artscapeレビュー
2020年03月15日号のレビュー/プレビュー
JK・アニコチェ×山川 陸『Sand (a)isles(サンド・アイル)』
会期:2019/10/28~2019/11/10
池袋駅周辺[東京都]
フェスティバル/トーキョー19「トランスフィールドfromアジア」の枠組みで実施された『Sand (a)isles(サンド・アイル)』は「池袋の道、約500mを100分かけて3周する」、いわゆるツアーパフォーマンス形式の作品だ。旅の道連れは移動式の砂場(!)とケアテイカーと呼ばれるアーティスト。道中、参加者は彼らの指示に従ってさまざまなタスクをこなしていく。
フィリピンのパフォーマンス・メイカー、JK・アニコチェと日本の建築家、山川陸が「演出・設計」したこの作品は、言わば砂場での砂遊びのようなものだ。大枠の設定は彼らによって用意されている。だが、パフォーマンスの内容は回によって大きく異なっている(と思われる)。それを決定するのは4種類のルートと9人のケアテイカー、そして5パターンの集合時間だ。
パフォーマンスは参加無料、事前予約なし。回/ルートごとに指定された場所に行くとケアテイカーが待っていて、時間になると「街歩きの方法」のレクチャーが始まる。私が参加した10月30日はCルート。担当のケアテイカーは写真家で舞台作家の三野新だった。どの回をどのケアテイカーが担当するかは事前に告知されていないため、参加者はたまたまそこにいたケアテイカーとともに街を歩くことになる(ほかのケアテイカーが担当した回については村社祐太朗のレビューが出ている)。
三野が参加者に課したタスクは次のようなものだ。参加者は各々、「砂場」に埋まっている写真を掘り出し、街を歩きながらそこに映る風景を探し出す。見つけたら次の写真を掘り出し、同じことを繰り返す。写真に映る「なにか」を見つけるための私の視線は、普段、池袋を歩くときには向かない高さや遠さに向けられる。ベタといえばベタだが、普段は見ないものを見るという意味では十分に効果的な仕掛けだった。
その日の集合時間は18時。Cルートが主に通るのは池袋西口の風俗店や中国料理店が多く並ぶ繁華街の外縁で、ある店は夜の営業を始め、ある人は出勤の道を急ぐ。三野はときに写真に映る場所のヒントを交えながら、そのエリアがどういう場所なのかをポツリポツリと語る。街を歩く100分のあいだに街は夜になっていく。同じルートを繰り返し通ることで、その場所に流れる時間が体感される。三野の写真は昼の街を映していて、そこにも違う時間を想像する手がかりがある。
ところで、私が参加した回は参加者たちが目ざとく、用意された写真は3周目のなかばで尽きてしまったのだった。手持ち無沙汰になった私たちはただぶらぶらと歩くしかなくなるのだが、それでも、旅の道連れである移動式砂場の進むペースやルートは変わらない。どうやら、移動のルートや時間は事前に(都に?)申請されていて、そこから外れることは許されていないらしい。
移動式砂場とそれに付き従う私たちは立ち止まることも禁じられている。許されているのは、周回のチェックポイントのような役割も果たす集合地点と赤信号での停止のみ。それ以外の場所、つまり道路上ではどんなに遅くともつねに進み続けなければならない。Cルートの砂場は小型のタンスに台車が付いたような形状で、進行方向からすると横向きの引き出し4段それぞれに砂が詰め込まれたものだった。進み続けるタンスに伴走(?)しながら引き出しを引き出し、そこから写真を掘り出す作業はなかなかに難しい。砂をほじくるのに集中していると周囲への注意は疎かになる。ほかの参加者が周りに目を配り声をかけ、それは自然と共同作業めいてくる。
ルールというのは他人同士が「同じ場所」で過ごすための線引きだ。風俗店や飲食店も、ルールに従って街中に存在している。アニコチェと山川は自分たちが法令という公のルールに従っていることをあからさまに示しつつ、その内部にまた別のルールを設定してみせた。彼らのルールはさらにケアテイカーという他人に手渡され、そこではまた新たなルールが設定される。ルールを縛るものとしてでなく、ひととひととが協働するための拠り所として受け取ること。
