artscapeレビュー

2023年07月15日号のレビュー/プレビュー

田原桂一「存在」

会期:2023/06/17~2023/07/15

√K Contemporary[東京都]

田原桂一が2017年に亡くなってから6年が過ぎた。65歳という年齢での逝去は、必ずしも早過ぎるとは言えないが、生前の活動が華やかだったので、やはり道半ばという思いが残る。没後も、いくつかのギャラリーや美術館で回顧展が開催され続けていることにも、彼の仕事を惜しむ人が多いことがあらわれているのではないだろうか。

今回、東京・神楽坂のアート・スペース√K Contemporaryで開催された個展では、舞踏家の田中泯のパフォーマンスを1970〜80年代に撮影したシリーズと、同じ時期にヨーゼフ・ボイス、ピエール・クロソウスキー、クロード・シモンらのアーティスト、作家などを撮影したポートレイトのシリーズが並んでいた。田原は、どちらかといえば、建築物や室内の光景を捉えた作品で知られているが、このような人物の「存在」を浮かび上がらせようとする営みにも、独特の美意識が刻みつけられている。被写体を有機的な物質として、光と闇の狭間に置き、触感的な要素を強調して描き出していこうとする姿勢が徹底しているのだ。

今回のような展示を見ていると、そろそろ、もう一回り大きな会場で、彼の作品世界の全体像を提示するような機会がほしくなってくる。どこかの美術館が、大規模な回顧展を企画するべきではないだろうか。特に遺作になった「奥の細道」シリーズ(2016年)を、ぜひもう一度見てみたい。


公式サイト:https://root-k.jp/exhibitions/keiichi-tahara_sonzai/

関連レビュー

田原桂一「光合成」with 田中泯|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年11月15日号)

2023/06/16(金)(飯沢耕太郎)

リニューアルオープン記念特別展 Before/After(前編)

会期:2023/03/18~2023/06/18

広島市現代美術館[広島県]

2020年12月から約2年3カ月にわたり、大規模な改修工事による長期休館を終えた広島市現代美術館。「リニューアルオープン記念特別展 Before/After」では、文字通り「前」と「後」をテーマに、美術館自体がどう変わったのか、経年変化と保存修復、核によるカタストロフィの前後の時間に焦点を当てている。コレクションをベースに、若手作家を中心とする新作を加え、45組の作品を全館に展示。加えて、建築模型、図面、記録写真・映像、新旧のデザイン比較などの資料や解説パネルも並び、大ボリュームの内容だ。



展示風景 [撮影:来田猛]




展示風景 [撮影:来田猛]


本展を企画した学芸員の角奈緒子は、休館前の2019年に開催された「開館30周年記念特別展 美術館の七燈」に関わっている。美術館自身の軌跡、使命や機能、課題を照らし出す7つの導きの灯として、「観客」「建築」「ヒロシマ」「保存修復」「資料と記録」「リサーチと逸脱」「あいだ」といった切り口を設定した。本展ではこのうち、「保存修復」と「ヒロシマ」が2つの軸となっており、続編的な位置づけといえる(「美術館の七燈」展において館の歴史のリサーチから作品を展開させた田村友一郎が、さらに「自作の続編」をつくるという遊び心に満ちた仕掛けもある)。

同館の建築は、中央のエントランスの円形空間から、左右に2つの棟が伸びている。本稿では、展示室A-1~4のある右翼を「A棟」、展示室B-1~3のある左翼を「B棟」と便宜的に呼称する。A棟の第一展示室では、「館のリニューアルを紹介する資料展示」が出迎える。エレベーター増設、だれでも多目的トイレ・ベビーケアルーム・キッズスペースの新設といった来場者の利便性を高める改修。展示室の照明のLED化、両翼の屋根や床を張り替えて防水・排水性を高めるなど、建築や機能のメンテナンス。

続いてA棟では、非耐久的な素材を用いた作品の保存修復と、「保存修復」それ自体をテーマとする現代美術作品が並ぶ。前者は、「美術館の七燈」でも課題として取り上げられていた田中功起の初期作品《everything is everything》(2005-2006)。劣化しやすいプラスチック製の日用品・消耗品と、その「逸脱的使用」を収めた映像で構成される。本展では、田中と学芸員が実際に展示室に構成物を配置しながら、劣化した物の交換補充や再展示についての指針を話し合い、そのプロセスの記録映像を「インストラクション」として並置した。また、後者の「保存修復」自体を主題化した作品としては、ブロンズ彫刻の保存修復工程をニンジンに施す髙橋銑、壊れた日用品を薄い布でくるみ、傷やヒビ割れの部分を絹糸で縫い合わせるように刺繍する竹村京らが並ぶ。



