artscapeレビュー
2017年02月01日号のレビュー/プレビュー
RAKU MASAOMI 彫刻家 樂雅臣展
会期:2017/01/02~2017/01/17
美術館「えき」KYOTO[京都府]
新進の彫刻家、樂雅臣(1983~)は第十五代樂吉左衛門の次男として、樂茶碗で知られる名家、樂家に生まれた。本展は2016年に制作された最新作、26点を中心とした展覧会。石の彫刻作品はどれもシンボリックで抽象的な形をしている。素材はジンバブエブラックという黒い御影石とオニキスという大理石の2種類で、会場はジンバブエブラック製作品を展示した暗いスペースとオニキス製作品を展示した明るいスペースに分かれている。石という素材のどっしりとした重量感を充分に活かした作品には堂々とした存在感が感じられ、「雄刻」「雌刻」「稲妻」「雷」「雨風」「新芽」「雲海」「雷鳴」といったタイトルからはそれらが自然や生命といった極めて本質的なテーマのもとで創作されたことがわかる。京都国立近代美術館の「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展と会期が重なっていることは偶然ではあるまいが、当代、樂吉左衛門作と次代襲名予定の樂篤人作の茶碗も会場の一角を飾っており、樂家に伝わる創造力の広がりと可能性を感じる展覧会でもあった。[平光睦子]
2017/01/08(日)(SYNK)
篠山紀信展 快楽の館
会期:2016/09/03~2017/01/09
原美術館[東京都]
原美術館の展示室、庭で撮影されたヌード写真の巨大なプリントが、まさに撮影されたその場に展示されているというサイト・スペシフィックなフォト・インスタレーション。モデルのメイクは完璧。肌は白く滑らかでラブドールのよう。1枚の写真に同じモデルが複数登場していることも、作りものであるかのようなイメージを強めている。展示を見たのが最終日だったこともあり、会場には多くの人々が訪れていた。男性よりも若い女性の方が多かったのではないだろうか。ベビーカーの家族連れもいく組か。写真も、それを見る人々の目線も明るく乾いている。淫靡なところもなければ後ろめたさも感じられない。なので思うのだ。「快楽の館」の「快楽」とは何だろうか。誰にとっての「快楽」だったのだろうか、と。[新川徳彦]
2017/01/09(月)(SYNK)
世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画
会期:2016/11/16~2017/01/09
サントリー美術館[東京都]
「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風の絵画」ゆえに「秋田蘭画」とよばれる作品の、中心的な描き手であった小田野直武(1749~1780)と、第8代秋田藩主・佐竹曙山(1748~1785)、角館城代・佐竹義躬(1749~1800)らの業績を辿る展覧会。秋田蘭画の特徴は、西洋画のような影や細部の描写、近景と遠景の対比、遠景においては銅版画のようなタッチで、代表的な作品は小田野直武「不忍池図」。和洋折衷の不思議な印象の作品だ。「不忍池図」は知っていたが、恥ずかしながら、『解体新書』の図を描いたのがこの小田野直武であるということを本展で初めて知った。鉱山調査で秋田藩を訪れた平賀源内と知り合った直武が江戸に上り、源内のネットワークを通じて蘭学者と出会い、『解体新書』の表紙、挿画を手がけることになったのだという。
直武が江戸に上ったのは安永2年(1773年)末。理由は不明だが、帰藩を命じられたのが安永8年(1779年)。翌安永9年(1780年)に直武は32歳で亡くなっている。源内も同じ年に獄死。佐竹曙山も程なく亡くなり、秋田蘭画創始に関わった人物が相次いで世を去ったことになる。秋田蘭画が再び光が当てられるようになったのは20世紀以降。秋田出身の日本画家・平福百穂によって「再発見」された。「秋田」という文脈で評価されたこともあって、直武、曙山らの死によって秋田蘭画の系譜は途絶えたとされる。しかし本展第5章「秋田蘭画の行方」でもその後継者として司馬江漢(1747~1818)が挙げられているように、直武、曙山の洋風画は江戸で江漢に継承され、江漢は亜欧堂田善(1748~1822)に影響している。