東京芸術祭の、フェスティバル/トーキョーの、トランスフィールドfromアジアの『Sand (a)isles(サンド・アイル)』。いくつも並び重なり合う枠組みはバカバカしくも無意味にも思えるが、しかしそこは案外不自由ではないのかもしれない。ルールに縛られずそれを使うためには、まずはその存在を認識しなければならない。『Sand (a)isles(サンド・アイル)』は物理的な目に見える街のみならず、それを縛り成立させている目には見えないルールにも注意を促す。そこで軽やかに遊ぶ彼らの態度は、少しだけ私の呼吸を楽にしてくれる。
公式サイト:https://www.festival-tokyo.jp/19/program/sand-aisles.html
『Sand (a)isles』評 「勝手に記述を進めることの困難」:https://www.festival-tokyo.jp/media/ft19/a65
2019/10/30(水)(山﨑健太)
ロロ『四角い2つのさみしい窓』
会期:2020/01/30~2020/02/16
こまばアゴラ劇場[東京都]
2019年に立ち上げから10周年を迎えたロロの新作は、作・演出で劇団主宰でもある三浦直之の原点に立ち戻りつつも新たな一歩を踏み出す、セルフタイトルにふさわしい作品となった。
劇団員俳優5人(と制作の坂本もも)によって演じられるのは、劇団溜息座が解散公演に至るまでの道ゆきと、旅先で出会いともに過ごすことになる2組の男女の道中だ。溜息座の公演を見て「一目惚れ」し、劇団員になろうとするサンセビ(亀島一徳)。だが団長であるヤング・アダルト(森本華)の遅筆(?)が原因で溜息座は次の公演で解散することになっているという。サンセビは解散をなんとか思いとどまらせようと劇団に同行するが──。一方、旅行で夜海原を訪れた七緒(望月綾乃)と春(篠崎大悟)は、駅で電車に轢かれかけたムオク(亀島)を助けたことをきっかけにムオクとユビワ(島田桃子)の二人連れと出会う。ユビワは二人の旅を新婚旅行だと言うがそれは嘘で──。
かつて溜息座に所属していたムオク。同じく亀島が演じ、ムオクに似ていると言われるサンセビがそうであったように、ムオクもまた公演を見て「一目惚れ」し、溜息座に入団したのだった。亀島というひとりの俳優を介して、二人の男の演劇との出会いと別れが重ね合わされる。
重ね合わせられるのはムオク/サンセビだけではない。望月と篠崎はそれぞれ溜息座の団員である「屋根足りない」と「フィッシュ&チップス」も演じ、二つの旅を、劇団の内外を往還する。そこにはロロのメンバーとしての俳優たちの、そして彼らの劇団外の姿も重なってくる。旅の終着地点は公演会場となる世界初の透明な防潮堤・ゴーストウォールだ。二つの旅は交わり、そして再び離れていく。現実とフィクションの、「こっち」と「そっち」の行ったり来たり。
作品のタイトルはロロという劇団の名前を示し、同時に人間という存在のさみしさを表わしてもいる。私は私自身の二つの目を通してしか世界を見ることはできない。私がいるところはいつまでも「こっち」のままだ。本当に「そっち」に行くことは叶わない。いや、行けたとして、そのときには「そっち」は消えてしまうのだ。「あたしが彼方と出会ったら、もうこの道はなくなってしまうでしょ」。
もちろん劇中で言われるとおり、「そっち」は「舞台上と客席の間に透明な壁」が存在していない演劇のように「ほんとは、もともと危ないもの」だ。境界は簡単に踏み越えられ、傷つけ傷つけられる可能性がそこにはある。にもかかわらず、本当に「そっち」に行くことは決してできない。私自身の輪郭が「透明な壁」として立ちはだかる。「四角い窓」が「2つ」なのはそこに私と「あなた」がいるからで、なのにその窓は決して通り抜けられない。だから「さみしい」。