田中功起《everything is everything》(2005-06) [撮影:来田猛]


このように、時間作用が建築/作品にもたらす劣化にメンテナンスを施し、時代に応じた新陳代謝を促す営みは、「ケア」の領分といえる。そして来場者へのケア・配慮として、ピクトグラムのデザイン更新のなかでも、画期的な試みとして特に注目したいのが、トイレのジェンダー記号である。「それぞれの性に割り振られてきた特徴にできるだけ頼らないよう努めました」と解説パネルが述べるように、「女性=赤、スカート、Aライン」/「男性=黒や青、ズボン、Iライン」という差別化を排し、あえて「わかりにくい」ピクトグラムを採用している。だが、来場者を立ち止まらせる「わかりにくさ」こそ、公共空間がいかに既存のジェンダー秩序を視覚的に強化・再生産しているのかについての自覚を促す。「どちらに入ればいいか迷っている方々へ」というパネルの呼びかけは、むしろ「普段は決して迷うことがない人」に「なぜ自分は迷わないのか」という見えない特権性を自覚させ、「迷わざるをえない状況」を強制的に擬似体験させるためにこそある。



トイレのピクトグラム変更についての解説パネル


一方、B棟への橋渡しとなるのが、新規収蔵のお披露目となるシリン・ネシャット《Land of Dreams》(2019)。アメリカ先住民の居住地であり、原爆を開発したロスアラモス国立研究所や核実験場のあるニューメキシコ州で撮影された。若いイラン人の美術学生を主人公とする2チャンネルの映像では、「夢の収集」という非現実的な作業を通して、左右のスクリーン、夢と現実、自己と他者、研究所/アーカイブ、ネシャットの出身地のイランとアメリカといったさまざまな境界が交錯。「悪夢として語られる、核開発がもたらしたトラウマ」と、記憶を管理・抑圧する権力機構を詩的にあぶり出していく。



シリン・ネシャット《Land of Dreams》(2019) [撮影:来田猛]


そして、反対側のB棟では、核によるカタストロフィの前/後に焦点を当て、「ヒロシマ」の表象や記憶の継承という自館のアイデンティティを再確認する。鉄腕アトムをデザインソースとする放射線感知服《アトムスーツ》を着てチェルノブイリに赴いたヤノベケンジ。キリストの血の象徴であるワインをカラーフィルター代わりにして広島市街を撮影し、「真っ赤に染まる現在の都市風景」のなかに「被爆直後の燃え上がる市街地」を二重写しのように幻視させる和田礼治郎。地下に降りると、岡本太郎《明日の神話》1号原画、原爆開発にまつわるアメリカ各地の風景に「極小のキノコ雲」を出現させる蔡國強、絵本『おこりじぞう』で知られる四國五郎の原画やスケッチ、原爆ドームと周囲の景観を定点観測的に撮影した土田ヒロミらが続く。同館の毎夏のコレクション展の恒例テーマの拡張版といえる。



展示風景 [撮影:来田猛]


特筆すべきは、終盤の石内都の新作写真だ。原爆資料館所蔵の遺品をカラーで撮影した「ひろしま」シリーズではなく、2019年に台風で浸水被害を受けた川崎市市民ミュージアムに収蔵されていた自作を再撮影した「The Drowned」シリーズを展示。浸水し、カビに侵され、ただれた皮膚やかさぶたを思わせる写真の表面は、「被爆者の傷ついた皮膚」のメタファーとしての衣服を想起させる。同時に、「災害による作品の損傷と破壊」はA棟のテーマへと円環的につながり、「ケアの場所としての美術館」を再浮上させていく。

後編に続く)



石内都《The Drowned #1~6》(2020-22) [撮影:来田猛]


公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/beforeafter

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リニューアルオープン記念特別展 Before/After(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
石内都展「見える見えない、写真のゆくえ」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年06月15日号)
開館30周年記念特別展 美術館の七燈|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年06月01日号)
美術館とコレクション──開館30周年記念特別展「美術館の七燈」|角奈緒子:キュレーターズノート(2019年04月01日号)