直武が洋風画を描いたのは江戸に上がってからのことであり、直武の主、佐竹曙山は18歳まで江戸藩邸で暮らしている。直武に洋風画を教えた源内はもちろん江戸の人だ。「武士と印刷展」(印刷博物館、2016/10/22~2017/1/15)で諸藩主の印刷事業の多くが江戸で行なわれていたとあったが、「秋田蘭画」もまた江戸の武士の文化の上に成立したと考えられようか。直武らの作品には日本画の顔料の上にアラビアゴムを塗るなどして油彩画を模す試みがあるという。直武、曙山、義躬は、江漢、田善とほぼ同年代だ。直武らがもっと長く生きて油絵の具を手にしていたら、江漢同様に油彩画や銅版画を手がけたであろうか。そうであれば日本美術史もまた異なる展開をしただろうかと想像する。[新川徳彦]
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サントリー美術館に聞く!学芸員インタビュー「なぜいま、小田野直武か?」|内田洸/内田伸一:artscapeトピックス
2017/01/09(月)(SYNK)
董其昌とその時代─明末清初の連綿趣味─
会期: 2017/01/02~2017/02/26 東京国立博物館
会期: 2017/01/04~2017/03/05 台東区立書道博物館
14回目となる東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画は、明時代に文人として活躍した董其昌(1555~1636)の書画の特集。董其昌は書においてははじめ唐の顔真卿を学び、王羲之ら魏晋の書にさかのぼった。画においては元末四大家から五代宋初の董源にさかのぼり、宋や元の書家の作風を渉猟。文人画の伝統を継承しつつものちに奇想派と呼ばれることになる画家たちの作品の先駆けとなる急進的な描法による作例も残した。董其昌が生きた時代は明王朝から清王朝への移行期。清の康煕帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その影響は大きく、その理論と作風は江戸期の日本の書画にも反映されているという。展示は東博会場と書道博物館会場でそれぞれ董其昌前夜から同時代、日本を含む後世への影響までを国内所蔵作品により6つの章で紹介している。出展作品の中でとくに興味深く見たのは、「行草書羅漢賛等書巻(東博会場)」、「臨懐素自叙帖巻(書道博物館会場)」。いずれも唐代の書家・張旭、懐素らがはじめた狂草とよばれる、草書をさらに崩した書だ。
董其昌には書画に関する優れた鑑識眼を持ち、後代にまで影響を与える作品を残した書家としての評価がある一方で、人物的には大いに問題があったようだ。35歳で科挙に及第した董其昌は10年後にいったん官職を辞しているが、その後官職への復帰と辞職をくりかえすなかで権力を濫用し、高利貸しなどによって蓄財、それを広大な邸宅の建築、書画の蒐集や趣味に費やし、美しい女性たちに囲まれて暮らした。本展図録のコラム「画禅室余話─董其昌の光と闇─」では、董其昌の人物面について、こうした興味深いエピソードがいくつか紹介されている。[新川徳彦]
2017/01/10(火)(SYNK)
中原浩大 Educational 前期
会期:2017/01/07~2017/01/21
ギャラリーノマル[大阪府]
本展は中原浩大の個展であり、もちろん彼の作品が展示されている。しかし、そのほとんどは幼児から少年時代の中原、つまり美術家になる前の彼が描いた作品である。展覧会は前後期に分かれていて、筆者が取材した前期では、彼が2歳から幼稚園の頃に描いた絵が展示されていた(現在の作品も別室で展示)。そこで見られるのは幼児ならではの自由なものだが、幼稚園に入るとテレビ番組のヒーローが登場するようになり、同時に一種の定形化というか、社会的矯正のようなものが混じってくる。なるほど、人は幼稚園の頃から社会化が始まるのか。一方でこれら幼児期の絵には現在の中原のエッセンスが詰まっているようにも見え、一人の芸術家が形作られていく過程として興味深く見ることができた。後期(1/23~2/4)には小学校以降の作品が展示される。少年・中原浩大の絵がどのような軌跡をたどっていくのかに注目したい。それにしても彼のご両親は、よくもこれだけ大量の絵を保存していたものだ。確か父母ともに教師だったと記憶しているが、我が家とは大違いだ。
2017/01/10(火)(小吹隆文)