2023年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2

会期:2023/03/25

YAU STUDIO[東京都]

2023年現在9名からなるアーティストコレクティブである「カタルシスの岸辺」は、ここ1年間をかけて「死蔵データグランプリ」という番組をYouTubeに24本公開してきた。そこではカタルシスの岸辺が公募した254点の「死蔵データ」の紹介と講評が行なわれている。

応募要綱には「公開していない、誰に見せる予定もない、自分しかその存在を知らないデータ一般を私たちは暫定的に『死蔵データ』と呼んでいます。拾いものではなく、自分自身が生成したものであることが条件です」と記載されており、誰でも自由に参加できる。振り返ってみると、映像、音声、写真、テキストのスクリーンショットなど、さまざまなデータが集まった。

それらは応募と同時に規約上、YouTubeなどインターネットで公開されること、カタルシスの岸辺が運営する「マテリアルショップ」で数百円単位で売買されることを許諾することになる。こうして、とりとめもなかったからか、羞恥心のためか、はたまた自分にとってあまりにも大切なものだったからかプラットフォームで共有されてこなかったデータが一躍耳目にさらされる対象となるのだ。

24回開催されたYoutube番組では毎回、約10点のデータがまじまじと鑑賞されるだけでなく、演劇・音楽・建築・哲学・美術など幅広い領域の人々73名が応募データを各々の基準で言葉にし、採点していく。毎回1位が選ばれて、その24個の1位がオンライン投票で10点に絞られるのだが、番組で「死蔵データ」に関する言語化が積み重ねられることで、「死蔵データ」というものの見方、概念がうっすら立ち上がり、ついにはそれらを元に「死蔵データが死蔵データであるかどうか」鑑定するための14項目に関するマークシートがカタルシスの岸辺によって制作された。

さらに、3月25日に有楽町で開催された「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」では、その鑑定14項目も当日参加した100名あまりの鑑賞者によって一斉に再鑑定され、どれが「死蔵データ」を考えるうえで外せない基準なのかも投票で決められた。その基準を元に当日の投票を通して「おっちゃん」とタイトルが付けられた画像データが本イベントのグランプリを飾ったのである。


死蔵データを視聴した後の参加者が、「死蔵データ鑑定シート」をに記入している様子[提供:カタルシスの岸辺]


本データは、ヤギに逆包丁で向かっていくかのようにみえる半裸の男性という、その圧倒的な瞬間がパンフォーカスで捉えられている状況からしてそもそも「純粋に死蔵されていたデータなのか」という議論を巻き起こした。しかしながら、「死蔵データ」として欠かせないと当日鑑定された項目にもっとも当てはまった結果、グランプリとなったのである。イベントのなかで収集・集計されたマークシートと死蔵性をめぐる項目の相関性は、鑑賞者にとってブラックボックスのまま結果が出るようになっており、超精度の言語化を伴った「こっくりさん」のような得点ランキングは、参加者に何かわかりやすいひとつの価値基準を与えることなしに、「データの死蔵性」という概念の道を多角的に拓く。


「死蔵データGP 2022-2023 決勝戦 ROUND2」でグランプリを飾った「おっちゃん」(匿名)


ところで、このイベントはカタルシスの岸辺によるパフォーマンスであり、彼らの運営する「マテリアルショップ」における取り扱い商品の「仕入れ」でもある。最終ラウンドだけでも、会場・オンラインあわせて100名程度の参加者が、カタルシスの岸辺が売買する商品の鑑定を行なうという共犯めいた関係を結び、「死蔵」という無価値なものをいかに称揚可能であるかを考えるということになる。


カタルシスの岸辺が「死蔵データ鑑定シート」を集計し、その間に来場していた予選ブロックの審査員たちがコメントを寄せている様子[提供:カタルシスの岸辺]