2023/06/18(日)(高嶋慈)

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リニューアルオープン記念特別展 Before/After(後編)

会期:2023/03/18~2023/06/18

広島市現代美術館[広島県]

本稿の前編でみたように、「Before/After」展は、美術館の建築構造をベースとして、おおむね、「A棟=建築と作品の保存修復・ケア」「B棟=カタストロフィの前後の時間、館のアイデンティティとしてのヒロシマ」という2つの軸線で構成される。解説パネルに加え、作品どうしの関連キーワードをハッシュタグ群として壁に提示するなど、非常にわかりやすく設計されている。だが、そうした「わかりやすいキュレーション」を一見撹乱するように、1970年代の3点のビデオアートが飛び石的に置かれていることに留意したい。A棟とB棟の展示室の入り口と出口にそれぞれ置かれた3台のブラウン管モニターは、主張しない「小ささ」や作品自体の地味さの一方で、物質的な存在感を強調する。これらの離れた点と点をつなぐことで、「点線で引かれたC軸」と呼びうる、もうひとつの軸線が浮かび上がってくるのではないか。



展示風景 [撮影:来田猛]


1点目は、A棟の展示室入り口に置かれたデニス・オッペンハイムのビデオ作品である。《2ステージ・トランスファー・ドローイング(未来の状態への前進)》(1971)では、上半身裸のオッペンハイムの背中に、彼自身の息子がペンでゆっくりとドローイングを描き、オッペンハイムは背中に伝わるペンの感覚だけを頼りに、目の前の壁に貼られた紙にドローイングを「転写」する。《2ステージ・トランスファー・ドローイング(過去の状態への回帰)》(1971)では、父と息子が入れ替わり、父が息子の背中に描いたドローイングが、息子によって壁に「転写」される。「触覚を介した目隠し状態のドローイング伝言ゲーム」であり、2つのドローイングは、「行為の伝達」「再現」がはらむズレを可視化する。またここには、息子にとっての父(=自分自身の未来の姿)と父にとっての息子(=自分自身の過去の状態)という時間的な相似形がある。「未来」に向けた伝達と、「過去」への回帰は、自己同一性とともに差異をはらむ。この事態は、作品を「未来」へ伝えるための修復措置や交換補充、そのために制作当時の状況の調査など「過去」へ遡及するといった、「保存修復」の問題としてパラレルに読み替えることができる。あるいは、「背中に描かれたオリジナル」はすぐに消え去るが、「別の世代によって別の媒体に伝達されたコピー」は物質的に残ること。このように、オッペンハイムのビデオ作品は、このあとに続く展示室のテーマをメタフォリカルに予告してもいる。



デニス・オッペンハイム《2ステージ・トランスファー・ドローイング(過去の状態への回帰)》(1971)


2点目は、B棟地下展示室の入り口に置かれたダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》(1978-1979)だ。主人公の普通の女性が「ワンダーウーマン」に変身して敵と戦うアメコミのテレビ番組を引用し、フェミニズム的視点から映像の消費文化を批評する。視聴者が待ち望む、お約束の「変身シーン」が執拗に反復され続けることで、「ハイライト」の希少価値を無効化し、物語の文脈から切り離し、スペクタクルの空虚さを露呈させる。「変身」のたびにきらめく閃光と、同じく反復される爆発シーンの火焔。その奥に、核爆発の瞬間を描いた岡本太郎らの絵画、広島市内の夜空の花火を描いた木版画やキノコ雲の表象が続くことで、「閃光と爆発の瞬間」をひたすら反復するバーンバウムのビデオ作品は、「宙吊りにされた視聴者のカタルシス」から「トラウマ的な記憶の反復」へとメタフォリカルに変容していく。



左より:岡本太郎《明日の神話》1号原画(1967)、 ダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》(1978-79)、 井上覚造《地球は終りぬ》(1956) [撮影:来田猛]


