artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱
会期:2022/12/03~2023/04/09
世田谷美術館[東京都]
萩原朔美と榎本了壱は1969年に寺山修司が主宰する天井桟敷館(東京都渋谷区)で出会った。自主映画制作や共同事務所の運営を通じて関係が深まり、1974年の伝説的なカルチャー誌『ビックリハウス』の創刊に至る。その後も、付かず離れずの関係を続けて、萩原は多摩美術大学で、榎本は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で教鞭を執るとともに、アート/カルチャー・シーンともかかわり続けてきた。また「自分に向かい合う」ことで、それぞれ精力的に作品制作にも取り組むようになっていった。
今回の展示は、世田谷美術館に収蔵された作品による「ミュージアム・コレクション展」だが、二人合わせて300点近くが出品されており、質量ともに驚くべき内容といえる。その旺盛な創作意欲に圧倒させられた。澁澤龍彥作『高丘親王航海記』(文藝春秋、1987)を、ドローイングを付して「書写」した榎本の大作(全84点)にも度肝を抜かれたが、萩原がこのところ集中して制作している道路の自転車マーク、塀の染み、ドアスコープの画像などを大量に撮影してモザイク状に並べた「差異と反復」シリーズが異様に面白い。萩原はまた、セルフポートレートにも執着しており、「電信柱に映っている私」など、自分の影、手の一部、鏡像などを繰り返し撮影した作品も作り続けている。これらの仕事は、ものを創る歓びそのものの表明といえるだろう。
なお会場では、萩原が2018年に制作した《山崎博の海》も上映されていた。高校時代からの親しい友人でもあった写真家、山崎博にオマージュを捧げた、感動的な映像作品である。
公式サイト:https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/collection/detail.php?id=col00116
2023/02/09(木)(飯沢耕太郎)
金村修「Can I Help Me?」
会期:2023/02/02~2023/02/26
MEM[東京都]
何かが吹っ切れたのではないだろうか。東京・恵比寿のMEMで開催された金村修の写真、映像、ドローイング、コラージュによる新作展「Can I Help Me?」は、快挙ともいうべき見応えのある展示だった。
もともと2021年にニューヨークの dieFirmaで開催した小松浩子との二人展に出品された、壁全面にマスキングテープで貼り巡らしたサービス判のカラープリントをそのまま引き剥がして持ちかえり、少し隙間をあけて壁に貼ったり床に丸めて積み上げたりしている。その写真群に覆いかぶさるように映像が上映されていた。写真も映像も混沌とした日常そのものの断片だが、食べ物や看板など、グロテスクに肥大する欲望を投影したものが目につく。むしろ、金村本人の美意識や価値基準から外れたものをわざと選んでいるようにも見える。別室に展示されていたドローイングやコラージュでも、あえて毒のあるイメージを撒き散らしているようだった。
金村はこれまで、都市の路上を主なテーマとして、「写真」という表現手段の可能性を、純粋に、ミニマルに追求していく作品を発表していた。そのどちらかといえばフォルマリスティックなアプローチは、ときに「写真についての写真」という袋小路に行きついてしまいがちなところがあった。だが、今回の展示では、むしろその「写真」の枠組みを大胆に踏みにじり、自分がやりたいこと、見たいものを鷲掴みにして提示しているように見える。金村が本来持っていた「パンクな」アーティストとしてのあり方が、全面開花していた。この方向性には、まだまだ先がありそうだ。
公式サイト:https://mem-inc.jp/2023/01/20/kanemura2023/
2023/02/08(水)(飯沢耕太郎)
金サジ『物語』
発行所:赤々舎
発行日:2022/12/22
在日コリアン三世という自らの出自を踏まえて、独自の神話的世界を構築し、写真作品として提示する仕事を続けている金サジが、最初の写真集をまとめあげた。ジェンダー、植民地主義、戦争、自然破壊、文化的軋轢など、さまざまな問題を抱え込んだ老若男女が展開する壮大なスケールの「物語」は、複雑に絡み合いつつ枝分かれしていく。それだけでなく、大地、樹木、岩、さらに火や水などの神話的形象が随所にちりばめられ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの西洋絵画のイコノロジーまでが取り入れられている。野心的なプロジェクトの成果といえるだろう。
ただし、それぞれのヴィジョンに対する思いが強すぎて、それが金の神話世界においてどのような位置にあるのか、どう展開していくのかが伝わりきれていないように感じた。彼女自身の短いテキストが写真の間に挟み込まれ、巻末には早稲田大学教授の歴史学者、グレッグ・ドボルザークによる解説「トリックスターとトラウマ」が付されているのだが、それでもなかなかうまく全体像が形をとらない。もしかすると、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような、長大なテキストが必要になるのかもしれない。また、主人公にあたるようなキャラクターが成立していれば、「物語」としての流れを掴みやすかったのではないだろうか。
とはいえ、金の写真家としてのキャリアを考えると、これだけ豊かなイマジネーションの広がりをもち、しかもそれらを説得力のある場面として定着できる能力の高さは驚くべきものだ。日本の写真界の枠を超えて、国際的なレベルでも大きな評価が期待できそうだ。
関連レビュー
金サジ「物語」シリーズより「山に歩む舟」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月15日号)
2023/02/05(日)(飯沢耕太郎)
