artscapeレビュー

2016年03月01日号のレビュー/プレビュー

米谷清和 展 ~渋谷、新宿、三鷹~

会期:2016/01/16~2016/03/21

三鷹市美術ギャラリー[東京都]

日本画家、米谷清和の本格的な個展。米谷と言えば東京の街並みを描いた日本画で知られているが、今回は渋谷と新宿、そして三鷹周辺という主題に沿って46点を展示した。作品の点数と号数からすると必ずしも十分な空間とは言えないが、それでも今日の都市社会を美しく表わした絵画ばかりで、見応えがある。
無機質な都市構造と非人間化された人間像。渋谷駅をまたぐ首都高速の高架や新宿駅西口の高層ビル群など、米谷の絵画には直線によって構成された人工的な都市環境が巧みに取り込まれている。駅の構内を歩く通勤客の群像も、画一化され均質化されて描写されているため、とても生命力にあふれた人間とは思えない。《終電車I》(1971)や《電話》(1982)のように、ある種の物語性を読み取ることができる作品がないわけではないが、米谷の描き出す人間像は、おおむね、まるで死んでもなお会社を目指して一心不乱に歩き続けるゾンビと化したサラリーマンのようだ。それらとは対照的に、有機物であるはずの植樹の筆致がいかにも浅薄であることからもわかるように、米谷の視線は徹底して無機的で人工的な都市環境に集中しているのである。
しかし、米谷の絵画は現在の都市社会を否定的に告発しているわけではない。確かに、私たち自身の醜い自画像を突きつけられるという点での衝撃がないわけでないが、同時に、そこにはある種の美しさを見出すことができる点も否定できない事実だからだ。大空を覆い隠すほど巨大な首都高の高架下を描いた《雪の日》(1984)や、色とりどりの照明を反射する雨上がりの路面を描いた《ASPHALT》(1991)などを見ると、東京に生きる者であればいつかどこかで身に覚えのある美の契機を感じ取ることができるにちがいない。
逆に言えば、都市社会で生きる者にとって美の契機は、それほどまでに無機質で人工的な都市環境のなかに転位してしまったのかもしれない。かつてそれは自然のなかに根づいていた。だが、いまやそれは自然を離れ、都市のなかに反転してしまった。いや、無機質で人工的な都市環境こそ「自然」となったと言うべきか。米谷の絵画のうち、都心である新宿と渋谷を主題にしたものに比べて、相対的に郊外と言える三鷹を主題にしたものは明らかに中庸であり、魅力に乏しい。おそらく米谷にとって「自然」は、もはや青々とした自然のなかにはなく、灰色の街並みの只中にあるものではなかったか。
あるいは、こうも言えるかもしれない。米谷は都市生活で失われてしまった「自然」を、都市の外部としての郊外に発見するのではなく、その都市の内側からまさぐり出そうとしたのだと。ある種の理想的な景色を画面に定着させるという意味で、米谷清和の日本画はきわめて現代的な風景画なのだ。

2016/02/18(木)(福住廉)

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気仙沼と、東日本大震災の記憶 リアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史

会期:2016/02/13~2016/03/21

目黒区美術館[東京都]

