artscapeレビュー
2021年07月01日号のレビュー/プレビュー
南相馬の震災10年 岡部昌生 余震
会期:2021/06/01~2021/06/06
トキ・アートスペース[東京都]
広島、夕張、パリ、ローマなどさまざまな歴史を刻む場所を、紙に鉛筆で擦りとるフロッタージュの手法で記録してきた岡部昌生の個展。今回は東日本大震災後から福島県南相馬市に足を運び、被災した建造物や石碑などの表面をフロッタージュで写しとってきた作品を展示している。
写しとられたのは、破壊された巨大な防波堤の断面(高さが5メートルくらいあって会場に収まらないので横倒しに展示)、津波に襲われた小学校の教室の床、災害復興祈願で建てられた「おらほの碑」をはじめとする石碑など。鉛筆で擦りとるのではなく、紙を置きっぱなしにして雨水や砂、風、日光などの自然に表面を擦らせた《風の、光の、空気のフロッタージュ》もある。フロッタージュは物(ブツ)の表情を直接写しとるものだから、絵画や写真と違って対象を突き放した描写はありえず、物質感をダイレクトに伝える強度がある。ひょっとしたら、その場に付着していたかもしれない放射能や新型コロナウイルスまで写しとってきちゃったんじゃないかってくらい臨場感があるのだ。ちょっとたとえが悪かったですか。
同展はこの春、南相馬市博物館で開かれた「南相馬の震災10年」の巡回展。タイトルに「余震」を加えたのは、3.11から10年目の今年2月に起きた最大震度6強の福島県沖地震(震度6強といえば烈震だが、そんな地震あったっけ? てくらい珍しくなくなったことに驚く)のことを指すようだが、「本震で歪んだ地殻を安定させ整えようとするのが余震だとすれば、ときに、痛みや怖れを想起させる文化、芸術も人間の歪みを緩やかに回復させる余震なのだと思います」という、福島県立博物館の川延安直氏の言葉に感化されてのことでもあるだろう。
2021/06/01(火)(村田真)
イキウメ『外の道』
会期:2021/05/28~2021/06/20
シアタートラム[東京都]
劇作家・前川知大の、そして劇団イキウメの新たな代表作が誕生した。
二十数年ぶりに再会を果たした寺泊満(安井順平)と山鳥芽衣(池谷のぶえ)。偶然にも同じ町内に住んでいたことに驚きつつ近況を報告し合う二人は、それぞれに不可思議な事態に巻き込まれていた。
二人が住む金輪町には県外からも客が訪れるほどの人気でなかなか予約がとれない喫茶店がある。客の目当てはマスター(森下創)の手品。海外の一流マジシャンにも引けを取らない彼の手品だったが、しかしそのいくつかはあまりにも現実離れしていた。客の500円玉を未開封のコーラ瓶にするりと差し入れてしまう手品を見た寺泊は、かつてあるパーティーで目撃した政治家の死を思い出す。パーティーの最中、突然倒れてそのまま亡くなった政治家の脳からは、会場に用意されていたビール瓶の欠片が見つかったらしい。外傷はなし。寺泊はふと思う。あれはもしかしてこのマスターの仕業ではなかったか。タネを教えてくれと迫る寺泊にマスターは、タネも仕掛けもない、あるのは「世界の仕組み」だけだと答える。自分には分子レベルの物質の隙間を見通す目があるのだと。寺泊はその言葉に取り憑かれたかのようになり、以来、妻(豊田エリー)が以前とは別人のような輝きをまとって見えるようになる。いや、妻だけではない。世界のすべてが違って見える。やがて寺泊は宅配便ドライバーの仕事で誤配を繰り返すようになり──。
一方、山鳥はある日、品名に「無」と書かれた宅配便を受け取る。開けた段ボール箱の中身は空っぽ。数日後、山鳥は自分の部屋に不自然な暗闇の塊のようなものがあることに気づく。日に日に広がっていく闇に部屋は飲み込まれ、足を踏み入れた山鳥は暗闇を彷徨う。やがて闇に朝日が射し込むと、山鳥は見知らぬビルの屋上に全裸で立っていた。さらに、闇に飲まれた自室に突然、見知らぬ少年(大窪人衛)が現われる。驚いた山鳥が呼んだ警察はしかし、三太と名乗るその少年は山鳥の息子だと言い出す。山鳥は上司で恋人の行政書士・日比野(盛隆二)に助けを求めるが、卒業アルバムや写真など、三太の存在を証明する記録は無数に存在し、挙句には山鳥と三太が5年前に養子縁組をした記録までもが発見されるのだった。それでも三太との関係を否定し続ける山鳥と周囲の人々との間には溝ができはじめ──。