最優秀死蔵データが決定し受賞式を終えた後、会場にはおよそ160BPMのカタルシスの岸辺のテーマソングがアニメーションとともに流れ始める。アニメのオープニングのようにあらゆる困難を乗り越えてきた彼らの様子が描かれたハイテンポのMVがエンドロールとして使われている。見たこともないアニメ「カタルシスの岸辺」の25話最終回の終わりの終わりでオープニング曲が伏線を回収していくかのようだ。

舞台に次々と現われるメンバーたちは、観客がスクリーンだと思っていた資材を突如解体し、目隠しだと思っていた黒布を剥がし、歴戦の「死蔵データ」を映すモニターが忽然と顕わになる。こうして舞台は「マテリアルショップ カタルシスの岸辺」へと変貌を遂げた。音楽が終わる。近くにいた人が「感動して泣きそう」と言っていた。




漫画『けいおん!』や『らき☆すた』といった2000年代アニメを俗にカタルシスなき「日常系」と呼ぶとき、この「日常系」は「死蔵データ」と近しい価値観を共有している。哲学者の仲山ひふみがVブロックの審査で発し、「死蔵データ」の鑑定項目となった「普通の奇蹟」、ほかにも「凡庸」などが当てはまるだろう。その一方で、「恥部恥部メモリー」といった情けなさ、「勢い」「繊細」「熟成度」といった、忘れたいけど甘酸っぱい青春、過去への追憶を思わせる言葉が挙げられている。ここで、2010年代アニメにおける「異世界系」、すなわち現代人が剣と魔法のファンタジーへ転生するという物語形式のなかで、それは『異世界居酒屋「のぶ」』のような「日常系」であり、『無職転生』のような「セカイ系」における、転生によって物語内に現代的な視点を挟み直すことで陳腐になった形式を生きながらえさせるような効果を想起させられる。この「異世界系」が過去のあらゆる物語にいまの視点をぶつけることで復活させることと、「死蔵データグランプリ」が(メディア的に、あるいは時代の流行に対して)陳腐化したデータを、どのような価値基準で見直すと輝きだすかという、違う世界へ「データ」を転生させるということとの類似性を認めることができるはずだ。


カタルシスの岸辺が得票数を発表する様子[提供:カタルシスの岸辺]


純粋に死蔵しているデータとは、美的状況にある、無意味ということであるが、それが「死蔵データ」としてグランプリを勝ち抜けば勝ち抜くほど、資料性や商品価値をもち始め、政治化されていく。カタルシスの岸辺が「マテリアルショップ」で、鑑賞者が選んだゴミをオブジェにするとき、そのオブジェは唯一無二であるがゆえにその美的存在性(使用できなさ、無意味さ)は保持されるが、新しいストックイメージたる「死蔵データ」の場合は、それはデータであるがゆえに無限に複製可能で、無限のオーナーシップと使用が可能だ。共犯者をつくる手つき、そして、その価値や概念を決してひとつに収斂させないグランプリの決定方法という、この参加者の巻き込みと冗長さにカタルシスの岸辺による造形があると思った。

イベントは生配信視聴券2000円、一般観覧席3500円でした。



★──「死蔵データ」を、ヒト・スタヤルにおける『貧しい画像を擁護する』(2009)や、アーティ・ヴィアカントの『ポストインターネットにおけるイメージ・オブジェクト』(2010)といった2010年前後の画像をめぐる新アウラ論の系譜に位置づけることは容易だろう。もちろん、レフ・マノヴィッチが2010年代に取り組んだ1500万枚以上のInstagramにアップロードされた画像を分析した『Instagramとコンテンポラリー・イメージ』(2017)との差分で考えるのも面白い。
死蔵データグランプリ2022」詳細についてはこちら。
https://katakishi.com/wp-content/uploads/2022/06/ce1fe83ac0ed4b4b0be40e7d97d24c9f.pdf(カタルシスの岸辺「第一回死蔵データグランプリスポンサーさまご提案用企画資料」2022.06.14)



死蔵データGP 2022-2023 決勝戦:https://katakishi.com/sdg_final_battle/

2023/03/25(土)(きりとりめでる)

