artscapeレビュー

2017年02月01日号のレビュー/プレビュー

Perception Engineeringキックオフ──つなげる身体

会期:2017/01/21

山口情報芸術センター[山口県]

昨年の1月、筆者のプロジェクトBONUSのイベントで、砂連尾理(振付家・ダンサー)と熊谷晋一郎(当事者研究)が両者の身体の異なりを解剖し、つなぎ合わせるプレゼンテーションを行なった。二人をつなぐ役割を果たしたのはYCAM制作のRAM。それから約1年後のこの日、YCAMで行なわれたイベントは、彼らの発展的なプログラムが半分、もう半分が笠原俊一(ソニーコンピュータサイエンス研究所)のRAMをめぐる研究考察で構成された。7時間に及ぶイベントを手短に総括することは難しいので、素晴らしく探究的であったという点だけをここにレポートしておきたい。
RAM(Reactor for Awareness in Motion)は人の身体各部にセンサーをつけて、画面上の棒人形と人の動作をシンクロさせるシステム。その名に「アウェアネス」の語があるのは、鏡のような棒人形を通して自分の身体動作の隠れた部分を発見するという狙いが盛り込まれているからだ。いや、単に動作を鏡写しするだけではない。棒人形が人間らしい形状から怪物的な形状に変貌するといった応用的要素がRAMにはあり、身体に対する新鮮な感覚を引き出すという側面もある。自分を知り、自分を超えるといった2方向へと人を誘うRAMを、最大限活用するにはどうすればよいのか、そんな問いがベースにあるイベントだ。今回、熊谷はASD(自閉症スペクトラム)の人がパーソナルスペースを自認するツールにRAMを開発できないかと提案した。パーソナルスペースとは、他人に入ってこられたくないと感じる自分を取り巻く空間、他人の侵入を許容するギリギリの距離のこと。ASDの人は、自分のパーソナルスペースがうまく認識できず、それゆえにコミュニケーションの難しさを持っているのではないか。その仮説のもと、ツールの開発がYCAMと砂連尾によって行なわれた。
笠原、熊谷からの研究発表のあと、一般参加者18名とでワークショップが行なわれた。そこでは、床面に各自の足先から広がる扇状の形態が、センサーを媒介に、各自移動しても追随するシステムが用いられた。RAMの発展版と考えられるこのシステムはパーソナルスペースを計測し、それのデータを反映させている。計測は、三人一組になって、二人が会話をしているところに、もう一人が割り込む際に、その人物と二人との距離を測る、という目的で寸劇(二人のうちのどちらかをもう一人が急に呼び出すなど)を何度か行なった。その後、扇型の「パーソナルスペース」で遊びながら、他者との間に距離をとる自己への認知を参加者は高めていった。実に楽しそうに、参加者は実験と遊びが混じり合った時間を過ごしていた。
「キックオフ」とタイトルに入っているように、これは始まりだ。本来はASDの人の課題解決を目指しているのだから、ASDの人の利用を進めたり、ASDの人が含まれているワークショップなどが行なわれて初めて、真に軌道に乗ったといえるのだろう。また扇型にかたどられた仮設の「パーソナルスペース」で遊ぶのは楽しいけれども、あくまでもそれは仮設のものであって、パーソナルスペースを実感する手段・道具であることは忘れてはならないだろう。そう、実感こそが大事だ。もちろん、道具は使う人の意識をダイレクトに変える力がある。とはいえ、ハイスペックの道具が仮になくても、他者との距離を感じる試みは可能だ。ワークショップで行なわれた演劇的対話も一手段だろうが、ダイレクトに他者との距離を感じることを問題にしてきたダンスのことも忘れてはならない。言葉を介することなく、向き合い、並び合う人の存在をじっくりと感じながら、自分を相手に感じさせる、そんな即興的なダンスも「パーソナルスペース」を捉える一助となるだろう。この活動に協力している筆者としては、来年度の計画にそうした要素が盛り込まれることを期待したいし、そういう働きかけをしてみたい。

★──この時の模様はBONUSサイト上にて公開している。http://www.bonus.dance/creation/39/

2017/01/21(土)(木村覚)

ジャン・ル・ギャック展

会期:2017/01/21~2017/02/18

ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]

