artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
石塚公昭「Don’t Think, Feel!寒山拾得展」
会期:2022/10/13~2022/11/06
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
本業は人形作家である石塚公昭の写真作品は、ほかに類例を見ないユニークなものだ。彼はまず、実在の作家、ミュージシャンなどだけでなく、物語の登場人物など架空の存在も含めて、彼らをモデルとした精緻かつリアルな人形を作成する。それらを撮影し、背景や小道具などの画像と併せて画面に自在に配置し、あたかも活人画の舞台のような場面を作り上げていくのだ。今回は寒山拾得、蝦蟇仙人、鉄拐仙人、達磨大師、一休宗純など、中国や日本の神話、伝説、説話などに登場する人物たちにスポットを当て、なんとも奇妙なイメージの世界を織りあげている。
これらの仕事は、もはや写真作品の範疇を超えている。とはいえ、その画像形成のシステムを、写真的なプロセスに委ねていることも間違いない。写真と絵画のはざまの表現というよりは、石塚の脳内に花開いたイメージ世界を忠実にプリントアウトした作品としか言いようがないだろう。前回のふげん社での個展「椿説 男の死」(2020)では、三島由紀夫という特定の個人に収束する作品が展示されていた。今回は幅広い題材を扱っているため、やや印象が拡散してしまったことは否定できない。だが逆にその分、石塚の脳内世界がより活性化し、自由奔放に伸び広がりつつあるともいえるだろう。
技術的にはまだ完成途上のものもあり、主題についてもいろいろなアイディアが蠢いてきているようだ。さらなる展開が期待できるのではないだろうか。
公式サイト:https://fugensha.jp/events/221013ishizuka/
2022/10/26(水)(飯沢耕太郎)
大森克己「山の音─sounds and things vol.3」
会期:2022/10/20~2022/10/30
MEM[東京都]
大森克己がMEMで2014年、2015年に「sounds and things」と銘打って開催した連続展は、写真と言葉、見えるものと見えないもの、時間と空間などの意味を問い直す、意欲的な展覧会だった。コロナ禍による空白の時期もあり、やや間を置いて7年ぶりに開催された本展にも、その延長上にある作品が出品されていた。だが、前回と大きく変わったのは、スマートフォンで撮影された作品がかなりの比率で登場してきていることだろう。
大森に限らず、スマートフォンの普及が写真の撮り方、見せ方、伝え方を大きく変えつつあることは間違いない。だが、SNSなどにアップされる写真画像についてはよく言及されるのだが、それがギャラリーでの展示や写真集などを含めた写真表現のあり方にどんな影響を及ぼしつつあるのかについては、まだ未知の部分が大きい。大森は元々、写真や言葉によるコミュニケーションのあり方に、鋭敏に反応してきた写真家であり、スマートフォンを使った写真の可能性をかなり強く意識しているのではないかと思う。そのことが、「暮らしのなかで自然光で撮影された写真群」を中心にした壁面の構成、及びボックス状のデスクに、スマートフォンの画面と同じ大きさにプリントしたたくさんの写真をアトランダムに収め、観客が自由に手にとって見ることができるようにしたインスタレーションによくあらわれていた。「スマホとSNSの時代」の写真のあり方が、どんな風に動いていくのかを、あらためて問いかける展示といえるだろう。
なお展覧会に合わせて、大森が1990年代以来書き継いできたエッセイ、対談などを収録した『山の音』(プレジデント社)が刊行されている。
公式サイト:https://mem-inc.jp/2022/09/28/221016omori/
2022/10/26(水)(飯沢耕太郎)
川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり
会期:2022/10/08~2022/12/18
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