佐藤信太郎「Boundaries」

会期:2023/03/23~2023/05/13

PGI[東京都]

佐藤信太郎は東京とその近郊の都市環境を、精密に測定して撮影するようなスタイルの作品を発表してきた。本作「Boundaries」もその延長上にあるシリーズだが、手法も見た目もかなり違ったものになってきている。

佐藤が今回、被写体として取り上げたのは、崖のように切り立った起伏のある地形の場所である。かつては海と陸の境界線上に位置していたそんな場所には、さまざまな草木が生い茂り、「垂直に迫り上がっていく森」の様相を呈している。佐藤は撮影後に写真をプリントし、何気なく少しずらして重ねて置いていた。それを見て、複数のプリントが互いに干渉することであらわれてくる時空間の面白さに気がつく。そこから、四季を通して撮影した画像から自在にイメージを切り出し、微妙に重ね合わせながらほかの画像と「リコンバイン」(recombine=組み替え)していく本シリーズを発想するに至った。

最初の頃は、画像を直線的に切りとっていたが、次第に植物の輪郭をそのまま利用して複数のレイヤーを重ねたり、ふたたび引き剥がしたりするやり方をとるようになる。結果として、「Boundaries」シリーズは、より抽象度を増し、「上とも下ともいえないゆらぎ」を備えた時空間を定着する、ユニークな作品として形をとっていった。

今回の展示は、プリントに白いオーバーマットをかけ、写真用のフレームにおさめたオーソドックスなものだった。だがこのシリーズは、より大きくプリントしたり、横長に繋げたりすることによって、写真作品の枠を超えたインスタレーションとして展開できる可能性をもっているのではないだろうか。さらにまだ先がありそうだ。


公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8566

2023/03/24(金)(飯沢耕太郎)

森島善則「unreality flows」

会期:2023/03/16~2023/03/26

gallery Main[京都府]

青、白、オレンジ、黄色、赤、緑などのカラフルで不定形な色面が、マーブル模様のように揺らめく。森島善則の作品は、抽象絵画やノイズを加えたCG画像、サイケデリックな実験映像のようにも見えるが、「光が反映した川面」を切り取った写真であり、加工は加えられていない。

「印画紙の表面に光の痕跡を記録する」というアナログ写真の本質を、「光を反映する水面」を撮ることで自己言及しつつ、抽象化を推し進めることで、写真/絵画の境界を曖昧化すること。森島の作品は、写真自体に対するメタ的な問いをはらむ。さらに、被写体の一部が、大阪の繁華街を流れる川面に反映した「巨大な電光看板の光」であることに着目すると、消費社会批評としても解釈可能だ。



会場風景


駅の構内や車両内、商業施設などの公共空間に加え、いまや個人の情報端末も広告で埋め尽くされ、消費を刺激する情報が液晶画面の中を流れていく。不快なものが一切取り除かれ、画像修整されたそれらは、森島の作品タイトルが示すように、まさに「unreality flows」だ。森島の写真は、広告の光を水面に反映した「虚像」として写し取り、色彩と光の魅惑的な乱舞に変換することで、実体がないからこそ幻惑的であるという広告の本質を突きつける。それは、広告が提供するのは視覚的快楽にほかならないことを暴きつつ、その快楽を抽出して純粋化することで、「消費のメッセージ」を無効化させてしまうのだ。



会場風景


「光の反映が揺らめく川面」を写した美しい抽象的な写真として、ドイツの現代写真家アンドレアス・グルスキーの「バンコク」シリーズが思い浮かぶ。だが、巨大サイズの写真の隅々までピントの合った高精細なグルスキーの写真を凝視すると、川面にはゴミが漂い、油膜が光り、消費社会の象徴が写り込んでいることに気づく。グルスキーの写真は、精緻な合成処理や厳格で幾何学的な画面構成により、カラフルな大量生産品が整然と陳列されたスーパー、無数の人々が蠢く巨大スタジアムのような商品取引所、巨大な高層建築、うやうやしく商品が陳列された高級ブランドの陳列棚など、グローバルな消費資本主義社会を象徴する光景を「非現実的で空虚なスペクタクル」として写し取ってきた。ゴミや油膜が浮遊するグルスキーの「バンコク」シリーズと、ただ美しい色と光の戯れとして抽出する森島の写真は、いわばと影と光なのだ。



