artscapeレビュー

2023年06月15日号のレビュー/プレビュー

谷口昌良『空を掴め―空像へ』

発行所:赤々舎

発行日:2023/05/31

谷口昌良は東京・谷中の寺院、長応院の住職を務めながら写真家として活動している。2006年には長応院境内に「瞑想ギャラリー」空蓮房を設立し、ユニークな展示活動も展開してきた。

その谷口の新著『空を掴め―空像へ』は、彼の「仏僧写真家」としての経験を踏まえ、長年にわたる写真という表現メディアに対する思考の蓄積を形にした、これまたユニークな写真集である。被写体となっているのは三保の松原の松林だが、ほとんどの写真はピントが外れて写っている。メガネを外して外界を見た時の、視覚全体がボケた状況を再現したものだが、そこには「モノという実体は無常ではないか! 写真に固定できるものでは無く、それも無常だ! 写真は無常像だ!」という「仏僧写真家」としての思いが投影されている。

このような観念的ともいえる「写真による写真論」は、ともすれば思考の輪郭をなぞるだけの空疎なものになりがちだ。だが、谷口の写真作品を見ると、撮影することの歓び、固定観念を打ち壊していく解放感、新たな何物かの出現を寿ぐ気持ちなどが溢れているように感じる。仏教的な思念の実践というだけでなく、むしろ写真による視覚的世界の拡張の実験として充分に楽しむことができた。今回は松林というテーマに絞り込んでいるが、「空像」あるいは「無常像」としての写真のあり方は、ほかの被写体にも適用できるのではないだろうか。今後の展開も期待できそうだ。

2023/06/01(木)(飯沢耕太郎)

蜷川実花「Eternity in a Moment」

会期:2023/05/09~2023/06/19

キヤノンギャラリーS[東京都]

1990年代から2000年代初めにかけて、キヤノン主催の「写真新世紀」やリクルート主催の写真『ひとつぼ展』などをステップボードにして、多くの若手写真家たちが登場した。そのなかでも、とりわけ蜷川実花の幅広い分野での活動ぶりにはめざましいものがあった。コマーシャルやファッションの分野にとどまらず、ギャラリーや美術館でも意欲的な写真展を次々に開催し、映画監督としても脚光を浴びた。2010年代以降も、日本の写真界を代表する存在として輝きを放っているといえるだろう。

その蜷川も、いま転機を迎えつつある。というより、コロナ禍という予想外の事態だけではなく、「新世紀」や写真「1_WALL」(写真『ひとつぼ展』の後進)も相次いで活動を終えるなかで、写真家たちの多くが次の方向を模索しているのではないだろうか。「キヤノンギャラリー50周年企画展」として開催された本展を、その意味で期待しつつ見に行ったのだが、その期待は半ば満たされ、半ば物足りないものに終わった。

今回の展示の中心は、ギャラリーの奥に設定された映像作品上映スペースである。床、天井と側面を鏡貼りにした箱型のスクリーンに上映された7分間の映像作品は、いかにも蜷川らしい、人工的な色彩の花々、蝶、魚などのイメージが乱舞するものだった。そのめくるめく色とフォルムとサウンドの饗宴は、幻惑的であり、見る者を充分に満足させる出来栄えといえる。ただそこには、かつて蜷川の作品にあった、毒々しいほどの生命力の発露が決定的に欠けており、万華鏡を思わせる映像は、拡散したまま虚空を漂うだけだった。逆に、かつて蜷川の作品が醸し出していた「毒」=ビザールな歪みを許容するだけの余裕が、いまの日本の社会には既にないのかもしれない、そんなことも考えてしまった。

なお同時期(5月23日~6月3日)に、東京・銀座のキヤノンギャラリーでも、金魚をモチーフにした蜷川の同名の展覧会が開催されている。


公式サイト:https://canon.jp/personal/experience/gallery/archive/ninagawa-50th-sinagawa

2023/06/01(木)(飯沢耕太郎)

立川清志楼「第一次三カ年計画(2020-2023)最終上映会」

会期:2023/06/04(日)

BUoY[東京都]

立川清志楼は、2020年度の写真新世紀で優秀賞(オノデラユキ選)を受賞した。それをひとつの契機として、「第一次三カ年計画」という破天荒なプロジェクトを思いつく。ひと月に5本、つまり年間60本×3=180本の映像作品を制作するというものだ。実際にはそれ以上の200本の作品ができあがり、Part183~ Part200の作品、及び200本の作品をダイジェストして繋いだfilm collection remix(上映時間:33分)を一挙に見せる「最終上映会」が開催された。