しかし、それでもなお、三浦は「こっち」と「そっち」を行き来することの可能性を信じている。「ねえ、真実 こっちにおいで/ねえ、真実 こっちであそぼう/ウソとホントのアイスダンスをしよう/ねえ、フェイク そっちいっていい?/ねえ、フェイク そっちで歌おう/ウソとホントもなくしたあとで/オリジナルたちのパレードをしよう」。江本祐介による劇中曲の歌詞のなか、「こっち」と「そっち」は魔法のように同じ側を指し示す。
俳優は、演劇は、フィクションは、想像力は、少しのあいだ壁の向こう側を見せてくれる。これまでも三浦は折に触れフィクションへの、先行作品への愛を語り無数のオマージュを捧げてきた。「そっち」に触れて惹かれたサンセビの、そしてかつてのムオクのように、三浦もまた「そっち」からの声に応えるようにしてフィクションを紡ぐ。
夜海原の特産品だというマガイは「ホヤみたいな」ものだった。だが、ホヤはWikipediaによれば「俗称でホヤガイ(海鞘貝、ホヤ貝)と呼ばれることがあるが、軟体動物の一群に別けられる貝類とは全く分類が異なっている」らしい。マガイはホヤの紛い物だが、一方でホヤは貝の「紛い物」であり、マガイを真貝と書くならば、マガイこそが本物(の貝)なのだということになる。本物と偽物は絡み合って見分けがつかない。
創作を、劇団を続けるということはどうしようもなく現実で、三浦はそれさえもフィクションへと折り返す。メンバーはいつか劇団を離れるかもしれない。観客はいつか劇場に足を運ばなくなるかもしれない。だが、ユビワがそうしたように関係を名づけ直し、ムオクがそうするように「何回だって彼方と此方を往復」し「再会し続け」ることはいつだって可能なはずだ。ラストシーン、「こっちこっち!」と舞台上から客席に呼びかけ手招きし続ける5人の俳優の姿は優しく、でもやはりさみしいのだった。
移動式の芝居小屋のような舞台美術(杉山至)で上演された本作は、溜息座と同じように旅に出る。徳島と東京での公演を終えた彼らの次の目的地は4月の福島と5月の三重。再演を見据えてつくったという本作の、彼らの旅はまだまだ続く。
公式サイト:http://loloweb.jp/window/
2020/02/05(水)(山﨑健太)
ブダペスト─ヨーロッパとハンガリーの美術400年
会期:2019/12/04~2020/03/29
国立新美術館[東京都]
「ブダペスト」展は、国立の美術館で開催されていたことから、政府の指示が出た新型コロナウィルスの対策のため、会期の最後ほぼ2週間が休館になろうとしているが、幸い、その前に2月上旬に二度、鑑賞する機会を得た。ハンガリーの国立美術館のコレクションなどから構成されているが、そもそも同国は西洋美術の歴史においてあまり主役の座に躍り出ることがなかった。ゆえに、前半はルカス・クラーナハ(父)、ティツィアーノ、エル・グレコなど、主に他国の有名な画家の作品を紹介し、辺境から美術史をなぞる構成が続く。そこでモンス・デジデリオこと、フランソワ・ド・ノメの作品に出会うことができたのは、思いがけない収穫だった。狂気の建築画《架空のゴシック教会の内部》 (1621-23頃)は、黒と金の色使いが印象的な小さい作品ながら、緻密に建築のディテールが描きこまれている。だが、純粋なゴシック様式ではなく、古典主義など他のデザインも混淆し、異様な緊張感をはらむ。
さて、「ブタペスト」展が、俄然面白くなるのは、19世紀後半からである。なぜなら、新しい近代的な表現の影響を受けながらも、地域に固有の画家が登場するからだ。例えば、パリで活躍し、貴族の女性と結婚したことで華やかな生活を送るようになった巨匠、ムンカーチ・ミハーイの独特の筆致。本展のチラシに使われた、鮮やかな色の対比をもつ《紫のドレスの婦人》(1874)は、シニェイ・メルシェ・パールの作品である。薬剤師から画家に転身したチョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダルは、見るからにヘンなものはないのに、どこか非現実的であり、忘れがたい街の絵を描く。そして象徴主義やアール・ヌーヴォーの薫陶を受けながら、妖しげな世界を創造するヴァサリ・ヤーノシュである。近代という時代が、情報や手法の伝達が早くなり、それを共有しながら、各自が個性を発揮しやすいプラットフォームを生み出したからではないか。おそらく、その構図は近代以降の建築においてもあてはまる。