渡邊耕一「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」
会期:2022/12/20~2023/02/05
Kanzan Gallery[東京都]
渡邊耕一は前作『Moving Plants』(青幻舎、2015)で、日本原産の植物、イタドリ(虎杖)が、ヨーロッパ各地で繁茂している状況を追ったシリーズを発表した。やはり植物をテーマとした今回の「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」では、江戸末期の本草学者、馬場大助が、自著に「コンタラエルハ(昆答刺越兒發)」という不思議な名前で記している植物を求めて世界各地に足を運んだ。その足跡は香港、インドネシア、オランダ、日本(和歌山)、メキシコにまで及び、その謎の植物の姿が、少しずつ明らかになっていった。
風景写真、図鑑等の複写、映像などを使って、その旅の過程を示した展示もしっかりと組み上げられている。同時期に青幻舎から刊行された同名の写真集とあわせて見ると、体内の毒を消すデトックスの効果があるというこの薬草の分布の状況が、立体的に浮かび上がってくる。渡邊の写真家としての視点の確かさと、知的な探求力とが、とてもうまく結びついた写真シリーズといえるだろう。
イタドリや「コンタラエルハ」は、植物学者ではない限り、単なる雑草として見過ごされてしまいがちな植物である。だが、それらを別な角度から眺めると、歴史学、人類学、経済学などとも関連づけられるユニークな存在のあり方が見えてくる。渡邊が次にどんなテーマを見出すのかが興味深い。彼のアプローチは、植物以外の対象でも充分に通用するのではないかと思う。
公式サイト:http://www.kanzan-g.jp/watanabe_koichi.html
関連レビュー
渡邊耕一「Moving Plants」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年04月15日号)
渡邊耕一「Moving Plants」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年01月15日号)
2023/01/31(火)(飯沢耕太郎)
伊丹豪「DonQuixote」
会期:2022/12/02~2023/01/29
CAVE-AYUMIGALLERY[東京都]
伊丹豪の新作11点がdot architectsとのコラボレーションによる会場構成で並んだ。会場の柱や梁に沿って2色の角材が走る。ぱっと見て写真作品自体への没入を阻害する鮮やかな直線は、作品が配置された建築の存在を強調する。それは本出展作が、「写真におけるアーキテクチャーへ応答するぞ」という布石のようでもあるし、写真に強烈に存在する直線性へ鑑賞者の意識を導くためのガイドのようでもある。
本展作品は、COVID-19下での東京オリンピックで焦点化される「東京」を横目に、徳島出身の伊丹が当事者性をもてると判断した範囲で撮影された関東圏の事物である★1。撮影機材は、個人購入の範囲ではそのときもっともハイエンドとされるカメラだ。ピントをずらし、全てにピントを合わせる深度合成がなされた★2、どこもかしこもピントが合ってくっきりとしたイメージは、物理的な現実の世界のなかで眼が滑ったり、何かが気になって凝視したりするといったような経験を生み出している。そういう意味でも伊丹の本作は、マチエールの強い絵画がイメージというより絵具(物)として現前しているときのような、イリュージョンへの亀裂を生じさせる視覚経験と類似性がある。そしてこの全面的に被写体を前景化させる作為は、伊丹が自身でも語るように、モチーフの脱中心化を志向したものだ。このくっきりとしたイメージは相対的にいずれのモチーフも中心性をもたないし、時には訴求力をもつモチーフがなくなるまで、周囲にモチーフを足し続けているのである。例えばそれは、伊丹の自宅のダイニングテーブルの下に垂れる真空パックされた液体の輝き。
いま述べるには雑駁で申し訳ないのだが、構成的写真であろうと、記録的写真であろうと、写真が写真であるために、その写真にまつわる文化的使用をモチーフとしたり、写真における指標性を追求するといったさまざまな作品行為があるわけだが、本展を見て、写真作品における「モチーフを足す」ということに、いかにいまの世界が抑圧的状況となっているか、ありありと私は気付かされた。
Photo by Takaaki Akaishi © Go Itami Courtesy of CAVE-AYUMIGALLERY
また展覧会の構成上必見なのは、伊丹の提案でdot architectsが制作した写真の什器となっている白い板だろう。白い板は写真の大きさからひと回りだけ大きい矩形の窪みがつくられていて、その窪みに写真パネルをはめ込むと、板の表面と写真の表面のツラがぴったりと合う。額のように振る舞う白い板の窪みは、額がイメージに埃や傷を付けないようにと作品を奥まらせる機能を一切もたない。1990年代に起こったビッグピクチャー(写真作品の巨大化)とそれに伴う「ディアセック」(写真プリントの表面にアクリル接着を行なうマウント技術)による巨大写真作品の強度の増加が、ひるがえって「アクリルの表面に傷がつくと回復できない」という今日の保存修復の問題へとつながっていった状況を思い起こさせる。本展での、この「埃がついてもいい」という挙動は、プリントの力も勿論だが、写真イメージそのものの侵されなさ、鮮烈さの実在の表明に思えた。
本展は無料で鑑賞可能でした。
Photo by Takaaki Akaishi © Go Itami Courtesy of CAVE-AYUMIGALLERY
★1──2023年5月4日に加筆修正を行ないました。
★2──2023年5月4日に加筆修正を行ないました。
公式サイト:https://caveayumigallery.tokyo/GoItami_DonQuixote
2023/01/27(金)(きりとりめでる)