artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
ARTIX㎥オープン記念展「中間地帯 interface」
会期:2023/04/28~2023/05/28
ARTIX³(アーティクス・キューブ)[東京都]
近年、大学の写真学科や写真専門学校の学生のうち、中国人留学生が占める割合が、急速に上がってきている。一部の写真専門学校では、半数以上が中国人という学年も出てきているほどだ。また、各種の公募企画でも中国人作家が入賞することが多くなった。今後、彼らの影響力はさらに大きくなっていくのではないだろうか。
そのような状況において、ともに東京藝術大学先端芸術表現専攻で学んだ許力静と王露を中心として、日本と中国の写真家たちの交流を促進することを主な目的として、日本国際文化芸術協会(JCA)が設立された。その展示・発表の場として、東京・根岸にギャラリー・スペース、ARTIX㎥(アーティクス・キューブ)が開設され、オープン記念展として林志鵬(リン・チーペン)、張克純(ジャン・クゥーチュン)、陳蕭伊(チェン・シャオイ)による3人展が開催された。
若い男女の「愛と混沌」の状況をポップなタッチで描き出す林、植木や庭石の流通センターの情景を批評的に切りとってくる張、中国中西部の山岳地帯の鉱山遺跡を、重厚な叙事詩を思わせる映像作品として提示する陳――彼らの作品が、まったく別な方向に引き裂かれているところに、中国現代写真のあり方が端的にあらわれている。だが逆にそれぞれの制作環境の違いが、作品にヴィヴィッドに反映されていて、見応えのある展示になっていた。ARTIX㎥が今後どのような方向に進んでいくのかはわからないが、日本と中国の実りの多い相互交流の場としての活動を期待したい。
公式サイト:https://www.jca3.art/interface
2023/04/28(金)(飯沢耕太郎)
キリコ「The World」
会期:2023/04/14~2023/04/24
GALLEY 04街区[大阪府]
元夫との離婚、祖母の介護など、自身の私的な家族関係を軸に、女性の生き方や親密圏におけるコミュニケーションに焦点を当て、写真や映像作品を制作してきたキリコ。近年は、自身の不妊治療と出産をもとに、母親になることへの憧れと疎外感、「愛情=手作り」を期待される母親像へのジレンマを作品として昇華。「個」の視点をベースに、「母になること」を内側から探る作業を通して、より外側の社会との接点を提示してきた。
本展は、「正解」のない育児の曖昧なあり方に対する自身の悩みから出発している。子どものための心理療法のひとつである箱庭療法で用いられる「箱庭」を、キリコ自身の子どもを含め、3~9歳の子どもたちのそれぞれの家庭に持ち込み、砂とお気に入りの玩具で思う存分遊んでもらった。子どもたちの遊びの過程は、真上からの固定カメラで映像に記録された。また、遊び終わって「ひとつの世界」ができあがった箱庭を、さまざまな角度から撮影した数百枚の画像を元に3Dデータをつくり、3Dプリンターで立体化した。掌にのるほどの小ささに縮小された「箱庭世界」は、宝物のようにアクリルボックスに飾られ、下から照らすライトの光で白く輝き、美しくも脆い砂糖細工を思わせる。それは同時に、写真とも彫刻ともつかず、細部の解像度がぼやけた、曖昧な揺らぎを抱えている。
会場風景
会場風景
一方、子どもたちの遊び方や箱庭世界の造形は、驚くほど多様性に満ちている。プラスチックの容器で型抜きに没頭し、「砂自体の造形」に興味がある子。玩具のレールと列車を持ち込んでトンネルを掘る、下地のブルーを水に見立てて「川」を開通させ橋をかけるなど、土木系に関心がある子。おままごとセットのハウスを置き、人形でストーリーを展開させる子。一人なのか、兄弟姉妹がいるのかによっても遊び方は変わってくる。
キリコ《F 5y N》(2023)
キリコ《M 5y H》(2023)
キリコ《F 9y Y/F 8y M/F 5y R/F 3y K》(2023)