1936年生まれのフランス人アーティスト、ジャン・ル・ギャック。彼は伝統的な絵画表現あるいは典型的な画家像を志向していたが、それが時代と合わないことを悟ったのか、1960年代の後半になると、絵画、写真、文章を組み合わせた独自の作品を発表するようになった。作品で描写されるのは自身の子供の頃の記憶などプライべートの一部だが、事実と虚構が織り交ぜられており、観客を甘美な推理の世界へと導く。同様の作風をもつ作家にソフィ・カルがいるが、カルは1950年代生まれであり、絵画は用いていない。彼女より15年以上前に生まれたル・ギャックがこのような表現に至った背景には、1960年代後半の美術界を席巻していたコンセプチュアル・アートがあるだろう。しかし、アメリカやドイツの作家のようにハードな表現に向かわず、詩情豊かな世界を構築するあたりは、さすがフランスの作家という感じだ。そういえば、ヌーヴォー・レアリスムやシュポール/シュルファスの作家たちも詩的な余韻を大切にしていたではないか。ル・ギャックは日本ではほとんど知られていないと思うが、1972年にはヴェネチア・ビエンナーレとドクメンタに選出され、1984年にパリ市立近代美術館で個展を行なうなど、一定の評価を確立した作家のようだ。同画廊が今後も継続して彼の作品を紹介してくれることを望む。

2017/01/21(土)(小吹隆文)

サントリー美術館新収蔵品 コレクターの眼 ヨーロッパ陶磁と世界のガラス

会期:2017/01/25~2017/03/12

サントリー美術館[東京都]

近年サントリー美術館に寄贈された2人のコレクターのコレクションを紹介する展覧会。ひとつは、野依利之氏によるヨーロッパの陶磁器で、もうひとつは故・辻清明氏による古代から近代にかけての世界のガラス器だ。
「ヨーロッパ陶磁」と聞いて筆者が想像していたのはマイセンやセーブルなどの高級磁器だったのだが、野依氏の寄贈品はマヨリカウェアやデルフトウェアなどの錫釉陶器が中心。展示を見て少々驚いたと同時に、日本でヨーロッパの錫釉陶器をまとめて見る機会はそうそうないので興奮する。展示でとても興味深いのは、意匠と技術の変遷。16世紀から17世紀のイタリア錫釉陶器にはヨーロッパ的な意匠や紋章が施されたものが多い。スペインの陶器にはイスラムの影響が色濃く見える。他方で、デザインの形式には中国磁器──とくに芙蓉手──が影響している。これがデルフトウェアになると器の形も、意匠も形式も中国磁器を模したものが中心になる。1602年に東インド会社を設立したオランダは、アジアとの貿易で大量の磁器を輸入するようになり、そのデザインを模した陶器がたくさんつくられたのだ。東洋磁器の模倣がより顕著になるのは17世紀半ば。中国の内乱でヨーロッパへの磁器輸入が途絶え、その代替品としての需要が増大したからだ。磁器の原材料であるカオリンが得られないため(知られていなかったため)製品はあくまでも陶器であったが、次第に素地は薄く、釉薬は白くなり、酸化コバルトで絵付けした上に透明釉を掛けた製品はかなりよく染付磁器を再現している。色絵磁器を模した製品もなかなかの出来である。ただし、野依氏のコレクションは置物、装飾陶器が中心なのでその質が高いということに留意しておく必要がある(デルフトの主要な製品は実用的で簡素な食器類だ)。寄贈品には他にエミール・ガレの陶器も(これも錫釉だ)。
ガラス器を寄贈した辻清明氏のコレクションは古代ローマからオリエント、中国、ヨーロッパ、日本の和ガラスにまで及ぶ。展示品を見ると、凝った造形よりもガラスという素材、質感に魅力を感じていたのではないかと思われる。
ヨーロッパ陶磁を寄贈した野依氏はガレやドームなどアール・ヌーボーのガラスを扱う美術商。ガラス器を寄贈した辻清明氏は陶芸家。ガラス商が陶磁を愛し、陶芸家がガラスを愛でたというのは、面白い。どちらのコレクションも見ていて幸せな気持ちになるのは、作品に対するコレクターの愛が見えるからだろうか。
なお、本展ではすべての作品の写真撮影が可能となっている。[新川徳彦]

2017/01/24(火)(SYNK)

