artscapeレビュー
2023年07月15日号のレビュー/プレビュー
竹下光士「聳えると崩れるは表裏一体」
会期:2023/06/28~2023/07/10
ケンコー・トキナー・ギャラリー[東京都]
ぱっと見ただけではわかりにくいタイトルである。だが、本展の「聳えると崩れるは表裏一体」というタイトルには、作者の竹下光士の強い思いが込められている。
竹下は2016年頃から「地形写真家」を名乗って活動し始めた。風景をその地形的な成り立ち──造山、風化、侵食、氷河などの諸事象を踏まえて撮影していこうとする試みである。写真文集『槍・穂高・上高地 地学ノート──地形を知れば山の見え方が変わる』(山と渓谷社)が完成したことを期して開催された今回の写真展でも、その「地形という見方」は貫かれている。竹下は今回、約20年ぶりに北アルプスの槍ヶ岳、穂高連峰に登ったのだという。そこで浮かび上がってきたのが、「風化」というテーマだった。聳え立つ岩山と、風化によって剥落した岩の堆積を対比的に撮影・構成した今回の展示では、まさに「山の見方が変わる」ような問題提起が為されていた。
ユニークな視点だし、写真の選択、レイアウト、並べ方もうまくいっている。ただ彼の意図が、写真と短いキャプションだけで充分に伝わるかといえば、そうとはいえないだろう。「風化」の具体的なあり方を、個々の写真に沿って丁寧に読み解いていくようなテキストが必要になりそうだ。これは竹下に限らず、日本のドキュメンタリー写真全般に言えることだが、写真と言葉との関係をもう少ししっかりと考えて、展覧会を構成していくことが必要になるだろう。とはいえ、竹下の「地形写真家」としての営みには、大きな可能性を感じる。いい鉱脈を発見したのだから、今後さらに先に進んでいってほしい。
公式サイト:https://www.kenko-tokina.co.jp/gallery/schedule/post_10.html
2023/07/01(土)(飯沢耕太郎)
劇団チョコレートケーキ『ブラウン管より愛をこめて ─宇宙人と異邦人─』
会期:2023/06/29~2023/07/16
シアタートラム[東京都]
差別は人を殺す。いまの日本には差別などないと、現に差別を受けている人々の存在ごと差別の存在を否定するような言動もまた人を殺す。 劇団チョコレートケーキ『ブラウン管より愛をこめて ─宇宙人と異邦人─』(脚本:古川健、演出:日澤雄介)の舞台はある特撮スタジオ。脚本家の井川(伊藤白馬)は、大学時代の先輩である松村(岡本篤)から、彼が監督している特撮番組『ワンダーマン』の脚本を依頼される。ところが、提示された条件は怪獣を登場させないこと。経費削減のために怪獣を登場させないのは特撮番組では割とあることらしい。特撮監督の古田(青木柳葉魚)とADの藤原(清水緑)から特撮ヒーローものについての薫陶を受けた井川は、元祖特撮ヒーロー『ウーバーマン』シリーズの異色作「老人と少年」にヒントを見出す。
やがて「空から来た男」とタイトルが(松村によって)つけられることになる井川の脚本とそのもとになった「老人と少年」ではともに、川崎を思わせる街を舞台に、宇宙人への差別がやがて集団でのヘイトクライムへと激化していく様子が描かれる。プロットを読んだ松村は「リアルな差別の描写なんて子供たちは待ってない」「あまり直接的に差別をテーマにはしないでくれ」と言うが、井川は差別を書かないならこのエピソードには意味がないとそのまま脚本を書き進めてしまう。ため息をつきながらも「とりあえず、好きなようにラストまで書いてみろ」と告げる松村はしかし「こんな現実の中であのメッセージが届くか? 当事者を救えるか?」と突き放した態度は変えないのであった。
そうして順調とは言えないまでも撮影は進んでいくのだが、ある日突然、テレビ局のプロデューサーである桐谷(緒方晋)から待ったがかかる。局から「現実の差別を連想させる内容が子供向けの番組に相応しくない」と言われたというのだ。「宇宙人を悪者にしたらいい」と内容の変更を迫る桐谷。その場では結論は保留になるものの、やがて松村が責任を取るかたちで撮影は続行され──。
演劇で「特撮」は難しいが、本作では舞台上に置かれた街のミニチュアセットを利用した演劇的な表現が光る(舞台美術:長田佳代子/照明:松本大介)。そこに怪獣は登場しないのだが、宇宙人を演じる下野(足立英)の影が彼自身より巨大な姿で街を襲うように青空を覆う様子は、彼が本来の姿を現わしたようにも、差別する人々の恐怖が実体のない影を大きく膨らませているようにも、あるいは人々の害意が形をとったようにも見えて巧みだ。