ここで、本展を、キリコの近作の展開のなかに位置づけて俯瞰すると、より作品の意味が拡がって見えてくる。不妊治療中に制作した前々作《mother capture》(2017)では、「窓辺の室内で授乳する同年代の母親」の背後にビデオカメラを設置し、授乳中はその場を離れ、映像からキャプチャした画像を写真作品として提示した。「母子の親密なコミュニケーション」の場に自らの身を置かず、「表情」を見せない撮影手法により、「母になること」に対する距離感や疎外感が表出する。また、出産を経た前作《school goods》(2021)は、子どもが通う幼稚園から「手作りの布小物」の用意を指示されたことに対する違和感や疑問を出発点に制作された。一切の装飾を剥ぎ取って白一色の布で制作された手さげバッグや巾着袋は、「手作りこそ母親の愛情の証」「裁縫は母親が家庭内で従事すべき再生産労働」とする社会的規範を問うとともに、色やデザインを通して「子どもの持ち物」に浸透するジェンダー規範を文字通り漂白する。家事や育児、ケアといった「シャドウワーク」を担う母親の声は、蓄光性の白い糸で刺繍され、わずかに浮かび上がるのは「暗闇の中」だけだ。
母になる前と、母になってからのアンビバレントな感情。そして、本展では、「それぞれの子どもが、一人ひとりこんなに違う世界をもっている」ことの可視化を通して、「子ども自身の世界」が親から分離し自立し始めた。それは、子どもとの距離の取り方に関して、親にとっても療法的な側面があるのではないか。子どもを支配下におきたい気持ちが過干渉を生むのではなく、「子どもは親から独立した一個の人格である」ことを尊重すること。 一方、「すぐに消え去ってしまう砂遊びの造形を、写真という記録メディアを介在させて3Dプリントで結晶化する」行為は、「子どもの成長やかけがえのない一瞬を形として残したい」という親の気持ちの現われでもある。砂糖細工のような儚さは、美しいが触れただけで壊れそうな脆いものでもあるという両義性を示唆する。
子どもたちがそれぞれ形作る箱庭世界は、自立と自己形成の第一歩でありつつ、「箱庭のフレーム」の内側に規定されている。そのフレームは同時に、「家庭」というもう一つ外側のフレームを入れ子状に示唆する。子どもたちはそれぞれ自分自身の世界をすでにもっているが、保護された領域内にまだ留まっており、親や周囲の環境の影響が入り込む。親がどのような玩具を買い与えるのか。「箱庭のフレーム」は、女児用・男児用の玩具として弁別された、ジェンダーの枠組みでもある。砂の大地にレールを敷いて列車を走らせ、ウルトラマンのフィギュアで遊ぶ男の子。一方、女の子が遊ぶおままごと用ハウスにはキッチンが完備され、「物干しセット」には小さな布が干され、「家事の予行演習」がすでに行なわれている。樹脂の白さで漂白されつつ、なおも残存するジェンダー差。
興味深いことに、「箱庭のフレームの外側」に砂や玩具をはみ出させて遊びを展開する子どもはいなかった。映像は無音だが、「汚さないでお行儀良く遊んで」という親の注意があったのかもしれない。子どもたちの世界はいつか、「フレーム」を壊してその外側に出て行くのだろうか。
キリコ 公式サイト:https://moritasuzu.wixsite.com/kirico
ギャラリー 公式サイト:https://naneiart.com/wp/event/キリコ-個展「-the-world」/
関連レビュー
キリコ「school goods」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年04月15日号)
キリコ展「mother capture」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年03月15日号)
2023/04/16(日)(高嶋慈)
ダニエル・マチャド「Tango×3」
会期:2023/04/13~2023/05/14
太郎平画廊[東京都]
ダニエル・マチャドはウルグアイ出身の写真家、アルゼンチン、スペインなどを経て日本に定住し、ニコンサロン等で展覧会を開催し、写真集『幽閉する男』(冬青社、2021)を刊行するなどの活動を続けている。今回の東京・日本橋本町の太郎平画廊での写真展も、いかにも彼らしいユニークな発想の産物だった。
展示は「タンゴ・コンフュージョン」「脚とバンドネオン」「音楽ラッキーホール」の3部構成。アルゼンチンのブエノスアイレスで撮影した「タンゴ・コンフュージョン」は、タンゴを踊るダンサーたちをデジタル処理で増殖させた連作、ウルグアイのモンテビデオで制作した「脚とバンドネオン」は、赤い網目のストッキングを履いた女性の脚とバンドネオンの蛇腹を合体させたシュールなイメージの写真群、東京で撮影した「音楽ラッキーホール」では、蓄音機と女性モデルとを軽やかに画面に配している。この3部作で、ジャズのような他ジャンルも取り込んで、ハイブリッド化しつつある「ニュー・タンゴ」の世界を、「一種のパロディ」として浮かび上がらせようとした。