2012年に東京都写真美術館で開催された「照度 あめつち 影を見る」以来の、川内倫子の10年ぶりの大規模回顧展となる本展は、やや盛り沢山すぎるほどの充実した内容だった。区切られた部屋ごとに、「Halo」「4%」「One surface」「An interlinking」「Illuminance」「光と影」「A Whisper」「あめつち」「M/E」「やまなみ」といったシリーズが並んでいるのだが、そこには旧作と新作、プリントとスライド映写が入り混じっており、「Illuminance」のような二つのスクリーンに映し出す純粋な映像作品もある。川内の作品の幅が近年大きく拡張し、ごく身近な事象から、無限の広がりをもつ宇宙大の空間までを含みこむ、多次元性を備えつつあることがよくわかる展示だった。
とはいえ、川内の作品世界を貫く基本原理は、デビュー写真集であり、2002年に第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した『うたたね』(リトルモア、2001)以来、あまり変わっていないのではないのだろうか。それは今回の展覧会のために組み上げられた新作「M/E」を見ればよくわかる。タイトルのMはMother、EはEarthであり、「母なる大地」というコンセプトの下に、アイスランドや北海道で撮影されたスケールの大きな風景写真が並ぶ。だが、その反対側の壁には、「コロナ禍の日常」に目を向けたプライヴェートな写真群が展示されていた。いわば神話的ともいえるような次元と、具体性を帯びた触覚的な世界とが、写真という媒体を通じて共振しあっているような作品世界を、彼女はデビュー以来、20年以上にわたって練り上げてきたということだろう。
とても興味深かったのは、同時期に東京都写真美術館で開催されている野口里佳の個展「不思議な力」との共通性を、多くの展示作品から感じたことだ。川内は1997年に第9回写真『ひとつぼ展』でグランプリを受賞し、野口は1995年の第5回写真『ひとつぼ』展、及び96年の第5回「写真新世紀」展でグランプリを受賞して、ほぼ同時期に写真家としての第一歩を踏み出した。初めの頃はかなり隔たった作風と感じていたのだが、時を経るにつれて、とりわけ家族を含む身近な被写体に向けられた親密な、だが時には過激な「実験」を試みるような眼差しのあり方が、重なり合って見えてくるようになった。二人の写真のなかに、1990年代以降の日本の写真家たちの表現の可能性が、最大限に凝縮して宿っているようにも思える。
公式サイト:https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp
関連レビュー
野口里佳 不思議な力|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2022年11月15日号)
2022/10/25(火)(飯沢耕太郎)
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 総評
会期:2022/10/01~2022/10/23
ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、THEATRE E9 KYOTO、京都市京セラ美術館、京都中央信用金庫 旧厚生センターほか[京都府]
コロナ禍で制限されていた海外アーティスト招聘が2年ぶりに実現し、充実のプログラムだったKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)。本稿では、「ニューてくてく」という柔軟かつ深い思考の広がりを促すキーワードの下、全体的な総評を述べる(なお、梅田哲也『リバーウォーク』、フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』、松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』については個別の評を参照されたい)。
