artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
プレビュー:橋本大和 写真展 4 1/2
会期:2013/01/08~2013/01/20
NADAR/OSAKA[大阪府]
大阪のとある路地裏にある、築100年の木造四畳半長屋での日々を捉えた写真展。そこの住人たちは、お金はないが連日朝まで騒ぎ、疲れたら眠る。また、さまざまな人が出入りしては消えていく。彼らの生き方は享楽的・刹那的かもしれないが、目いっぱい「いまを生きる人間」たちでもあるのだ。本展では、彼らへの共感に満ちた作品約30点を展覧。ちなみにタイトルの4 1/2は四畳半のことであり、フェリーニの名作映画「8 1/2」へのオマージュでもある。
2012/12/20(木)(小吹隆文)
カタログ&ブックス│2012年12月
展覧会カタログ、アートにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
文化からの復興──市民と震災といわきアリオスと
福島第一原発から約40キロに立地する「いわき芸術文化交流館アリオス」では市民と一体となって文化による復興にチャレンジしている。
本書は震災直後の緊迫した状況を現場の声から振り返り、アリオスと地域のユニークな取り組みや東北3県の主要文化施設のキーパーソンらとの座談会、そして文化からの復興の意味を考える。震災後の未来を「文化の力」「アートの力」から展望し、公共文化施設と芸術文化の持つ可能性と、その役割について多方面から考察した本書は、地方行政関係者、指定管理者、市民団体やアーティストを始めとして、震災復興まちづくりに携わる全ての人、必読の1冊である。
[水曜社サイトより]
photographers' gallery press no. 11
2011年3月の東日本大震災と福島第一原発事故以来、被災状況などを記録した数多くの写真が撮影されています。災害を記録するとはどういうことか、この度の震災は写真というメディアに多くの問いを投げかけています。
本誌では、関東大震災直後の鉄道、圧倒的な規模の土砂災害、近代最大級のトンネル工事を記録した、3つの写真帖を約200頁にわたって収録し、伊藤俊治氏・平倉圭氏の書き下ろし原稿とともに、災害表象をこれまでにないかたちで捉え直します。また気鋭の執筆陣を迎え、これからの写真や美術、批評のあり方を導くような濃密な論考・対談を掲載いたします。
[photographers' gallery サイトより]
超域文化科学紀要 第17号─2012
超域文化科学専攻所属教員と学生による研究論文集。比較文学比較文化、表象文化論、文化人類学という3つのコースが、それぞれのアプローチの特徴を生かし、様々な文化的・社会的現象を分析する場である。掲載される論文は、本専攻所属の教員による厳格な審査を経ている。
[東京大学大学院総合文化研究科サイトより]
前田敦子はキリストを超えた──〈宗教〉としてのAKB48
AKB48の魅力とは何か?なぜ前田敦子はセンターだったのか?
〈不動のセンター〉と呼ばれた前田敦子の分析から、AKB48が熱狂的に支持される理由を読み解いていく。なぜファンは彼女たちを推すのか、なぜアンチは彼女たちを憎むのか、いかにして彼女たちの利他性は育まれるのか……。握手会・総選挙・劇場公演・じゃんけん大会といったAKB48特有のシステムを読み解くことから、その魅力と社会的な意義を明らかにする。
圧倒的情熱で説かれる、AKB48の真実に震撼せよ!