東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館の常設展示を見せる展覧会。リアス・アーク美術館は震災発生直後から気仙沼市と南三陸町の被災状況の調査を開始し、その成果をもとに、常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」を2013年より公開している。被災現場を撮影した写真は約30,000点に及び、収集した被災物も約250点。本展は、そのうち約500点を一挙に展示したもの。何よりも、その膨大な資料群に圧倒される展観だ。
むろん、すべてを押し流した津波の破壊力を物語る写真が来場者の眼を奪うことは言うまでもない。しかし、来場者を圧倒するのは写真だけではない。それらの傍らに掲示されたキャプションに書かれたおびただしい言葉もまた、私たちの心に重く響く。
震災発生直後の緊迫感あふれる言葉から震災当時を振り返るやるせない言葉。それらは被災状況を克明に解説するばかりか、同様の被災を二度と繰り返さないための経験的な警句や過去の経験を生かしきれなかった自戒も含んでいる。「鉄は硬いもの、そう思っているが、実は粘土のようにグニャグニャ曲がる。鉄骨構造物を過信すると危険だ」「明治の津波でも、昭和の津波でも同じことが起きている。なぜ過去の経験が生かされないのか。ここはそういう場所だとわかっているはずなのに」といった言葉が、ある種の切実さを伴って来場者の眼に迫ってくるのだ。
「人は忘れる。しかし文化は継承される。津波災害は地域文化として継承されるべきである」。けだし名言である。とりわけ本展が想定している東京近郊の来場者の多くが、5年前の震災を早くも忘却しつつあることを思えば、その地域文化を全国的に発信する必要性も痛感せざるをえない。そもそも「東日本大震災」から遠く離れた西日本では、津波災害の受け止め方に温度差があることは否定できないとしても、その一方で津波災害は少なくとも沿岸地帯であればどこでも発生しうることもまた明確な事実である以上、その「地域文化」とは文字どおり特定の地域に固有の文化という意味ではなく、あらゆる人々がそれぞれの地域で育むべき自分たちの文化であると理解しなければなるまい。
だが、どのようにして? 美術をはじめとする視覚文化が、記憶の再生産によって忘却に抗いつつ、その地域文化の継承に資することは、ある程度期待できる。しかし、本展で展示されていた歴史資料、すなわち明治29(1896)年の明治三陸大津波を主題にしたイラストレーションを見ると、その地域文化を健全に育むには、被災状況の記録写真や残された被災物だけでは不十分なのではないかと思わざるをえない。というのも、大衆雑誌『風俗画報』に掲載された「大海嘯被害録」には、家屋を破壊し、人畜を流亡する大津波自体が明確に描写されていたからだ。破壊された家屋によって津波の暴力的な破壊性を逆照するだけでなく、押し寄せた津波そのものを正面から表現していたのである。
思えば、津波にせよ放射能にせよ、東日本大震災をめぐる視覚文化の大半は、事後的な水準に焦点を当てていた。出来事そのものを表現することを避けてきたと言ってもよい。むろん、震災発生直後の、あの黒々とした津波が街を呑みこんでゆく報道映像は、いまも数多くの人々の脳裏に焼きついていることを考えれば、とりわけ芸術表現として取り上げる必然性に乏しいのかもしれない。大正時代の「大海嘯被害録」は映像の時代ではなかったからこそ成立していたとも言えるだろう。
けれども、津波災害が地域文化として継承されるべきであるならば、津波という出来事そのものを主題とした視覚文化が必要不可欠ではなかろうか。確かに映像が残されているとはいえ、私たちはその出来事を、どれほど悲惨だったとしても、いずれ忘れ去ってしまうからだ。忘却に抗いながら、出来事の記憶を分有するための文化装置。むろん、それはまちがいなくフィクションであり、被災者との同一化を実現するものでは、決してない。しかしだからこそ、被災者にかぎらず、あらゆる人々が対象になりうるのであり、そこから津波災害を地域文化として根づかせることができる。本展では、気仙沼の地域文化や生活資料を紹介した「方舟日記─海と山を生きるリアスな暮らし」も展示されていたが、この先必要なのは、むしろよりフィクショナルな、すなわち芸術的な展示ないしは作品ではなかろうか。
凄惨な出来事を直接的に表現した地域文化として、丸木位里・俊による《原爆の図》が挙げられる。むろん震災と被爆ないしは被曝を同列に語ることはできないが、《原爆の図》がいまも原爆という恐るべき出来事の継承と記憶の分有のための文化装置として機能していることは、津波被害をもとにした地域文化を育むうえで、大いに参考になるはずだ。同作を常設展示している「原爆の図丸木美術館」を訪ねるたびに、私たちの心に原爆という暗い影が忍び寄る。それは決して健やかな美的経験とはかけ離れているが、しかし、《原爆の図》は今日の現代美術にとっての原点であり、そこに定期的に立ち返ることで原点の所在を改めて確認する、ある種の儀礼行為として十分すぎるほど意味がある。この原点を見失うとき、忘却は始まるのだろう。

