artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

高木由利子「カオスコスモス 壱 –氷結過程–」

会期:2022/10/07~2022/11/28

GYRE GALLERY[東京都]

1990年代に、人の身体(ヌード)をテーマに、力強い、スケールの大きな作品を発表し注目を集めた高木由利子の、久方ぶりの大規模展示を見ることができた。寒冷地の軽井沢に移住したのをきっかけにして、「氷結過程」を撮影するようになったのだという。氷点下で水が結晶していくプロセスを、クローズアップで撮影した写真群は、以前とは違う無機的で鋭角的な美しさを湛えており、自然界における「カオスとコスモスは同時多発的に共存しているのではないか」という彼女の問いかけに充分に応えうる出来栄えだった。ギャラリーの外の吹き抜けの空間を含む会場インスタレーションも、よく練り上げられていた。

展示は「始まり」「地上絵」「標本箱」「脳内過程」の4部で構成されている。そのうち、奥まった部屋に展示されていた「脳内過程」の作品群が特に興味深かった。今回のシリーズはデジタルカメラで撮影されているのだが、このパートでは、それらをリトグラフで6回刷り重ねることで最終的な作品としている。制作が進行していく段階を、それぞれの版を6枚並べることで示していた。作品制作時における高木自身、およびプリンターの思考の流れが、そのまま見えてくるように思えるのが興味深い。「氷結過程」の画像化という、今回のテーマにもふさわしい展示だったと思う。

「カオスコスモス 壱」というタイトルを見ると、このシリーズはこれで完結したわけではなく、新作(続編)の構想もありそうだ。これから先も、自然界のさまざまな事象から、「カオスコスモス」を抽出していく作品をまとめていってほしい。


公式サイト:https://gyre-omotesando.com/artandgallery/yurikotakagi-chaoscosmos-vol1/

2022/11/26(土)(飯沢耕太郎)

藤野一友と岡上淑子

会期:2022/11/01~2023/01/09

福岡市美術館 特別展示室[福岡県]

岡上淑子の展覧会に掲げられた年譜などで、「1957年、画家・藤野一友と結婚」「1967年、藤野一友と離婚」といった記述を目にするたびに、どこか奇妙なズレを感じていた。藤野一友の画業について、それほど詳しいわけではないが、理想化された女性の裸体を前面に押し出した、緻密な幻想絵画の描き手であることは承知していたので、その作風と、岡上の繊細だが凛としたたたずまいを持つ写真コラージュ作品とがうまく結びつかなかったのだ。今回、初めて開催されたという岡上と藤野の作品が同時に並ぶ展覧会を見て、長年の疑問が氷解するように感じた。この異質な二人のアーティストたちの出会いと別れがもたらしたものが、それぞれの作品に宿っているように思えたからだ。

ともに1928年生まれの岡上と藤野は、1951年ごろに、二人が在籍していた文化学院で出会う。藤野は読売新聞社主催の日本アンデパンダン展などに出品し、1957年の二科展で特待となって、新進画家として認められていく。一方、岡上も瀧口修造に見出されて1953年にタケミヤ画廊で個展を開催し、その清新なコラージュ作品で注目を集めた。だが、1957年の結婚後、岡上は家事に追われ、コラージュや写真作品の発表は滞りがちになる。1959年に長男が誕生するが、1965年には藤野が脳卒中で倒れ、右半身が不自由になった。諸事情があって、二人は1967年に離婚し、岡上は息子とともに出身地の高知に移った。