それぞれに無関係に展開する寺泊と山鳥の物語はしかし、世界がそれまでとは異なる仕方で見えるようになってしまった者の末路を描いている点において共通している。居場所を失った二人はいまいる世界に「限界なのよ」と見切りをつけ「ここを出る」ために暗闇へと踏み出す。狂っているのは二人か世界か。誰がそれをジャッジできるのか。
二人が語るさまざまな場面はすべて、打ち捨てられたホテルのラウンジのような舞台美術(土岐研一)の中で演じられ、俳優は全員がつねに舞台上にいる。主役の二人の語りに合わせてほかの俳優たちは役を演じ、群衆となり、あるいは舞台美術のような役割を果たしながら物語を進行させていく。語りの主体は寺泊=安井と山鳥=池谷のはずだが、ときにほかの俳優たちまでもが寺泊や山鳥であるかのように物語を紡ぐ。あるいは、その他者の語りこそが舞台上に寺泊と山鳥を存在せしめ、世界をそのようにあらしめているとしたら。ある人物の存在は、そして世界の存在は何によって保証されるのか。物語の問いと演劇としての表現は分かちがたく結びついている。
暗闇に踏み出した二人は無から新たな、美しい世界をつくり出そうと想像する。やがて舞台奥の窓いっぱいに射し込む光。舞台上の、どこにも行けない閉じられた世界。その外に光は広がっている。闇をくぐり抜けて光を見るのは寺泊と山鳥だけではない。バトンは観客に手渡された。閉じられた劇場から外の世界へ。舞台上にさまざまな光景を描き出した想像力で、世界の未来を描くことはできるだろうか。SFのようでも、ホラーのようでも、不条理劇のようでもサイコスリラーのようでもあるこの作品は、狂気のような正気でもって世界と対峙し変革しようとする者たちの物語だ。
今作にはもともと、2020年の5月から予定されていた公演がコロナ禍により中止となり、代わりに実施されたワークインプログレスを経て今回の公演が実現したという経緯がある。公演延期は苦渋の決断だったと思われるが、ワークインプログレスを経ての創作は十二分に実を結んだと言えるだろう。ウェブサイトではワークインプログレスの様子や台本の一部、各種設定やイキウメの代表作である『太陽』『獣の柱』の映像も公開されており、より深く、あるいは初めてイキウメワールドに触れるには最適のガイドとなっている。
なお、本作は7月3日(土)には穂の国とよはし芸術劇場での、11日(日)には北九州芸術劇場での上演が予定されている。
イキウメ:https://www.ikiume.jp/
『外の道』W.I.P.:https://sotonomichi.jp/
2021/06/01(火)(山﨑健太)
牛腸茂雄 写真展 「SELF AND OTHERS〈失われた瞬間の探求、来たるべき瞬間の予兆〉」
会期:2021/04/29~2021/06/02
BOOKS f3[新潟県]
牛腸茂雄が1983年に亡くなってからもう40年近いのだが、彼の仕事への関心は若い世代にも持続している。新潟市で写真集書店BOOKS f3を運営する小倉快子もそのひとりで、今回、長年あたためていた「牛腸茂雄展」を実現した。
展示の中心になっているのは、牛腸の桑沢デザイン研究所リビングデザイン研究科写真専攻の同級生、三浦和人がプリントした「SELF AND OTHERS」のモダン・プリント15点だが、むしろ小倉が新潟県加茂市の牛腸の実家を訪ねて借りてきたという、周辺資料が興味深かった。使用していたカメラ(ミノルタオートコード、キヤノネットQL−25、キヤノンAE−1)、生前の展覧会のDM、写真集『SELF AND OTHERS』(白亜館、1977)の台割表、印刷用の青焼、桑沢デザイン研究所の卒業記念展カタログなどもある。自筆のノートには子供の頃の顔写真が貼られ、几帳面な字で、「あの しじまの広がりの中で/脈打つものは/波が蹴散らす火花の音か?」という詩の一説が記されている。生前、牛腸が好んで読んでいた、みすず書房の心理学関係の書籍も棚におさめられていた。これらの資料と写真とを照らし合わせることで、あらためて牛腸にとっての「失われた瞬間」「来たるべき瞬間」を探り当てる、とても実りの多い時間を過ごすことができた。