砂連尾理『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉 ダンスのような、介護のような』

発行所:晶文社

発行日:2016/10/07

「コンテンポラリーダンスって何?」とは、よく聞かれる質問だ。解釈が多様で、一括りにしようとすれば「ポスト・モダンダンス以降の各自の個人的手法に基づくダンス」としか言いようがない。いや、なんとなくこんな感じというおぼろげなスタイルも現れており、自由に使える便利な言葉である分、それが本質的に何に取り組んでいるのかということは、漠然として像を結ばない。本書は、そんな悩みに応えてくれる一冊だ。本書で「……開かれた身体で生きていく、そのことこそが、僕にとってはダンスなのかもしれない」と砂連尾理は言う。砂連尾にとって、ダンスはテクニックやスタイルの呼び名ではない。あえて言えば、それは生き方に関わるものだ。
10年ほど前、寺田みさことのデュオ「傘どう」を休止し、ベルリン留学を経た後、砂連尾は積極的に障害者や老人(認知症や車椅子生活の方も含む)とパートナーを組んだり、また東日本大震災の被災地と関わりなどしながら、作品を作ってきた。こうした活動の中では、自分のダンスを相手に押しつけることは無意味だろう。むしろ有効なのは、相手の身体性と関わり、他者によって何度も自分を揺さぶられながら、その揺さぶられる自分に正直であることに他あるまい。「開かれた身体」とはそうした身体のことであるだろうし、単に柔軟で機転の利く、エリート的な身体ということではない。その成果が『とつとつダンス』『猿とモルターレ』などとして結実した。これらの傑作を見ると、審美的価値に訴えるどんな個人的手法を作り出すかという以上に、誰とどう正直に繋がるか、そこにダンスの核心があることに気づく。
昨年の10月、大阪に暮らす砂連尾を東京に招き、BONUSが主催してトーク&ワークショップのイベントを行なった。砂連尾はそこで、早朝、ヨガの講師として大学の体育館で準備をしているとき、ふと、体育館の壁が自分を応援してくれている気がした、という不思議なエピソードを披露してくれた。壁だけではなく、ときに山が、シャワーヘッドが自分に話しかけ、励ましてくれるというのだ。「開かれた身体」とは、そうした万物の声に勇気づけられる身体でもあるのか。自分を取り巻くすべてのものが自分を批判しているかのように感じてしまう都会暮らしのメンタリティからは、それが非科学的か否かに頓着するよりも、とてもうらやましい生き方であると思ってしまう。本書には、後半に、砂連尾メソッドが開陳されており、それを読めば、彼のアイディアを手短かに実践することもできる。

2017/01/24(火)(木村覚)

Q『毛美子不毛話』

会期:2016/12/16~2016/12/19

新宿眼科画廊 スペース地下[東京都]

Qを知る者にとって本作の驚くべき点は、武谷公雄の起用だ。舞台は永山由里恵との二人。おのずと武谷=男VS永山=女という構図が見えてくる。「驚くべき」というのは、これまでQの劇は登場人物のほとんどが女性で、あらわれても男性の影は薄かった。それが本作では、木ノ下歌舞伎などでの器用な演技で定評のある武谷が舞台を闊歩している。このチャレンジは、舞台に風穴を空けることとなる。永山扮する女は合皮のパンプスしか履けず、いつか本革を履く日を夢見ているOL。女は美しい。だから、社内の男に声をかけられてしまう。というわけで、武谷が登場すると、強引で身勝手で、女を人間扱いしない男っぷりによって、とまどう女と不協和な響きを生む。武谷は上手い。求められている男っぷりを難なくこなす。その後武谷は女にも扮し、さらに胸にペニスが生えた奇怪な男にもなってゆく。演技の巧みさが舞台を引き締める。と同時に、なんとなくそれが永山の演技の奇妙さと対照的に見えて、それが気になってくる。Q主宰の市原佐都子は、これまでも役者たちに、奇妙な過剰さを湛えた演技を施してきた。今回もそれは健在で、時折永山は、ホラーともコメディともつかない寄り目で顔を歪ませたりする。市原の芝居が男性観客向けの媚びた演技から距離をとっている証拠なのだが、男性の武谷が同様の過剰で気味の悪い演技をすると、永山のそれよりも違和感が少ない。そのことは何を意味するのか。武谷の技量のせいなのか。それとも男性役者と女性役者の違いと見るべきか(変顔する女性にまだ心の準備が出来ていないのか)。筆者は男だ。だから、男の武谷が舞台にいることで、彼を媒介にしてQの劇空間にいつもより容易に迫ることができていると感じる。その効果は絶大だ。毎度感じきた、ほぼ全員女性たちで構成される舞台から受ける男性観客としての疎外感が、すこぶる軽減されているのだ。だからといって、この劇空間に男という存在が無前提で歓迎されているわけではない。男は不可解で、不気味で、理解不能な獣だ。望むも望まぬもなく、この男と一緒に暮らす女。二人を翻弄する本能の力。最後に、女は男を絞殺する。なぜかわからない。何かに「踊らされている」と叫びながら女は踊る。そもそも生命の営みはわからないことだらけだ。そのわからないものとともに暮らしていくこと。その「不毛」を肯定するように女は踊り、劇は締めくくられた。(動画にて鑑賞)

2017/01/24(火)(木村覚)

2017年02月01日号の
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