このように二人の経歴を辿ると、すれ違いが目立つ邂逅だったといえそうだ。だが、彼らが互いに影響を及ぼしつつ、作品を制作していたことも確かだろう。岡上のコラージュ作品も、藤野の絵画と同様に女性の身体(ヌードも含む)が重要なモチーフになっているし、藤野の作品制作にあたって、岡上が助言することもあったようだ。確かに「藤野作品では、家父長的な戦後日本社会における男性優位のまなざしを、岡上作品では戦後の日本で女性が抱いた夢と苦悩を読み取ることも可能」(本展リーフレット)であることはその通りだと思う。だが同時に、二人のアーティストたちの世界が、互いを触媒としたきわめて独特な化学反応によって生じたことも事実だろう。それは、同じ時代に同じ空間を共有することがもたらした奇跡といえるのではないだろうか。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/

2022/11/18(金)(飯沢耕太郎)

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片岡利恵「あわせ鏡」

会期:2022/11/14~2022/11/20

Place M[東京都]

ありきたりの、美しい花の写真ではない。また、花々の生命力=エロスは充分に感じられるのだが、それを手放しで礼賛しているわけでもない。その儚さもまたしっかりと捉えきっている。何よりも花を通して、まさに「あわせ鏡」のように自分自身の存在を照らし出そうとしている姿勢が、切実感をともなって伝わってきた。

片岡利恵は7年ほど前から写真を本格的に撮影するようになり、その時点で花をテーマに定めた。花を選んだのは、彼女の本業が看護師であることから来ているのではないだろうか。いうまでもなく、生と死の境目の状況に常に直面しなければならない職業であり、そのなかで花々に接することに特別な思いを抱くようになっていったのではないかと想像できる。花の勁さ、脆さ、美しさ、猛々しさ、さらに生から死へそして再生へと移り動いていくあり方に、共感と感動を覚えつつシャッターを切っていることが、展示された写真群から伝わってきた。

会場構成にも工夫が凝らされていた。部屋の真ん中には、さまざまな古書が積み上がっており、そのページの合間に花の写真のプリントが挟み込まれている。小高い山のような本の群れは、花たちにとっての「腐葉土」を表現したかったのだという。壁面に並ぶ写真にも、3面のマルチ画面になっていたり、16枚の写真がモザイク状に組み合わされていたりと、写真の視覚的な情報を増幅しようとする試みがみられた。それらのすべてがうまくいっていたわけではない。だが、写真展のインスタレーションからも、やはり、ありきたりの花の写真で終わりたくないという思いを、強く感じとることができた。


公式サイト:https://www.placem.com/schedule/2022/main/20221114/exhibition.php

2022/11/15(火)(飯沢耕太郎)

金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」

会期:2022/10/27~2022/11/14

PURPLE[京都府]

写真家の金サジが2015年から継続的に発表している「物語」シリーズが、ついに完結した。2022年12月には赤々舎から写真集『物語』の出版が予定されており、本展はその予告編でもある。

「物語」シリーズは、モデルの衣装、メイクアップ、小道具、背景の室内調度を映画や舞台セットのように緻密に構築し、あるいは野外ロケを行なったステージド・フォトであり、汎アジア的な神話世界と西洋美術史の引用が入り混じったイメージの強度が鮮烈な印象を残す。特に、発表を重ねるごとに顕著なのが、キリスト教美術の視覚イメージだ。原罪の象徴である蛇と果実、受胎告知、聖母子、ピエタ、磔刑のイエス、トリプティック(三連祭壇画)……。ただし、原罪の林檎は桃に置き換えられ、授乳する聖母の腹部は獣のような真っ黒な毛で覆われ、磔刑のイエスを思わせる少年のペニスには割れ目が走るように、西洋と東洋、人間と獣、男と女、生と死といった二項対立が重ねられる。日本、韓国、中国といった東アジア諸国の神話の混淆に西洋美術がミックスされ、あらゆる差異や対立の相対化と、「根源的」なものとして回帰する二元論的思考が激しくせめぎ合う。



[撮影:合同会社ウミアック]