そして、3点目は、同じ地下展示室の出口に置かれたジョン・バルデッサリ《芸術制作中》(1971)だ。何もない空間に立ったバルデッサリが、ポーズを変えながら「芸術制作中(I am making art)」とつぶやき続けるだけの映像である。コンセプチュアル・アートのトートロジー性や「退屈さ」、既存のアートの否定(その究極の形としての「何もしないこと」)が「アート」として成立してしまう反芸術的態度、身体に過激な負荷をかけるボディ・アートなど、同時代的潮流に対する何重もの皮肉として解釈できる。だが、この作品が「ヒロシマ」「フクシマ」を扱う作品群の最後に置かれたとき、別のメタメッセージを帯び始める。「芸術制作中」という現在進行形の宣言は、「前/後」と明確に切り分けられない時間の連続性のなかに私たちがいること、そして表象不可能性や「当事者/非当事者」の分断の前に立ち尽くして何もしないのではなく、「それでもアートの制作に終わりはない」と力強く宣言すべきであることを示すように見える。



展示風景 [撮影:来田猛]




ジョン・バルデッサリ《芸術制作中》(1971) [撮影:来田猛]


このように、3つのビデオアート作品は、伝達やコピーが生む差異、反復、現在進行形という3つの異なる「時間」の位相を提示することで、「前/後」という時間の切り分けや直線的に進む時間という近代的意識を自己批評する。一方、3点それぞれは各展示室のテーマとメタ的に共鳴し、補強する役割を担う。そして点と点をつなぐことで、「ビデオアートの戦略的な読み替え」のアクロバティックな操作という、もうひとつの軸線が見えてくる。一見すると「わかりやすいキュレーション」を撹乱的に裏切るようで、実は自己批評を書き加えつつ、最終的に裏書きして支えるという、非常に重層的な構成だった。

公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/beforeafter

関連レビュー

リニューアルオープン記念特別展 Before/After(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)

2023/06/18(日)(高嶋慈)

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吉永陽一「地上絵」

会期:2023/06/15~2023/07/02

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

吉永陽一は2008年頃より、本格的に空から地上を撮影する空撮作品を制作し始めた。それらをメインテーマとして取り組んできた鉄道写真と結びつけることで、自ら「空鉄(そらてつ)」と呼ぶ新たなジャンルが形をとることになった。今回のコミュニケーションギャラリーふげん社での個展には、その「空鉄」の写真群を中心として、2008〜2023年に国内外で撮影した空撮作品、42点が展示されていた。

吉永は小型のセスナ機に搭乗し、地上300〜1000メートルほどの高度からシャッターを切る。その高さから見る眺めは、「鉄道が、街が、建物が、大地が交差し、寄り添って絡み合い、偶然の形をつくりだしている」。それらは確かに、地上にいては見ることができず、高い場所から見下ろすことで思いがけないフォルムが姿を現わすという意味で、「ナスカの地上絵」のようにも見える。本シリーズの最大の魅力は、何よりも、そんな「偶然の形」を見出したときの吉永の驚きと歓びと感動とが、いきいきと伝わってくるところにある。

「空鉄」の代表作と言ってよい、伊丹空港に着陸しようとする旅客機と、新大阪に到着する直前の新幹線車両とを同一画面に写し込んだ作品(「新大阪 2016年4月30日」)などを見ると、「地上絵」の多様さと、予想をはるかに超えた面白さに目を見張る思いを味わう。鉄道写真がベースとなっているシリーズではあるが、街や人の営みを中心に撮影する方向にシフトしていくことにも、大きな可能性を感じる。そのことで、さらに広がりのある作品になっていくのではないだろうか。


公式サイト:https://fugensha.jp/events/230615yoshinaga/

2023/06/23(金)(飯沢耕太郎)

コレクション1 80/90/00/10(前編)

会期:2023/06/24~2023/09/10

国立国際美術館[大阪府]

国立国際美術館の昨年度の新収蔵品のお披露目を軸とするコレクション展。目玉となるのが、初収蔵となる村上隆の巨大な絵画作品《727 FATMAN LITTLE BOY》(2017)だ。国内に所蔵される村上作品としては最大級のサイズ。「サブカルチャーの引用」「ポップ」「キャラクター」「美術史の引用・アプロプリエーション」といった村上作品のキーワードを起点に、1980年代から2010年代までの現代美術を紹介する。展覧会タイトル「80/90/00/10」は単線的に時間が進むイメージを与えるが、2010年代から90年代を通過して80年代へと遡行しながら、「ジェンダー」というもうひとつの軸線が浮上していく構成だといえる。

