artscapeレビュー

2016年11月01日号のレビュー/プレビュー

紫、絵画。渡邉野子

会期:2016/09/24~2016/10/22

Gallery G-77[京都府]

紫を基調とした色彩と激しい筆致の抽象画で知られる渡邉野子。「対比における共存」をテーマとする彼女にとって、赤と青が混ざった紫はテーマを体現する色である。また新作では金と銀を新色として使用しており、画面の質感が以前の作品とは少し違って見えた。抽象画というジャンルは、現在の絵画シーンのなかで沈滞気味と言える。その原因は、表現方法が出尽くしたこともあるだろうが、それ以上に現実社会との接点を疎かにしていたからではないか。本展のチラシに記された文面を見てそう感じた。その文面とは、「東洋と西洋のはざまにあり、不安定にそして肯定的にたたずむ渡邉の線は、世界において異質なものや多様な理念が混在し衝突する社会に育ち、混沌とした今と将来に生きる世代の作家としての存在理由を象徴しています」。まるで現在の国際情勢を語っているかのようだ。そして、こうした社会のなかで抽象画を描く理由を端的に示したとも言える。もちろん、現実の諸問題とコミットするしないは個々の自由である。筆者が言いたいのは、パターン化した思考から抜け出し、新たな視点を得ることで、抽象画に新たな存在意義を与えられるのではないかということだ。時代が再び抽象画を要請するかもしれない。このテキストを読んで大いに勇気づけられた。

2016/09/27(火)(小吹隆文)

ドレッサーの贈り物─明治にやってきた欧米のやきものとガラス

会期:2016/09/27~2016/12/18

東京国立博物館本館本館 14室[東京都]

1873年(明治6年)に開催されたウィーン万国博覧会に、明治政府は初めて公式に参加。西洋技術を学ぶために多くの人材を派遣し、博覧会出品作品など多数を参考資料として購入した。しかしながら、1874年3月20日未明、日本からの出品作品や現地で購入した品々を積んで日本に向かっていたフランス船ニール号が伊豆半島西岸で沈没。乗員・乗客90人のうち救助されたのは4人。翌年に積荷の一部は引き揚げられたものの、大部分は海に沈んでしまった。この悲報を聞いたサウス・ケンジントン博物館(現・ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)の館長・フィリップ・クンリフ=オーウェン(Sir Francis Philip Cunliffe-Owen, 1828-1894)が、ヨーロッパの美術工芸品を集めて日本に贈ることを提唱。集められた300点を超える贈り物を携えて1876年(明治9年)に来日したのが、イギリスのデザイナー、クリストファー・ドレッサー(Christopher Dresser, 1834-1904)だった。贈り物の中で最も数が多かったのはやきものとガラスで、ドレッサーはその選定・収集に深くかかわっていた。これらの品々は工業用の見本として使用されて大部分が散逸。現在、東京国立博物館には58点、京都国立博物館には5点が収蔵されているという。本特集展示には東博が所蔵するこれらの陶磁器とガラス器、およびドレッサーに関わる工芸品、ニール号からの引き揚げ品など48点が展示されている。「贈り物」の陶磁器はイギリスおよびドイツ製。中でも目を惹くのはドイツでつくられた、16世紀フランスの陶芸家ベルナール・パリッシーのグロテスクな器の写し。当時ドイツではこのようなヨーロッパの古い陶器の写しが流行していたという(こうした流行が宮川香山の高浮彫がヨーロッパで人気を博した背景にあろう)。イギリス製の磁器フィギュアにはマイセンやセーブルの影響が見える。ドレッサーがデザインしたイギリス・ミントン社の器もある。色ガラスの小品はオーストリア製、デカンタや花瓶などの透明なガラス器はイギリス製だ。これらの贈り物はいずれも当時の超一流の美術工芸品というわけではなさそうだが、19世紀後半ヨーロッパにおけるデザインの流行と日本との関わりを見ることができる興味深い史料だ。[新川徳彦]

関連レビュー

世界に挑んだ明治の美──宮川香山とアール・ヌーヴォー:artscapeレビュー|SYNK(新川徳彦)

2016/09/30(金)(SYNK)

伊藤キム/フィジカルシアターカンパニーGERO『家族という名のゲーム』

会期:2016/10/01~2016/10/02

スパイラルホール[東京都]