明確なシーンの連続性や起承転結はなく、謎めいて魅力的なイメージが断片的に提示されるが、ひとつの軸となるのが、「赤い衣」と「青い衣」を身に付けた「双子」の肖像である。金サジ自身が演じるこの「双子」は、「赤と青」の二色が韓国の国旗である太極旗を示唆するように、在日3世として二つの国の狭間で生きる金の複雑なアイデンティティの化身として見ることができる。「赤い衣」の片方が鏡のカバーをめくると片割れの「青い衣」が鏡に映り、逆に「青い衣」の背後の鏡には「赤い衣」の方が映っているように、二人は互いの鏡像であるが、別の一枚ではカインとアベルのように殺し合う。



金サジ《夢を見る娘(7匹の鳥と)》

「物語」シリーズの最終章といえる本展では、金自身の個人的な物語が、神話や民話、西洋美術史の引用を通して、人類史的な記憶への接続の広がりを見せた。例えば、双子のうち、「赤い衣」の方が机に突っ伏して眠っている《夢を見る娘(7匹の鳥と)》は、ゴヤの風刺的な銅版画《理性の眠りは怪物を生む》の引用だ。ゴヤの版画では、眠る男の背後に夢や闇の世界の住人であるフクロウやコウモリが羽ばたき、「無知や迷信に打ち勝つべき啓蒙世界」とその無力さを訴えているように見える。だが、男の隣にいる一羽が「ニードル」を手渡そうとしていることに着目すれば、「芸術家こそ、理性の束縛を逃れて自由な想像力を発揮すべきだ」というメッセージともとれる。金の写真作品では、フクロウやコウモリ(不吉な鳥)が、韓国では吉祥の鳥である「カササギ」に変えられ、眠る娘の足元には書物や巻物=古今東西の知識の源泉が積み上がる。さらに、背景の壁には中国を中心にした古代の東アジアの地図がかかり、机の上には地球儀と船の模型が置かれ、飛行機の模型が宙を飛ぶ。「知識欲」「外界への関心」が、測量技術や乗り物の開発につながると同時に、異なる土地への侵略をもたらしてきたことを示唆し、両義的だ。

人類の文明の象徴であり、何かを切り分ける分断の象徴でもある刃が、文字通り大地に切れ目を入れるさまを描くのが《地面を切り分ける》だ。ナタのような刃物を持つ男が大地を切り開き、地表に傷をつける。背後で燃え盛る火が戦火を思わせる。一方、子宮の中の受精卵を思わせる別の写真が隣に置かれることで、この「大地の裂け目」は、傷として刻印された分断線と同時に、何かを産み出す巨大な女性器のようにも見える。すると、男が手にする刃物は、まさに男根と化す。



金サジ《地面を切り分ける》

また、花火とも砲撃ともつかない光が打ち上がる夜空をバックに、野山をさまよう群像を写した《永遠に歩く人々》は、西洋美術史を引用した写真と並ぶことで、聖書におけるユダヤの民の放浪とも、在日コリアンの歴史に関わる朝鮮戦争の動乱や離散とも重なり合い、繰り返される人類史的な迫害や流浪のイメージとなる。

なお、本展会場では、発行予定の写真集の見本版も手に取ることができた。テキストと写真が、冒頭とラストで円環を描くようにつながり合い、本の構造自体がひとつの「循環」を体現している。刊行を楽しみに待ちたい。


金サジ《永遠に歩く人々》

金サジ:http://kimsajik.com

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2022/11/13(日)(高嶋慈)

My First Digital Data はじめてのデジタル

会期:2022/10/29~2022/10/30

3331 Arts Chiyoda 1F 3331 Gallery[東京都]

藤幡正樹が、キュレーションした「NFT企画 『My First Digital Data はじめてのデジタル』」展のステイトメントに書く。


「あの『アナログ・デジタル論争』はどこへ行ってしまったのか」

出展作はいずれも、「初めてのデジカメ」というテーマで、過去に撮影した写真を発掘したものだ。わたしは本展を3331で実見することはできなかったが、NFTで販売されている出展作はネットで見ることができる

 