新潟市美術館、三鷹市美術ギャラリー、山形美術館で、回顧展「牛腸茂雄 1946−1983」が開催されたのが2004年なので、その後の調査・研究の成果も含めて、そろそろ彼の新たな像を作り上げていくべき時期に来ている。ぜひどこかの美術館で、大規模展の企画を進めてほしいものだ。
2021/06/02(水)(飯沢耕太郎)
名和晃平「Wandering」
会期:2021/06/05~2021/07/03
Taka Ishii Gallery Photography / Film[東京都]
動物の剥製などの表面を、クリスタルガラスの球体で覆った「PixCell」シリーズで知られる現代美術家、名和晃平のかなり珍しい「写真展」である。名和は彫刻やインスタレーション作品に移行する直前の京都市立芸術大学在学中に、「下宿にあった中古カメラ」で、街のスナップショットを撮影し始めた。今回は「実家の段ボール箱」に放り込んだまま、20年以上そのままになっていたという写真群から、カラー20点、モノクローム5点をキャビネサイズほどに引き伸ばして展示している。
上手なスナップショットといえるだろう。現代美術作家が陥りがちなコンセプチュアリズムや極端な画像処理などには目もくれず、むしろ淡々と「興味の向くまま撮り溜め」ているのが逆に面白い。むろん街を彷徨いながら、被写体を画面に的確に配置し、物質性よりもむしろ空気感を捉える力は際立っている。名和の作品は、どちらかといえばモノトーンのものが多いのだが、カラー写真の色味の出し方に精妙なセンスを発揮しているのも興味深かった。
今回の展示は、蔵出しの仕事のお披露目といった側面が強かった。だが、名和がいま再び写真に関心を持ち出しているという話を聞いて期待がふくらんだ。それがどんなものになるのかはわからないが、本格的な写真作品として成立してくるといいと思う。そうなると、この「Wandering」も、また違った見え方をしてくるのではないだろうか。
2021/06/04(金)(内覧会)(飯沢耕太郎)
「CAFAA賞2020-2021」ファイナリストによる個展 AKI INOMATA 「彫刻のつくりかた」
会期:2021/06/01~2021/06/14
公益財団法人現代芸術振興財団 事務局[東京都]
六本木ピラミデビルにもずいぶんギャラリーが増えてきた。ビル全体をギャラリーコンプレックスにしてまえという森ビルの思惑か。ぐるっと回ってみたが、ここ以外は予約制になっていたのでスルーした。ギャラリー巡りにいちいち予約なんかしてられるか!
「CAFAA」は現代芸術振興財団が主催するアーティスト・アワード。2015年から始まり、今回はAKI INOMATA、田口行弘、金沢寿美の3人が受賞、それぞれここで2週間ずつ個展を開いていく。今回はその第1弾。INOMATAはヤドカリのヤド(建築)を3Dプリンタで製作し、実際にヤドカリに住まわせるという作品で知られるが、今回は無骨なかたちの木塊を何本か置いている。ヘタクソ以前の造形だが、それもそのはず、これはビーバーに角材をかじらせた彫刻なのだ。いや正確にいえば、これを「彫刻」と呼ぶのかと問題提起しているのだ。
ビーバーもただでたらめにかじっているわけではなさそうで、硬いところやまずい部分は避けるため、結果的に人物像に見えなくもない木塊もできる。もちろんそれはビーバーの美意識の反映ではないけれど、それなりに必然性のあるかたちであることは確かだろう。木の表面を年輪に沿って削ったジュゼッペ・ぺノーネの作品を思い出すが、ぺノーネが明確な芸術的意図の下に彫っているのに対し、ビーバーはただ本能に任せてかじっただけ。だからビーバーがつくった造形というより、木に内在する秩序がビーバーをして彫らせたかたちというべきだが、それを芸術的意図の下にやらせたのはINOMATAにほかならない。それは果たして「彫刻」なのか、「芸術」なのか。
2021/06/05(土)(村田真)