特撮スタジオでの人々のやりとりの間にはしばしば『ワンダーマン』の場面が挟み込まれ、「現実」と「虚構」を行き来するかたちで物語は進んでいく。作中作で描かれるヘイトクライムには関東大震災における朝鮮人虐殺事件をはじめとする現実世界の差別が映し出される一方、作品に関わる人々はそこで描かれる差別について各々の考えを交わし学び変わっていく。それは史実に取材した作品を多く発表してきた劇団チョコレートケーキとその作品に関わる人々の似姿でもあるだろう。「私達は物語の中でだけは現実に負けている自分とは違う存在になれる。ドラマの中では、強くて賢くて優しい木戸小絵子になれる」という森田(橋本マナミ)の言葉が胸を打つ。
そうして差別をめぐるさまざまな言葉が交わされるようになるスタジオだったが、現に差別がそこにあり、しかしそれがそうとは認識されていないとき、その場においては当事者の存在もまた透明化されることになる。物語の終わりに明かされるのは、差別の問題から距離を取ろうとしているように見えた松村が男と暮らしているという事実だ。井川はそれを知っていた。ここに至って「当事者を救えるか?」という松村の言葉は、そして二人のやりとりは、まったく違った響きを帯びることになるだろう。
名前をめぐるいくつかのエピソードもまた、存在の透明化に関わるものだ。差別とそれに関する議論はしばしば個人をその属性へと還元し、固有の名前を奪い去ってしまう。だからこそ「空から来た男」で差別を受ける宇宙人には金本という仮の名はあれど「固有の名前」がない。金本という名前は小学校時代の井川と仲良くしながら転校の間際まで「本当の名前」を告げることができなかった「カネやん」の名前に、つまりは在日コリアンの通称名に由来するものだ。
テレビ局の意向に沿わなかったことで干された井川に対し、名前を変えて活動を続ければいいと桐谷は嘯く。それはある意味で「大人な対応」であり生きる術でもあるのだろう。しかし井川は「やっぱり僕は自分の名前で書きたい」と応じる。そのとき彼の脳裏にあったのは「カネやん」の「本当の名前」のことだったのではないだろうか。
本作は7月30・31日に愛知・メニコン シアターAoiでの、8月5日には長野・まつもと市民芸術館小ホールでの公演が予定されている。
劇団チョコレートケーキ:http://www.geki-choco.com/
2023/07/01(土)(山﨑健太)
第25回亀倉雄策賞受賞記念 三澤遥 個展「Just by | だけ しか たった」
会期:2023/07/04~2023/07/27
クリエイションギャラリーG8[東京都]
第25回亀倉雄策賞に岡崎智弘と同時受賞した三澤遥。受賞作は、千葉県成田市にある玉造幼稚園のサインである。ここは橋本尚樹建築設計事務所による、いくつもの連続したアーチが建物を囲むユニークな園で、そのサインもありそうでなかったユニークな形状をしている。まるで折り紙でこしらえたかのようなシンプルな円筒状の輪っかを用いたのだ。三澤曰く、輪っかをただ「組んだだけ」あるいは「積んだだけ」で構成されている。例えば組の名前である「さくら」「うめ」「ゆず」「かき」といった花や果物の姿を輪っかの組み合わせだけで見立てた。秀逸なのはトイレの男性用、女性用のサインである。輪っかの組み立て方と色だけで、ここまでサインらしく見せられるのかと驚いた。
そうした「だけ しか たった」からなる「Just by」という考え方は、三澤がさまざまなプロジェクトに用いてきたものだという。本展もその考え方に則った、「置くだけで」「取るだけで」「積むだけで」「押すだけで」「切るだけで」……と「だけで」の行為から生まれた作品を散りばめた内容となっていた。いや、正確には作品とも違う。「まだ固まっていないふにゃふにゃした思考の集積のようなもの」と解説されている。岡崎智弘 個展「STUDY」でもそうだったが、それは習作のようであり、それ以前のスケッチのようでもある。何ということはなく、紙や鉛筆、アクリル樹脂、ワイヤー、木片、石などの素材を切ったり削ったり貼ったりしただけのものが並んでいた。いわば、彼女の手の痕跡を見るような……。
