが、その一方で生と死の狭間を漂うゾンビのようにも見えた。というのも、「Money」を眼差す私たちの視線には、たんなる追慕や郷愁を上回るほどの交換価値への欲望が明らかに含まれているからだ。「Money」は死んだ。しかし、それらを成仏させないのは、私たち自身にほかならない。会場の天井付近に設置された「Money」は、まさしく生と死の境界を彷徨っているかのようだった。
平野正樹は1952年生まれ。思えば、この世代の優れたアーティストはあまりにも正当に評価されていないのではないか。トーチカを撮影した写真家といえば下道基行が知られているが、平野の「Bunkars」は彼よりはるかに先行している。「Money」にしても、スキャナーによって画像を取り込むという手法は、カメラを暗黙の前提とする従来の写真から大きく逸脱している点で画期的である。

2013/09/14(土)(福住廉)

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藤井豊『僕、馬』

発行所:りいぶる・とふん

発行日:2013年6月21日

東日本大震災から2年半が過ぎ、アーティストたちが未曾有の事態にどのように反応し、作品として結晶させていったかも、かなりくっきりと見えてきた。だが今回、仙台の古書店「火星の庭」で、藤井豊の写真集『僕、馬』を何気なく手にして、油断することなく網を張り、探索を続けていかなければならないことがよくわかった。それはまさに「こんな所にもこんな表現が芽生えていたのか!」という驚きと感動を与えてくれる作品集だったのだ。
藤井は1970年岡山県生まれ。独学で写真を学び、沖縄や東京での活動を経て2002年に岡山に帰郷した。彼は震災のひと月後の2013年4月11日から5月20日にかけて、何かに突き動かされるように青森、岩手、宮城、福島の沿岸部から内陸に抜ける旅に出る。その「おおむね鉄道、徒歩、車による」旅の途上で、ずっとモノクロームフィルムで撮影を続けた。今回の写真集は、それらのネガから厳選した約200カットを、ほぼ旅の日程に沿って並べ直したものだ(編集、レイアウトは扉野良人)。
気負いなく撮影されたスナップショットであり、ドキュメントとしての気配りよりは、自分が見た(経験した)出来事を、そのまま何の修飾も加えず提示しようという意志が貫かれている。にもかかわらず、それらの素っ気ないたたずまいの写真群には、同時期に撮影された他の写真家の作品には感じられないリアリティがある。沿岸部の瓦礫や津波の生々しい爪痕はもちろん写っているが、それ以上に藤井が、遅い春を迎えて一斉に生命力を開花させようとしている植物群や、日常を取り戻しつつある人々の営みに、鋭敏に反応してシャッターを切っている様子が伝わってくるのだ。
このような、下手すれば埋もれていきかねない写真家の営みが、こうして写真集として形をとり、京都(メリーゴーランド京都)と東京(ブックギャラリーポポタム)で同名の展覧会も開催されたのは素晴らしいことだと思う。『僕、馬』というタイトルもなかなかいい。これはおそらく、藤井自身が青森県のパートに登場する野生馬に成り代わって、東北を旅したことを暗示しているのだろう。

2013/09/08(日)(飯沢耕太郎)