伊藤キムの舞台という点では、予想通りの内容なのかもしれない。いまやほとんど使われなくなった名称である「コンテンポラリー・ダンス」の、日本における代表的な存在の一人が伊藤である。その特徴は日常性にある。今作では、その日常性が家庭の食卓という形であらわれている。四人の男女、彼らはときに父、母、娘、息子となる。散らばった日常の品々。それを手に取っては、その品物に関係ありそうでなさそうな言葉を口にする。日常性からつるっとすべり、はみ出る瞬間。ただし、それは日常に亀裂が走って真っ逆さまに落ちるといった事態というより(そうなれば舞踏になるかもしれない)、日常からずれて日常の重さから抜け落ちる瞬間なのだ。「回避」という言葉が浮かぶ。それは実に「伊藤キム」らしい。身体動作に起きるずれというよりは思考のずれにあえていえば伊藤キムのダンスはあり、それは「あれ、どうしてそうなるの?」といったずれの感覚として顕在化する。例えば小さな場面。着ぐるみを着た男に、女が不満を爆発させる(二人はつきあっているという設定でのこと)。爆発は増幅してゆく。着ぐるみに顔をうずめて女が話すほどにそうなる。そしてさらに彼女の声はくぐもる。その「ずれ」が「おかしい」という趣向なのだ。男は聞きとりにくいと愚痴をこぼす。女に対する男の愚痴は、観客の賛同が起こるというより、「不満」(内容)を「聞きとりにくい」(形式)にすり替える不誠実な態度として映る。日常性からの遊離が「空とぼけ」として起こるこの「ダンス」は、繰り返すが、舞踏のような非日常(異常なもの)との出会いを生むというよりも、「遊離してしまった自分」へと意識が向かうという意味で、ナルシスティックなものとなる。舞踏と比較する必要は必ずしもない。ただ、伊藤の行なう日常性とのナルシスティックな関わり方に、どんな価値をひとは見るのだろう。いかにも、これは日本の「コンテンポラリー・ダンス」だ。けれども、それでよいのか、という問いに現在の多くの日本のダンスは至っているのではなかったか。

2016/10/01(土)(木村覚)

アウラの行方

会期:2016/09/17~2016/10/08

CAS[大阪府]

藤井匡がキュレーションを行ない、國府理、冨井大裕、末永史尚の作品で構成された本展。テーマは美術の制度と場を再考することだが、筆者にとってそれは二の次だった。では何が一番なのか。國府理の映像作品《Natural Powered Vehicle》が見られたことだ。この作品には、古い国産軽自動車に帆を張った國府の作品が登場し、彼が自らハンドルを握って田舎道や海岸の砂浜を疾走する。その開放感、ロマンチシズムにグッときたのだ。また、筆者が初めて國府理と彼の作品に出会ったときの記憶もフラッシュバックした。企画の本筋とは無関係に感動しているのだから、キュレーターには申し訳ない限り。でも、たまにはこんな展覧会の見方があっても良いだろう。

2016/10/07(金)(小吹隆文)

月─夜を彩る清けき光

会期:2016/10/08~2016/11/20

渋谷区立松濤美術館[東京都]

いきものにとって太陽が不可欠なことはいうまでもないが、視覚的には太陽よりも月のかたちが意識に上りやすく思うのはそれが満ち欠けによって日ごとに姿を変える存在だからだろうか。明治時代に太陽暦が採用されるまで、日本ではながらく太陰暦が用いられ、月の満ち欠けによって生活のサイクルが決まっていたことも、月の姿に意識的になる理由であろうか。本展はそうした日本人の生活と深い関わりを持つ月をモチーフとした絵画、工芸品を7つの章に分けて紹介するテーマ展。第1章は「名所の月」。中国湖南省の洞庭湖の上空に浮かぶ秋月を描いた《洞庭秋月図》から始まり、浮世絵に描かれた近江八景《石山秋月》、名所江戸百景など広重が描いた月へと至る。「月」に注目すると橋の下に満月を配した広重《甲陽猿橋之図》の構図がひときわすばらしい。第2章は文学。月に関わる詩歌や物語を絵画化した作品のなかで注目すべきは竹取物語であろうか。第3章は月にまつわる信仰で、月天像が紹介されている。第4章は「月と組む」。月と山水、月と美人、月と鳥獣など、月と組み合わせることで作品には季節や時間帯が含意される。広重《月に雁》のように季節は秋が多いが、中には朝顔や桜花との組み合わせもある。第5章は月岡芳年が月を主題として描いた「月百姿」。第6章は武具と工芸。月はしばしば刀の鐔のモチーフに用いられているが、出品作品のなかでは棚田に映る三日月を意匠化した西垣永久《田毎の月図鐔》が興味深い。第7章「時のあゆみと月」には暦や十二カ月を主題にした作品が並ぶ。なお、会期中の11月14日には満月が地球に近づく「スーパームーン」を見ることができるそう。それも今回は68年ぶりに月が地球に最接近するとのことだ。[新川徳彦]

2016/10/07(金)(SYNK)

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