什器に関しても既存の建築資材である40×30mm垂木を壁に「留めただけ」なのだが、当然ながら動線を意識した留め方であるし、床にも同じ垂木が迷路のように敷かれていて、その敷き方にも何か意図があるのではないかと勘繰ってしまう。「素材と遊ぶような感覚で」とも解説されているように、まさに三澤の素材に対する愛がヒシと伝わった。きっと素材と戯れることが楽しくて仕方がないのだろう。その楽しさをお裾分けしてもらうような展覧会に感じた。とはいえ、これらが彼女の創造性を生む源泉のようなものだと思うと、あなどれないのである。
公式サイト:http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/2307/2307.html
関連レビュー
第25回亀倉雄策賞受賞記念 岡崎智弘 個展「STUDY」|杉江あこ:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
ギンザ・グラフィック・ギャラリー第370回企画展 続々 三澤遥|杉江あこ:artscapeレビュー(2018年12月15日号)
2023/07/05(水)(杉江あこ)
鈴木マサルの展覧会2023 テキスタイルの表と裏 Looking through the overlays
会期:2023/07/01~2023/07/22
テキスタイルデザイナーの鈴木マサルは、テキスタイルの新たな可能性をつねに探究し続けている人なのだろう。これまでにも自身のファブリックブランドを中心に、傘をはじめ、タオルやバッグ、ソックスなど、衣服以外の分野でテキスタイルそのものの魅力を発信し、多くのファンを獲得してきた。例えば傘の形や機能が優れているからというより、テキスタイルの色や柄が素敵だからという購買動機をファンに抱かせるのだ。本展で鈴木がさらに挑戦したのは、空間へのアプローチである。これまでにも広い面積のテキスタイルを大胆に使った展覧会を催してきたように思うのだが、「純粋にテキスタイル自体を主役にした展覧会を行っていなかった」とのことで、今回、彼が着目したのが「テキスタイルの表と裏」である。
テキスタイルには表側と裏側があるという特性ゆえに、空間に設置する際には壁や窓を背にして裏側を隠すようにしてきたことを指摘。衣服も裏側を内にして仕立てて着る。もちろん両面使いが可能な凝った織物や、仕立て方次第ではリバーシブルの衣服もあるが、通常、平坦な織物や染物には表と裏が存在する。鈴木が挑んだのは、空間の中でテキスタイルを自立したプロダクトとして存在させるため、その表と裏の概念をなくすことだった。そこでシャトル織機で織り上げたオリジナル生地の両面に、4版で構成した抽象模様を表2版、裏2版に分けて手捺染で染めるというユニークな手法を採用。つまりどちらの面にも表と裏が存在するプリントテキスタイルを制作したのだ。表の方は鮮やかな色ベタだが、裏の方はかすれた色合いに映る、独特の対比と重なりを生かしたデザインとした。そんな実験的なプリントテキスタイルが展示空間に大胆かつ優雅に波打ちながら垂れ下がり、テキスタイルそのものの魅力をまた突き付けられてしまった。
さらにこのプリントテキスタイルをパーテーションや建具に使うなど、具体的なプロダクトへの展開も見せていた。確かにパーテーションであれば、表と裏の区別なく使えることが求められる。面をテキスタイル1枚で構成できれば、非常に軽やかなものになるだろう。これまでプロダクトや家具におけるテキスタイルは、張地やカバーでしかなかった。そうではない主役級プロダクトを見据えた挑戦を今後も続けていくのだとしたら、楽しみである。
公式サイト:https://commons.karimoku.com/news/detail/230626/
関連レビュー
鈴木マサルのテキスタイル展 色と柄を、すべての人に。 |杉江あこ:artscapeレビュー(2021年05月15日号)
2023/07/05(水)(杉江あこ)
森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』
発行所:朝日出版社
発行日:2023/07/01
森山至貴『LGBTを読みとく──クィア・スタディーズ入門』(以下『読みとく』)はセクシュアルマイノリティについての基本的な知識や考え方が新書らしくコンパクトにまとめられた良書だ。セクシュアルマイノリティについて知りたいのだがまずどの本を読めばいいだろうかと聞かれたら私はこの本を薦めている。「良心(だけ)ではなく知識」をというスタンスのもと全八章のうち六章までを準備編・基礎編に費やす『読みとく』はまさに「入門」の名にふさわしい一冊と言えるだろう。