*会期終了日は、当初の3月16日(日)から29日(日)まで延期されました。(2020年3月16日現在)
2020/02/08(土)(五十嵐太郎)
「大阪万博 カレイドスコープ─アストロラマを覗く」展、高島屋
会期:2020/01/15~2020/04/19
高島屋史料館TOKYO[東京都]
日本橋の高島屋史料館TOKYO「大阪万博 カレイドスコープ─アストロラマを覗く―」展を鑑賞した。新型コロナウィルスの影響によって、2週間ほど会期が短くなってしまった「インポッシブル・アーキテクチャー」展のトークにおいて、橋爪紳也から聞いていたが、この企画は高島屋が共同出展したパビリオンのみどり館に焦点をあてたものである。建築はカラフルな多面的なドームだ。エントランスでは、吉原治良が監修した具体美術展も開催されたという。
展示では、コンパニオンの制服などもあったが、注目すべきは、全天周映画を鑑賞できる館内の「アストロラマ」(天体と劇を合成した造語)の映像を詳しく紹介していることだ。谷川俊太郎が脚本、黛敏郎が音楽、土方巽が舞踏を担当したものである。頭上から巨大な土方が舞い降りて、踊りだす映像はかなり前衛的であり、当時の子供たちがどのように受け止めたのかが興味深い。ともあれ、その後、さんざん地方博を重ね、広告代理店の仕切りになってしまった博覧会に対し、大阪万博は日本での初めての体験ということで、現在では考えられない尖った人選だったことが改めてよくわかる。
さて、久しぶりに高島屋を訪れ、高橋貞太郎が手がけたオリジナルの百貨店(1933)の細部を観察すると、非常に興味深い。全体としては古典的な感覚が残った近代の構造体であるが、
2020/02/12(水)(五十嵐太郎)
奇蹟の芸術都市バルセロナ
会期:2020/02/08~2020/04/05
東京ステーションギャラリー[東京都]
数年前、学生時代に訪れたバルセロナを再訪したら、完成間近のサグラダ・ファミリアなど、アントニ・ガウディの作品に関して、オーバーツーリズムというべき現象が発生しており、驚かされた。今回、バルセロナ展というタイトルなので、やはりガウディが中心の内容なのかと思いきや、そうではなかった。もちろん、代表作のひとつ、カザ・バッリョーの図面や家具はある。だが、それくらいしかガウディの作品はない。これまでに奇抜な創造者、展示にコンピュータの解析を活用した合理的な構造デザイン、漫画家の井上雄彦とのコラボレーションなど、さまざまな切り口によって、彼は紹介されてきたが、むしろ、この展覧会は彼を生みだした都市の状況を伝えるものだ。19世紀後半の都市改造(グリッド・プランの整備や拡張)、あるいはドメネク・イ・モンタネールやジュゼップ・ジュジョルなど、同時代に活躍し、ガウディと同様、装飾を多用した建築家にも触れている。が、とりわけ、アート界の動向が興味深い。
展覧会の第3章「パリへの憧憬とムダルニズマ」は、パリの影響を受けた前衛芸術家たちをとりあげる。彼らは、カタルーニャ語で近代主義を意味する「ムダルニズマ」を推進し、横断的な総合芸術を展開した。第4章「四匹の猫」は、アーティストのたまり場となり、展覧会、音楽会、人形劇などが催されたカフェの名称である。ここがカタルーニャ文化の発信地となり、若き日のピカソも初の個展を行なう。第5章「ノウサンティズマ──地中海へのまなざし」は、民族性や地中海の文明への回帰に向かう、保守的なアートである。その動向は、1900年代主義を意味する「ノウサンティズマ」と呼ばれた。当時、1929年のバルセロナ国際博覧会が開催されたが、このときミース・ファン・デル・ローエの傑作、モダニズムの極北を提示したバルセロナ・パヴィリオンが登場している。そして最終章「前衛美術の勃興、そして内戦へ」は、ル・コルビュジエやバルセロナのモダニズムの建築家を紹介しつつ、1936年に勃発したスペイン内戦によって、芸術表現が政治化していく。
2020/02/13(木)(五十嵐太郎)