「歩き続ける身体」のイメージを「境界」との接触面として提示するのが、ミーシャ・ラインカウフの映像展示と、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナス with 志賀理江子のビジュアルコンサート『Bipolar』。ミーシャ・ラインカウフの《Fiction of a Non-Entry(入国禁止のフィクション)》は、光のゆらめく海底をゆっくりと歩む人影が映る、幻想的で美しい映像作品だ。ラインカウフは、イスラエルとヨルダン、ジブラルタル海峡のスペインの飛び地とモロッコの間など、陸路では越境困難な国境を、「海中を歩く」ことで自由に横断してみせる。だが、酸素ボンベの重みや水圧に耐えながら歩む姿は、逆説的に、見えない圧力や不自由さを感じさせる。フーコーが指摘するように、規範や抑圧を個人が内面化し、不可視化されることで権力は完成する。そのとき、「歩行」という日常的かつシンプルな行為は、意志表明や抵抗の手段としての行進やデモを示唆すると同時に、水中に吐き出される息の泡は、「聴こえない声」を可視化する。
『Bipolar』では、メルツバウ、バラージ・パンディ、リシャール・ピナスによる(事前に耳栓が配られるほどの)爆音の演奏のなか、巨大スクリーンに志賀理江子の新作映像が投影される。闇に浮かぶコンクリートの「一本道」を、ひたすら歩き続ける人物が映る。それは東日本大震災後に建設された巨大な防潮堤だが、津波の轟音にも、人の叫び声にも聴こえる有機的な音を「振動」として身体に浴び続けているうち、生と死の境界線や異界への通路にも見えてくる。フラッシュバックの嵐のように、視認不可能なほどのスピードで、不穏な写真が連射される。崖の上で何かを掘り返す人。回転して螺旋を描く掘削機械。「復興事業」という名の利潤追求か、何かを隠蔽するための穴を掘っているのか。光で顔を消されたポートレート。被写体を強制的に「死者」「亡霊」に転移させる写真の暴力性。上演時間をカウントする赤い数字が滲み、時間が融解していく。ジェット機のエンジンの轟音のようなノイズが「もうすぐ離陸するぞ」と叫び、防潮堤を異界への滑走路へと変える。寄せては返し、マグマのように沸き立つ赤い波の映像が冒頭と終盤で繰り返され、音のループや反復とともに、トラウマの回帰や非線的に失調した時間を示す。その奔流をせき止めようとする防潮堤は、死者や異界との境界であると同時に、「一直線の道を歩く」行為は(音楽がもつ)リニアな時間構造や「前進」を示唆し、極めて多義的だ。
一方、物理的な歩行や「電話の向こうの知らない誰かと通話する」といった観客自身の能動性を作品成立要件とする体験型の作品群(梅田哲也、ティノ・セーガル、サマラ・ハーシュ)も、今年のKEXの特徴だった。特に、「歩行による移動が視線の定位を揺さぶり、新たな視点の獲得をもたらす」ことを体感させるのが、森千裕と金氏徹平によるアートユニット「CMTK」の屋外展示だ。森が都市の断片を収集した写真を金氏がコラージュし、大型のレンチキュラー印刷で出力。見る角度でイメージが移ろい、視点の唯一性を軽やかに撹拌する。
また、歩行を伴う身体的なリサーチに基づく語りと舞台上でのモノの配置換えにより、観客に想像上の旅をさせるのが、リサーチプログラム「Kansai Studies」の成果として上演された、建築家ユニットdot architects & 和田ながらの『うみからよどみ、おうみへバック往来』。大阪湾から何本もの川を逆流して琵琶湖へいたる水の旅、明治の近代化事業である疎水運河、治水工事による人工河川など「琵琶湖を起点とする水のネットワーク」が、木材、石、鉄板、流木、飲料水のペットボトルなどの配置を組み替えながら語られ、観客が想像上の「マップ」とともに旅する感覚を触発すると同時に、実際に舞台上で工具を用いて「土木工事」を演じて見せた。
一方、より政治的な位相で、客席にいながらにして「視線の定位」を揺さぶられる体験が、ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だった。開演前、「観光客」として舞台上に歓待された観客は、「神格化された絶対的権威」として舞台空間に氾濫する演出家の顔写真/タイの王室プロパガンダ批判を経て、終盤、タイとミャンマーの俳優たち自身が舞台上で語られる軍事クーデター反対デモの当事者であることを知る。そのとき突きつけられるのは、「日本人観光客」と同質の消費の眼差しを舞台に向けているのではないかという倫理的な問いだ。