立川の制作活動の背景には、デジタル化によって映像作品を大量に生産できる環境が整ったことがある。だがその状況を利用するかどうかは、作家の資質と関わることであり、一概に作品本数が増えるとは限らない。立川は、それぞれの作品に実験的要素を無作為的に取り込んでいくことで、量を質に転化するシステムを構築しようとした。そのことはかなり成功したのではないだろうか。

撮影されているのは、動物園や街頭の群衆など、日常的な場面であり、定点観測、画面の分割、焦点の変化、画像の加工などの手法を用いることはあっても、基本的にはストレートな撮影・編集を貫いている。主観的な世界観を表出するよりは、現実世界を丹念に観察し、客観的に描写することがめざされており、作品制作の姿勢としてはスナップ写真に非常に近い。固定カメラが多用されていることも含めて、「動く写真作品」としての側面が強いように感じた。

2020~2023年、つまり「コロナ時代」の様相がありありと浮かび上がるいい仕事だが、これだけの量を一挙に見せるのはなかなかむずかしそうだ。単純な「remix」ではなく、映像作家としての編集能力を発揮した「長編」の制作も考えていいのではないだろうか。



展示風景



会場 公式サイト:https://buoy.or.jp/program/20230604/
立川清志楼 公式サイト:https://tatekawa-kiyoshiro.com/

2023/06/04(日)(飯沢耕太郎)

アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』

監訳:田中東子

発行所:花伝社

発行日:2023/02/25

「創造的(creative)」という言葉が、行政文書のなかに目につくようになって久しい。2004年に始まったUNESCOの「創造都市ネットワーク」はすでに20年弱の歴史をもつが、これにかぎらず、今日において「創造(的)」という言葉は、国家や企業が推進する事業に完全に絡め取られている。おそらく、ひろく芸術に携わる誰もがそのことに気づきながら、この言葉が行政やビジネスの論理に掌握される様子を、なすすべもないまま眺めている。

本書『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』の著者であるアンジェラ・マクロビーは、ロンドン大学ゴールドスミス校で長らく教鞭をとったカルチュラル・スタディーズの研究者である。ポピュラー文化やフェミニズム理論を専門とし、昨年には『フェミニズムとレジリエンスの政治──ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022)が訳出されている。

おもにロンドンとベルリンを対象とする本書は、ファッション、音楽、現代アートをはじめとする文化的労働についての研究書である。とはいえ、ここに書かれていることは、すでに「やりがい搾取」という言葉が定着して久しい日本語圏の読者にとってみれば、ごく馴染みのある事象ばかりであるかもしれない。マクロビーが本書において明らかにしようとしているのは、つまるところ、ファッションやアートのような「創造的な」労働の領域において、いかに容赦ない「やりがい搾取」が行なわれているかということだからだ。日本では過去、アニメーション制作会社の低賃金が大きく取り沙汰されたことがあったが、これにかぎらず、ひろく文化にかかわる世界では、当事者の「熱意」や「やりがい」に支えられるかたちで、低賃金(ないし無給)の長時間労働が横行していることは周知のとおりである。

もちろん、そこには国や地域ごとの特殊事情がないわけではない。たとえば、イギリスでは1990年代後半に、当時の労働党首相トニー・ブレアによって「クール・ブリタニア」という政策が大々的に掲げられた。そこでは、まさに映画や音楽をはじめとする「クリエイティブ産業」が、国を挙げた国際戦略の中心に躍り出たのだ。本書が描き出すロンドンのクリエイティブ産業の状況は、こうした政府主導の戦略と切り離せない。

本書の議論はけっしてひとつに収斂するものではないが、そのなかでいくつか本質的と思われるものを挙げておこう。第一に、クリエイティブ産業における「やりがい搾取」には、明らかにジェンダー的な不平等がある。本書序文で著者が描き出す当事者たちのプロフィールも、その大半が若い──なおかつ、イギリスの外からやってきた──女性たちである(マクロビーは、労働環境をめぐる従来の左派の言説が、この男女の境遇の違いを見落としてきたことをくりかえし指摘する)。第二に、前述したような「やりがいのある仕事」の多くは、その華やかなイメージと裏腹に、不安定な雇用や不十分な保障と背中合わせである。そのため、クリエイティブ産業を推進する政策は、若者たちに「やりがいのある」仕事を供給するかに見えて、その実、社会福祉の切り下げを行なっているというのも正鵠を得た指摘である。