会場風景



公式サイト:https://gallerymain.com/exhibiton_yoshinorimorishima_2023/

2023/03/19(日)(高嶋慈)

上竹真菜美「過ぎ去っても終わっていない」

会期:2023/03/11~2023/03/26

Labolatory of Art and Form[京都府]

大量死の犠牲者を、匿名的な集団性のなかに埋没させるのではなく、どのように「個」として向き合うことが可能か。「かつて奪われた個人の尊厳」の見えにくさに対し、どう同じ目線を向けることが可能か。この問いを改めて考える契機となったのが、上竹真菜美の個展である。

上竹が参照するのは、アーティスト・イン・レジデンスでベルリンに滞在中、街中で目にした《躓(つまず)きの石》である。これは、ユダヤ人、シンティ・ロマ、性的マイノリティ、障害者、政治犯などナチスによる迫害の犠牲者について、名前、生年、移送された強制収容所、死亡の年月日などを刻印した真鍮のプレートを、最後に住んでいた住居前の歩道に埋め込むプロジェクトである。ドイツでは1980~1990年代、ナチズムやホロコーストの負の記憶を主題化し、記憶の想起に向き合う表現やパブリック・アートが興隆した。代表例のひとつである《躓きの石》は、ドイツの美術家グンター・デムニッヒが90年代に構想し、2000年から実施。遺族や近隣住民の依頼により、2022年10月時点で約96,000個がヨーロッパ各地に設置され、現在も進行中だ。



会場風景


上竹は、死亡日と同じ日付にベルリン市内の40個の《躓きの石》を訪れ、追悼の表明として、ゴミやホコリを手で払ってプレートを磨いた行為を写真で記録した。また、死亡した日にその場所で見えた天体図を対として制作した。「その日、その場所で見えていた星空」は死に個別性を与えなおすと同時に、無数の弾痕のようにも見える。



会場風景



会場風景


上竹の個展は、《躓きの石》を通して慰霊碑のあり方について改めて考える機会となった(ただ、展覧会のサイトや会場で配布されたステートメントに、グンター・デムニッヒという作家名が明記されていないことは気になった)。「死亡日と同じ日付に訪れる」「死亡日の夜空を再現する」という上竹の身ぶりを可能にするのは、国家的な大量虐殺が無軌道な狂気ではなく、集団移送や「死」の記録を極めて官僚的な手続きで行なっていたという事実である。巨大で厳格な管理体制があったからこそ、個人の最低限の尊厳をすくい上げることが可能になったという皮肉が露呈する。

また、《躓きの石》の批評性は、視線を一極に集中させる巨大なモニュメントの政治性に対し、「分散型」によって対抗する点にある。(ホロコーストと単純な比較はできないが)日本における慰霊碑のあり方を振り返ると、「犠牲者の氏名を一箇所に集約させる」力学が働いていることに気づく。同時にそこには、視線と身体を方向づける導線が巧妙に設計されている。例えば、沖縄の平和祈念公園では、戦没者の氏名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」が放射状に配置され、中央の通路は「6月23日(慰霊の日)の日の出の方位」に設計されている。広島平和記念公園では、原爆死没者名簿を納めた石室を覆うように埴輪の家の形をした原爆死没者慰霊碑が建ち、広島平和記念資料館―平和の灯―原爆ドームをつなぐ軸線を形成する。東日本大震災の被災各地では、石碑への刻印(岩沼市立千年希望の丘、釣師防災緑地公園)、取り外し可能な名札タイプ(釜石祈りのパーク、石巻南浜津波復興祈念公園)などの差異はあるが、沿岸部の更地に整備された復興祈念公園の中に個人名が集約される。そこでは、「個の回復」であるはずの固有名は集合的な存在として扱われ、視線と身体を方向づける空間設計によって、追悼者もまた「(ナショナルな)共同体」の再生産の中に組み込まれていく。