2016/02/18(木)(福住廉)

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プレビュー:美術と音楽の一日 rooms

会期:2016/03/05

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

サウンド・アーティストの藤本由紀夫、映像作家の林勇気と音楽家の米子匡司、サウンドインスタレーションの原摩利彦、ミュージシャンのharuka nakamura、西森千明、Polar Mが集い、村上三郎と小杉武久の館蔵品も加わって、視覚や聴覚といった感覚の枠組みにとらわれない芸術体験が繰り広げられる。タイムスケジュールに沿って出し物が入れ替わるのも美術館では珍しく、美術ファンと音楽ファン双方にとって新鮮な体験になるのでは。1日限りというのは勿体ないが、逆に一期一会の醍醐味が増すだろう。早春の一日を、美術と音楽に浸ってまったり過ごすのも悪くない。

2016/02/20(土)(小吹隆文)

プレビュー:第2回PATinKyoto 京都版画トリエンナーレ2016

会期:2016/03/06~2016/04/01

京都市美術館[京都府]

2013年から始まった大規模版画展。特徴は、経験豊かなコミッショナーによる推薦制をとっていること、一作家あたりの展示スペースが広大であること、表現形態の縛りが緩やかであることだ。これにより作家の質と表現の多様性を担保し、版画芸術の新たな発信拠点となることを目指している。2回目の今回は、池田俊彦、小野耕石、加納俊輔、金光男、林勇気、門馬英美など俊英20名が出品。なかには版画とは呼べない作品もありそうだが、それを許容するのも本展のユニークなところだ。デジタル技術の進歩や印刷分野の多様化により、今後の版画は大きな変化が予想される。一方、「刷る」という基本が改めて見直される場合もあるだろう。そうした長期的・複眼的思考で本展に臨めば、きっと楽しめると思う。

2016/02/20(土)(小吹隆文)

三軒茶屋 三角地帯 考現学

会期:2016/01/30~2016/02/28

世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]

東京都世田谷区三軒茶屋。生活工房のあるキャロットタワーとは世田谷通りを挟んだ向かい側、玉川通り(国道246号線)との間に挟まれた「三角地帯」に、古い商店街・飲食店街が軒を連ねている。本展は戦後に立った闇市の名残を留めるこの魅力的な一帯を、今和次郎の考現学よろしく観察し記録し、手書きの表や図版、イラストでレポートするという企画。看板や暖簾などのデザインの採集や、通行人調査といった外から観察できるもののほか、飲食店で出されるビールの銘柄やお通しの種類の記録、特定のバーに訪れた人たちの属性や、飲まれたウィスキーの銘柄、スナックのカラオケで歌われた曲など、奇妙で興味深いレポートが並ぶ。これまでにも「三角地帯」を何度か歩いているが、展示を見た後に改めて訪れてみると、これまで見えていなかった/見ていなかったものがたくさんあることに気づかされた。この調査に参加していれば、おそらくもっと多くのものが見えてきたに違いない。展示レポートでやや気になったのは、一部に観察対象へのインタビューと思しき内容が含まれていたり、観察結果からなにか理由を推論する言葉が見られたりする点である。編集者・都築響一氏は自身の仕事と比較して、今和次郎の考現学は対象のなかに入っていかない、つねに対象から距離を置いていると評している(『今和次郎採集講義』[青幻舎、2011]158~159頁)。また、限られた期間や時間、場所において行なわれる考現学的観察は統計調査とは言い難く、観察結果を以て直ちになにかを結論づけられるような性格のものではない。その方法の限界と美学からすれば、ここでのレポートはあえて視覚的な観察と記録の提供に徹して、そこからなにを考えるかについてはすべて鑑賞者に委ねたほうが良かったと思う。[新川徳彦]

2016/02/20(土)(SYNK)

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2016年03月01日号の
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