ほかの海外の演劇作品も充実だった。フォースド・エンタテインメント『リアル・マジック』では、3人の俳優が、司会、出題者、解答者の役を順番に入れ替えながら、「テレビのクイズ番組」のワンシーンを延々と反復し続ける。「正解は明らかなのに、(あえて)間違った答えを言い続ける」不条理なループ構造。くどい「笑い声」のSEの効果もあいまって、「クイズ番組の視聴者=舞台の観客」のメタ的な二重性のうちに、「何が“正解”なのか麻痺した異常状態の常態化」がじわじわと浸透してくる。しかも果てしなく連呼されるのは、「消費」「資本主義」「セクシズム」を端的に示す3つの単語だ。
そして、アーザーデ・シャーミーリーの静かな会話劇『Voicelessness ─声なき声』が扱うのは、「死者の声(抑圧された者の声)を聴くこと」の可能性と倫理性だ。「2070年のイラン」という近未来の設定下、主人公の若い女性は、50年前の祖父の失踪事件の真相を突き止めるため、自作の装置を用いて昏睡状態の母と会話する。物理的な死者と、昏睡状態すなわち「声を封じられた者」。だが、「こだま」の反響が身体を離れても存在可能な声であるように、彼らの「遅れて届いた声」は受信可能なのではないか。「声の復元」の試みは同時に、「隠された過去を暴く」という倫理的問題との両義性を帯びる。また、「病前の母親の姿をデータ再生した映像」は、紗幕のスクリーンの向こう側に立つ生身の俳優によって亡霊的に演じられる。娘と母を隔てるスクリーンは、母娘の確執、生者と死者の隔たりを可視化すると同時に、現実の反映/遮蔽して見えづらくする装置でもあり、両義的だ。「SF」の設定だが、「科学的」説明もそれらしきギミックも登場しない本作は、「演劇」自体が、「語る」装置であること以上に、「他者の声を聴く」ためのものでもあることを示唆する。そして、死者、抑圧・忘却された者、未だ生まれざる胎児など「聴こえない声」の可視化への希求という点で本作は、海中を歩くラインカウフの映像と歩みを共にするのだ。
公式サイト:https://kyoto-ex.jp
2022/10/23(日)(高嶋慈)
川内倫子:M/E 球体の上 無限の連なり
会期:2022/10/08~2022/12/18
東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]
意図的にフレアを起こし、柔らかな光とともに対象物を切り取る。写真家、川内倫子の作品といえば、こうしたイメージが強かった。が、本展を観て改めて感じたのは、彼女が表現しているのはそんな小手先の技法ではもちろんなく、あらゆる生命の営みであり、その尊さであるということ。もっと言えば、人新世の世界を写しているのではないかと思い至った。
2019年にアイスランドで撮影した氷河や滝、火山が、本展タイトルにもなった新作シリーズ「M/E」の始まりだと川内は解説する。これは「母なる大地(Mother Earth)」の頭文字であり、また「私(Me)」でもあるという。つまり雄大な自然の姿も、個人の日常の風景も、彼女にとっては一直線につながる地球上の出来事なのだ。この論理こそが、人新世にほかならない。人新世とは人類の活動によって生物多様性の喪失や気候変動、さらに人工物の蓄積などで地球上に新たな地質学的変化が起こり始めた現代を含む時代区分を指す。その思想的影響はアート界にも及んでいる。アートでは自然環境破壊を声高に嘆くというより、むしろあるがままの現象を受け入れ、それを自ら咀嚼して表現に変えていることの方が多い。いわば自然と人工物とが共存する姿を捉え、それを示そうとする。彼女の作品にも同様の試みを感じるのだ。
地球の果てで起こる自然現象に対して畏怖の念を抱く一方で、自らの足下にも同等の視線を注ぎ、幼い我が子の成長や日向でりんごの皮を剥くことを愛おしく思う。現代人にとって自然と人工物との区別はないのが当たり前で、川内はそれらを一貫して生命の営みとして扱っているところが率直である。本展ではそんな彼女の世界観をさまざまな仕掛けによって体感できるようになっていた。なかでも面白かったのは、「A whisper」と題した空間だ。彼女の家の裏手に流れる川などを撮影した映像が、なんと床に投影されていたのだ。揺れる川面を眺めていると、まるで本当にそこに川が流れているようで、その空間を横切る際に(濡れるわけではないのに)思わずそうっと足を出してしまった。一瞬でも、レンズを覗く彼女の眼差しを共有できたような気持ちになれた。
公式サイト:https://rinkokawauchi-me.exhibit.jp
2022/10/22(土)(杉江あこ)