出展者を見てみると、エキソニモに久保田晃弘に松井茂……メディアの変化について自覚的に生きてきた人物ばかりである。そういう意味で画像に添えられた各コメントも時代の変化に自覚的だから的確に企画へ応答する。ヴァナキュラーな写真ではまったくない。すべては二重山括弧で題名を得て展示された。

「アナログ・デジタル論争」。これは例えば、紙書籍と電子書籍、新聞とニュースサイト、イラストレーションやアニメーションのツールとさまざまな場所でそれぞれの利点や短所を語り合ったものの総称と言える。そのなかでも本展は写真装置がつくり出したデジタルデータに焦点を当てた。もっとも古いものは1994年の辛酸なめ子によるモノクロの風景写真(アップルコンピュータのQuick 10による撮影だろうか)、次に古いのは1995年に藤幡正樹が撮影したもので、写真雑誌『デジャ=ヴュ』別冊の企画で貸与されたデジタルカメラ(Kodak DCS420あるいはDCS200)によるものだ。藤幡も本展のコメントで言い添えているように、その写真画像を拡大すると、実際にはそこにない色が現われてくる。アスファルトが赤く、青く、緑色であり、黄色である。インスタグラムでは、いまセレブがたまに古いフューチャーフォンを片手にセルフィーを撮影する。鏡越しのセルフィーは(そのフロントカメラの画素数では人称性が損なわれてしまいすぎるのだろう)まるでステンシルでイメージを描こうとしたかのようだ★1。こういった、過去30年間ほどのデジタル写真の画質のバリエーションに、いまやっと広く眼が行くようになった。

1995年当時、同誌でそのデジタル写真の色相について、藤幡自身が開発したソフトウェア「Cubic Color Palette」での分析を通じ、「うまく(ほかのアナログな画像と比べて)データを間引いてあるようなとてもフラットな形」であると述べている★2。そのフラットさは、存在しないはずの色の混交の結果だ。写真装置の違いは、確実にイメージを変化させている。そのことが本展ではよくわかるし、そういったことが主題化できる時なのだ。


藤幡正樹《イッテンの流木/J.Itten's Driftwood》(1995)762×506/藤幡正樹「My First Digital Data」(2022)
「My First Digital Data」ウェブサイトより引用(最終アクセス:2022年11月25日)


1995年の同誌での藤幡による発言を振り返ると、デジタル画像がより一層、写真的なイメージの複製可能性を高めることになるというなかで、自身のコンピューターグラフィックスに関する仕事ができるだけ多くの人にコピーされ所有される方法を模索していることが伺える。今回の展覧会で利用されている「Brave New Commons」は、NFTの所有希望者が増えれば増えるほどその価格が下がるという藤幡によって制作されたシステムだ。これは、無数の人がデータを保持しようとする可能性を高めるものだと言えると同時に、ブライアン・Fが言うところの、NFTにおける「オーナーシップ」、すなわち、所有の表明によるコミュニティへの影響力を強化する目的としてのNFTの購入行為を霧散させてしまう仕組みであると言える。藤幡のデジタルデータへの向き合い方の一貫性が強く表われた展覧会だと言えるだろう。


なお、観覧には「3331 ART FAIR 2022」の入場チケット(一般 2,500 円)が必要でした。


「My First Digital Data」ウェブサイトのスクリーンショット(筆者撮影/最終アクセス:2022年11月27日)



★1──アメリカの俳優Nicola Peltzのインスタグラム(@nicolaannepeltzbeckham)の投稿などが例に挙げられるだろう。
https://www.instagram.com/p/Cd_uRm3vy1m/(投稿日:2022年5月26日、最終アクセス:2022年11月27日)
★2──藤幡正樹「色空間の中の写真」(『デジャ=ヴュ』別冊、河出書房新社、1995、p.50)




公式サイト:https://mf22.3331.jp/index.html



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2022/11/13(日)(きりとりめでる)