そんな『読みとく』の著者である森山と能町みね子による対談形式の本書『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』は、クィア・スタディーズのいわば実践編とでもいうべき内容となっている。だが、基礎的な知識を提供することに主眼を置いた『読みとく』がある意味で優等生的な、お行儀のよい「良書」だったのに対し、本書はそのタイトルから推し測れる通り「好戦的であり、とどまるところをしらないクィアの懐疑と批判のスピリット」に貫かれた、ある意味では「危険」なものだ。
対話する二人はしばしば、「正しさ」や「普通」にいまいちフィットしきれない自分を率直に吐露する。それが既存の価値観に基づいた「正しさ」や「普通」であれば話はわかりやすいのだが、そうとも限らないのが本書のややこしく面白いところだ。二人はときにポリティカリーにコレクトな規範とも摩擦を起こし、そんな自分の抱える矛盾と向き合い、ざっくばらんに言葉と思考を交わしながら自分たちなりの落としどころを探っていく。特に能町の率直さは清々しいほどだ。各章の冒頭に置かれた手紙形式の文章のなかで能町は「自分が当事者だということを意識した途端に、急に『客観性』がグラついてしまうのを感じ」るのだと森山に告げ、あるいは「トランスが自分の志向に沿って行動すると、ジェンダーフリー的な思想とは正反対の方に突っ走っていく」矛盾をどう思うかと問う。森山もまた、クィア・スタディーズの研究者として歴史的な経緯や一般的な定義などをひとまずは押さえつつ、能町に応じるようにして個人的な体感を語ることを恐れない。あらかじめ決まった答えに向かうのではない二人の対話はチャーミングですらある。
本書の冒頭でも言及されているように、「奇妙な」などの意味をもつクィアという単語はもともと、ゲイ男性やトランスジェンダー女性に対する蔑称として使われていたものだ。それがLGBTすべてを包含する言葉として、あるいはそのどれにもあてはまらないセクシュアルマイノリティを示す/までをも含む言葉として使われるようになっていったのは、そこに「クィアですけど何か?」という開き直りが、「奇妙」であることを積極的に引き受け既存の価値観、つまりは「普通」をジャックし転覆させようという意志があったからだ。だから、セクシュアルマイノリティ(の一部)を示す言葉としてのクィアの意味を説明することはできても、精神性を示す言葉としてのクィアはその内実を固定することができない。
このような精神性はしかし、セクシュアルマイノリティの権利をめぐる(ポリティカリーにコレクトな)政治とは食い合わせが悪いことも多い。権利を「認めさせる」運動というのは既存の価値観や体制を大前提としているからだ。例えば婚姻の平等について。同性愛者にも異性愛者と同等の権利を認めるべきであるという(それ自体はごく当然の)主張がある一方で、そもそも異性愛的な価値体系のうえに築かれた結婚という制度自体が問題なのだという思想がある。婚姻制度を即刻破壊せよと主張する「過激派」はそれほど多くはないだろうが、もう少し「穏当」なスタンスをもった、法の下の平等が成り立っていない現状としては婚姻の平等は一刻も早く実現するべきという前提に立ちつつ、本来的には結婚という制度自体どうかと思うというセクシュアルマイノリティは意外に多い。
本書の第4章「制度を疑い、乗りこなせ──『結婚』をおちょくり、『家族像』を書き換える」で二人は、能町自身の結婚をめぐる「実践」にも触れつつ(『結婚の奴』[平凡社、2019]に詳しい)、「なんで友達同士で結婚しちゃいけないの?」などと結婚や家族の「普通」を疑っていく。「普通」を揺さぶる試みはマジョリティにとっては脅威のようでもあり、だからこそ時に苛烈な排除へのベクトルが働くのだが、制度をジャックし利用する可能性を探る思考はむしろ、枠組みに囚われた人をこそ自由にするものだろう。
本書が扱うトピックは多岐にわたっている。性・性別・恋愛、マイノリティとマジョリティ、結婚と家族、そして高度な合意形成の術の参照項としてのSMからクローン人間(!)まで。本書はセクシュアルマイノリティに関する基本的な知識は履修済みだという人にこそオススメしたい。クィアな思考の実践は、世界それ自体をジャックし書き換えることを要請するだろう。
森山至貴×能町みね子『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』試し読みページ:https://webzine.asahipress.com/categories/1043
2023/07/06(木)(山﨑健太)