そのもくろみは、豊富なアイディアと的確な画像処理によって、かなりうまく実現している。1993年に創設されたという太郎平画廊のスペースは、やや癖が強く、展示がむずかしい会場だが、古風なインテリアを活かした写真の配置、構成もうまくいっていたと思う。日本人の写真家とは異質な、遊び心が感じられるマチャドの作品世界を、充分に堪能することができた。
公式サイト:https://tarohei-gallery.com/2023/04/12/tangox3/
2023/04/14(金)(飯沢耕太郎)
藤岡亜弥「BangBang」
会期:2023/04/13~2023/05/14
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
藤岡亜弥は2007年に文化庁の新進芸術家海外研修制度でニューヨークに赴き、2012年まで5年間滞在した。「なにもかも勉強し直すつもり」と、意気込んで暮らし始めたのだが、そこでどのように過ごせばいいのか、うまくそのやり方を見つけることができず、迷いと戸惑いの日々が続いた。今回、コミュニケーションギャラリーふげん社で展示したのは、そのニューヨーク滞在中に、ハーフサイズのカメラで撮影したモノクロームのスナップショットである。
どうやら、ニューヨークという街はハーフサイズのカメラと相性がいいようだ。あまり構えることなくシャッターを切ることができるので、とめどなく移り動いていく街のたたずまいにフィットしているのかもしれない。色やフォルムよりも、被写体を取り巻く空気感に鋭敏に反応してシャッターを切っているのが、ややくぐもったトーンの、断片的な写真群から伝わってきた。「Bang Bang」と「無意味を撃つ」ように撮影していくことの自由と不安と孤独感とが、どこか湿り気を帯びたスナップショット群に刻みつけられているように感じる。
藤岡の写真には、ニューヨークでも、ブラジルでも、東京でも、広島でも、居場所がどこであろうと、いつでも心ここにあらずという雰囲気が刻みつけられている。その場所にうまく馴染むことができず、地に足がつかないで少し浮遊しているような感覚というべきだろうか。それが、やや単純化されたモノクロームの画面構成によって、より強まってきている。判型はそんなに大きくなくてもいいから、ぜひ写真集にまとめてほしい写真群だ。
公式サイト:https://fugensha.jp/events/230413fujioka/
2023/04/14(金)(飯沢耕太郎)
甲斐啓二郎「綺羅の晴れ着」
会期:2023/03/25~2023/04/22
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
スポーツの起源というべき祭事を、世界各地で追い求めて撮影してきた甲斐啓二郎は、2015年頃から「裸祭り」を集中して撮影するようになった。今回展示されたのは、2017~2019年に撮影された「西大寺会陽」(岡山県)、「ざるやぶり神事」(三重県)、「ヤッサ祭り」(群馬県)、「黒石寺蘇民祭」(岩手県)の写真群である。
主に夜に、狭い室内で男たちが激しくぶつかり合うこれらの祭事には、ほかの行事にはない特徴がある。いうまでもなく、参加者全員が「はだか」であるということだ。そのことによって汗が飛び散り、怒鳴り声が飛び交い、濃密な体臭が立ちのぼる、異様にテンションの高い時空間が出現してくる。甲斐がこれらの祭りに魅せられ、ときには自分自身も「はだか」になって撮影を続けてきたのは、単純に被写体の面白さということだけでなく、そこに人と人とが接触するときに生じる、恐怖感と嫌悪感とエクスタシーとが混じり合った、ほかに類を見ない状況が生じるからではないだろうか。このような祭事は、なぜかほかのアジア諸国も含めて、日本以外ではほとんどおこなわれていないという。もしかするとそのあたりにも、日本人のやや異様な同調性、一体感の根拠があるのではないだろうか。本作は、限定された時空間における日本人のふるまいを、思いがけない角度から探求しようとする試みともいえるだろう。
大きめのプリントを中心に展示したZEN FOTO GALLERYのインスタレーションは迫力満点で、とてもうまく構成されていた。展覧会に合わせて刊行された同名の大判写真集(アート・ディレクション=山田洋一)も、印刷、デザイン、レイアウトともに素晴らしい出来栄えである。
公式サイト:https://zen-foto.jp/jp/exhibition/keijiro-kai-%E2%80%9Cclothed-in-sunny-finery%E2%80%9D
2023/04/12(水)(飯沢耕太郎)