[筑摩書房サイトより]
2012/12/17(月)(artscape編集部)
堀市郎・前田寅次 作品展
会期:2012/12/04~2013/12/25
JCII PHOTO SALON/ JCIIクラブ25[東京都]
ここ10年ほどの間に、「芸術写真」と称される日本の1910~30年代の写真群についてはかなり多くの新たな知見の積み上げがあり、「芸術写真の精華──日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展」(東京都写真美術館、2011)など、いくつかの注目すべき展覧会が開催されてきた。だが、絵画的な美意識(ピクトリアリズム)を基調とする「芸術写真」は、むろん日本だけでなく欧米諸国でも大流行しており、国際的な広がりを持つトレンドだったことを忘れるべきではないだろう。当然、アメリカやヨーロッパ諸国にわたった日本人写真家のなかにも、独自の「芸術写真」を志向する動きが見られた。今回、JCII PHOTO SALONと JCIIクラブ25で開催された「堀市郎・前田寅次作品展」は、アメリカで活動した二人の日本人写真家の作品を展示している。
1901年に渡米した堀市郎は、1912年からニューヨークで肖像写真館を経営し、新渡戸稲造、東郷平八郎などのポートレートも撮影している。ややソフトフォーカス気味の、柔らかな光にモデルの顔が浮かび上がるロマンティックな作風だが、ダンサーを撮影した実験的な作品もある。1929年に帰国後は、肖像画家として活動した。一方、前田寅次は1901年に渡米し、ロサンゼルスで不動産管理の仕事をしながら、アメリカだけでなくカナダ、スペイン、ベルギー、フランスなどの「サロン」(芸術写真家たちの公募展)で入選、入賞を重ねた。前田の作品はほとんどが風景で、さまざまな要素を画面に巧みに配置していく構成力に優れている。そのシャープなピント、抽象的な画面構成は、むしろ日本では1930年代以降に定着する「新興写真」に通じるものがありそうだ。
このような異色の写真家たちの仕事を、日本の「芸術写真」の流れのなかにどのように接続していくかが、次の大きな課題になるだろう。さらなる調査や研究が必要な在外日本人写真家は、堀や前田だけではないのではないだろうか。
2012/12/14(金)(飯沢耕太郎)
この世界とわたしのどこか 日本の新進作家 vol.11
会期:2012/12/08~2013/01/27
東京都写真美術館 2階展示室[東京都]
いつのまにか11回目を迎えていた「日本の新進作家」展。若手の、将来が期待される写真家の選抜展としての役目をしっかり果たすようになった。もうすでに評価の高い写真家だけでなく、今回でいえば大塚千野や菊池智子のように、あまりきちんと紹介されていなかった新しい顔に出会える楽しみがある。
「この世界とわたしのどこか」という曖昧模糊としたタイトルが暗示するように、テーマらしきものはあまりくっきりとは見えてこない。1970年代生まれの女性作家というのが唯一の共通項だが、現代日本の索漠とした状況を映し出す旅のスナップショット(蔵真墨)、ファッション誌の女性像を精密に写しとったドローイングを複写し魔術的な操作を加えた銀塩プリント(田口和奈)、海辺の光景の中に寄る辺なくたたずむ釣り人たちを撮影した作品群(笹岡啓子)、過去のアルバム写真に現在の自分の姿を合成した「ダブル・セルフポートレート」(大塚千野)、中国のトランス・ジェンダーの若者たちを2005年から撮影し続けたプライヴェート・ドキュメンタリー(菊池智子)と、彼らの展示作品は多方向に引き裂かれている。だが、それぞれ「この世界とわたし」との関係のあり方を、真摯に探求していこうとする志向においては重なりあう部分があるのではないかと思う。
大塚の「見ることのできない何か、そこにはない何かを撮ることによって、わたしは新たな表象、新たな記憶を創造する」、あるいは田口の「作品は私の既知をつねに越えていくものだし、私よりずっとさきにいって私にさえ示唆をあたえてくれる」といったコメントに、彼女たちの、未知の「どこか」に写真という杖を差し伸ばし、何ものかを探り当てようという意欲のみなぎりを感じる。個人的には、胸が震えるような切実さをたたえた菊池智子の写真と映像作品(「迷境」2012)に、強い感銘を受けた。
2012/12/14(金)(飯沢耕太郎)
楢橋朝子「in the plural」
会期:2012/11/20~2013/12/22
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
楢橋朝子はこのところ、水の中に半ば没しつつ水中カメラで岸辺の景色を撮影する「half awake and half asleep in the water」のシリーズを中心に発表してきた。このシリーズはたしかに楢橋の写真家としての仕事の到達点というべき作品で、アメリカのNazraeli Pressから写真集が出版されるなど、国際的にも評価が高い。だが、今回のツァイト・フォト・サロンでの個展や、同時期に開催されたphotographers’ galleryでの個展「とおすぎてみえたこと」などを見ると、楢橋が次のステップへ向けて動き出したことが感じられる。
ツァイト・フォト・サロンの「in the plural」は、タイトルが示すように複数形の写真群によって構成されていた。中心になっているのは、さまざまな場所で撮影された「half awake and half asleep in the water」のヴァリエーションだが、そのなかにまったく関係なく見える写真が混じり込んでいる。サンタモニカの草原、湯沢の雪景色、登別のロープウェイなどは、むしろ前作の『フニクリフニクラ』(蒼穹舍、2003)の世界に近い。台北で撮影された鳥の影のようなものが写っているテレビ画面のようなテイストは、これまでの楢橋の作品には見られなかったものだ。実際に撮影期間はかなり長く、ここ10年ほどにまたがっているようだ。
こうしてみると、楢橋が「half awake and half asleep in the water」で打ち出していった、足場がぐらぐら揺れ動くような不安定な画像のあり方は、もともと彼女のなかに体質的に備わっていたものであることがわかる。水中カメラという装置を借りなくても、水の中に浮き沈みするような感覚がすでに身体化されていたということだろう。「half awake and half asleep in the air」とでもいうべき写真群が、次に形をとってきそうな気もする。
2012/12/12(水)(飯沢耕太郎)