《躓きの石》が批評するのは、まさにそうした記憶の想起の力学である。それは、ホロコーストが「絶滅収容所の中」だけで起こった特異な出来事ではなく、日常の生活空間に遍在する暴力であったことと同時に、その「見えにくさ」を示す。そして「手で汚れを払うためにかがみこむ」という上竹の姿勢は、「追悼」が文字通り、犠牲者やマイノリティと同じ目線になることであると告げている。

「足元にある個人の尊厳」をひとつの大きな存在に集約せず、同じ目線になることでその「見えにくさ」それ自体に目を凝らすこと。同時期に開催された谷澤紗和子の個展とも通底する主題であり、同評をあわせて参照されたい。


参考文献
香川檀『想起のかたち 記憶アートの歴史意識』(水声社、2012)
中村真人「世界最大の分散型記念碑 : グンター・デムニッヒと仲間たちの「つまずきの石」(前編)」(『世界』2022年1月号、岩波書店、pp. 256-265)
中村真人「頭とこころでつまずく : グンター・デムニッヒと仲間たちの「つまずきの石」(後編)」(『世界』2022年2月号、岩波書店、pp. 230-239)


《STOLPERSTEINE(躓きの石)》プロジェクト 公式サイト:https://www.stolpersteine.eu/en/home


関連レビュー

谷澤紗和子「ちいさいこえ」」|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年04月15日号)

2023/03/19(日)(高嶋慈)

さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展

会期:2023/03/18~2023/06/18

東京都現代美術館 企画展示室 3F[東京都]

東日本大震災の記憶をどう受け継ぎ、作品化していくのかということは、多くのアーティストにとって大きく、重い課題といえるだろう。とりわけ、2008年から宮城県名取市北釜を拠点として活動し、震災直後の凄惨な状況をまざまざと体験した志賀理江子にとっては、それが特別な意味をもつテーマであり続けているのは間違いない。今回、Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023の受賞記念展として開催された竹内公太との二人展でも、力のこもった作品を発表していた。

ビデオ・インスタレーション作品の《風の吹くとき》(2022-2023)には、宮城県沿岸部の防波堤を歩く目を閉じた人物たちが登場する。彼らを支え、導くもう一人の人物が、強い風が吹き荒ぶその場所で、震災にまつわる思いや出来事を静かに語りかける声が聞こえてくる。視覚を奪われた人物は、あの地震と津波による「暗い夜」を経験した者たち、一人ひとりの化身というべき存在なのだろう。

もうひとつの作品《あの夜のつながるところ》(2022)では、大きく引き伸ばした写真プリントを壁に貼り巡らし、パイプ、土嚢袋、鉄板などを床に配置していた。福島県の山間部の私有地だという、津波で流された車両、船、ユンボなどの重機類を「瓦礫ではなく私物」として置いてある場所を再現したインスタレーションである。志賀はここでも、震災の記憶そのものの個別化、具現化をめざし、それを全身全霊の力業で実現していた。

竹内公太の、太平洋戦争末期の風船爆弾の飛来地(アメリカ)を、地図、ストリーミング映像、写真などを介して検証した作品群も、やはり時の経過とともに災厄の記憶がどのように変質していくのかを丹念に追っており、志賀の仕事と共振する内容だった。東京都現代美術館の天井の高い、大きなスペースが、うまく活かされた企画展といえるだろう。


公式サイト:https://www.tokyocontemporaryartaward.jp/exhibition/exhibition_2021_2023.html

2023/03/19(日)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00064326.json s 10184030

文字の大きさ