最後に、著者はバーミンガム学派が主導してきたカルチュラル・スタディーズ(CS)の伝統に連なる一人として、これまでCSが政治的抵抗の場として見いだしてきた文化的な諸領域が、いまや経営・起業的な関心から「創造性」を涵養するためのもっとも効果的な学問へと転じてしまっていることを率直に認めている。著者の言葉でいえば、CSはおのれの功罪を問うべき「再帰的なカルチュラル・スタディーズ」(23頁)へと歩みを進める段階に来ているのだ。ブルデューやベックの「再帰的な社会学」に倣ったこうした問題意識は、今日なんらかのかたちで文化と教育、あるいは文化の教育に携わるすべての人間によって、ひろく共有されるべきものだと言えるだろう。

2023/06/07(水)(星野太)

ガルギ・バタチャーリャ『レイシャル・キャピタリズムを再考する──再生産と生存に関する諸問題』

翻訳:稲垣健志

発行所:人文書院

発行日:2023/01/30

本書は、イギリスの社会学者ガルギ・バタチャーリャ(1968-)の初の邦訳書である。バタチャーリャの専門は人種およびセクシュアリティの諸問題であり、英語ではすでに10冊を超える編著書がある。本書『レイシャル・キャピタリズムを再考する』(原著2018年)は彼女の最新の仕事のひとつであるが、その内容に入っていく前に、いくつか前提を確認しておく必要がある。

まず、「レイシャル・キャピタリズム」といういささか聞き慣れない用語は、アメリカの政治学者セドリック・ロビンソンの『ブラック・マルクシズム』(1983)に由来する。これは、資本主義が生みだす社会構造には、必然的にレイシズムが浸透するという考えかたである。『レイシャル・キャピタリズムを再考する』の訳者解題(342-353頁)によれば、このロビンソンの議論は従来そこまで注目されてきたわけではなかった。だが、2020年のジョージ・フロイドの死をきっかけとしたBLM(Black Lives Matter)への関心の高まりもあり、このロビンソンの議論にも近年ふたたび注目が集まっているという。むろん本書はジョージ・フロイド事件よりも前に書かれたものであるが、『ブラック・マルクシズム』をはじめとするロビンソンの議論に新たな光が当てられるいま、本書をひもといてみるのは時宜に適ったことであろう。

そのうえで言うと、本書はそのタイトルが示すように、レイシャル・キャピタリズムを「再考する(rethinking)」試みである。つまりここでは、資本主義があらかじめレイシズムを構造化しているというロビンソン的なテーゼは、なかば暗黙の前提とされている。本書は、資本主義とレイシズムの複雑な関係をより精緻に──すなわち、一見レイシズムとは関係のないようなところにまで視野を広げて──検討するための試みなのだ。その点を見落としてしまうと、なぜ本書が、フェミニズムやエコロジーといった多種多様な問題に多くの頁を割いているのかがまったくわからなくなってしまうだろう。

ここではさしあたり、本書のイントロダクションとして書かれた「レイシャル・キャピタリズムをめぐる一〇のテーゼ」に即して、その要点のみを見ておきたい。ここで明示的にのべられているように、バタチャーリャが「レイシャル・キャピタリズム」と呼ぶもののなかには、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、あるいは年齢などを通じた「他者化」と「排除」の手法もまた含まれる(19-20頁)。つまり、問題は帝国主義の時代における奴隷貿易や、近代において黒人たちが被ってきた職業差別の話にとどまる(べき)ものではないのだ。昨今しばしば耳にする言葉でいえば、本書でバタチャーリャは「交差性(インターセクショナリティ)」とよばれる複合的な差別や抑圧の存在を明らかにすることによって、ロビンソンのレイシャル・キャピタリズム論を現代的にアップデートすることを試みているのだと言えよう。

以上のような複雑なコンテクストが畳み込まれているがゆえに、日本語で本書を読む読者にはまず「緒言」(小笠原博毅)と「訳者解題」(稲垣健志)に目を通すことを勧める。バタチャーリャが巧みな表現でのべているように、「利益を追求するために規定された人種的な略奪」は、それに関わるわれわれ全員を道徳的に退行させる(34頁)。その一方で彼女は、そのような信念を共有しない読者に対して、以上のような「道徳的な問題」を押しつけるつもりはない、とも言う。いくぶん逆説的なことながら、ここに読み取られる暗黙のメッセージは次のようなものであろう──それは、読者の信念がどのようなものであるかにかかわらず、現実に・・・、資本主義の根幹には人種的な略奪が存在するということだ。本書は、これまでそうした問題を考える必要すらなかった人たち──たとえば極東にいるわれわれ──にこそ、届けられるべき書物である。

2023/06/11(日)(星野太)

2023年06月15日号の
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