まず観客を出迎えるのが、村上の《727 FATMAN LITTLE BOY》。村上の代表的なキャラクター「DOBくん」が、絵巻物を参照した様式化された雲に乗り、威嚇するように牙をむく。グラフィティを思わせる背景には、長崎と広島に落とされた原子爆弾のニックネーム「FATMAN」「LITTLE BOY」と、「SHOVE IT ALL IN(みんなくたばれ)」というスラングが書かれている。同じ展示空間には、引き延ばした漫画のコマや映画『グレムリン』(1984)のキャラクターの画像をそれぞれシルクスクリーンで複製したロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル、『スーパーマン』の漫画に登場する架空の未来都市をモチーフに彫刻化したマイク・ケリーの作品が並ぶ。「ポップカルチャーの引用」という手法を文脈づけるとともに、その「アメリカのポップカルチャーの受容経験」が戦後日本の自己形成に憧れと強烈なコンプレックスをもたらしたことを示唆し、村上作品の生まれた土壌を補強する。



展示風景


続く展示空間は、村上に加え、「80~90年代の(男子向けの)サブカルチャーを参照した作家」を概観する。日本のプラモデルメーカー「タミヤ」の看板の引用やタミヤ製のプラモデルの兵隊を使用した、村上の初期作品(東京国立近代美術館の所蔵および寄託)。鉄腕アトムを思わせる目鼻のないキャラクターを描いた絵画や、発砲スチロール製の犬が載ったラジコンカーの彫刻をつくった中原浩大。ヤノベケンジの《アトムカー(黒)》(1998)は、コインを入れて実際に走らせることができるが、放射線を10回感知すると止まってしまう。スーパーカーブームのなかで育った國府理の初期作品《Tug Tricycle》(1995)も、重い荷物を牽引可能な三輪車で、実際に可動性を備えている。



展示風景


このように、プラモデル、鉄腕アトム、クルマといった「男子向けのサブカルチャー」の集合とは対照的に、次の展示空間には、少女漫画を参照した西山美なコの絵画作品が展示され、サブカルチャーがジェンダーによって領域化されている構造を突きつける。「デ・ジェンダリズム~回帰する身体」展(1997、世田谷美術館)で発表された《Looking at you》では、輝く大きな瞳、小さな口、細い首、カールした色とりどりの髪にドレスを着た少女たちの肖像が並び、少女性や美の基準を誇張すると同時に、観客を見つめ返す。観光名所の顔はめパネルを少女漫画風に置き換えた《ようこそあなたのシンデレラ・キッチュS》(2004)では、少女漫画の読者がキャラクターに自己投影することで、「王子様と結ばれる(べき)」という夢の世界かつ異性愛規範が強化されること、しかしそれは書き割りのように薄っぺらい虚構にすぎないことが暴かれる。



西山美なコ《Looking at you》(1997)


この西山作品の奥に、スクール水着やセーラー服を着た「美少女」たちが滝で水と戯れるさまを描いた会田誠の巨大な絵画《滝の絵》(2007-2010)が置かれることで、「少女と消費文化」という西山作品の文脈は、90年代がブルセラブームや援助交際など「少女の性的消費化」が加速した時代でもあったことを改めて意識させる。



展示風景


こうしたジェンダーとポップカルチャーに対する批評は、さらに奥の展示空間で、80年代へと時間を遡行するかたちで展開される。森村泰昌、シンディ・シャーマン、アストリッド・クライン、やなぎみわ、ローリー・シモンズ、シェリー・レヴィーンら、アプロプリエーションやコンストラクティッド・フォトの手法を用いる作家たちだ。架空の映画のヒロインに扮したシンディ・シャーマンの写真作品の隣には、ブリジット・バルドーの切り抜きに「私はしゃべらない、何も考えない」というテキストを添えたアストリッド・クラインのコラージュ作品が置かれ、「映画」という大衆文化における表象の不均衡性を示す。構築された女性像の虚実の曖昧さや不気味さは、人工的な空間にエレベーターガールたちがマネキンのように佇むやなぎみわの写真作品を経て、ローリー・シモンズの写真作品では被写体が文字通り「人形」となる。色調やライティングを誇張したバスルームやリビングでポーズをとる人形の女性たちは、映画のワンシーンのようにも、窃視的なショットのようにも見える。



左:アストリッド・クライン《無題(私はしゃべらない、、、)》(1979)  右:シンディ・シャーマン《無題 #129》(1983)




左より:ローリー・シモンズ《ブルー・ウーマン/ブルー・ウォーター》(1983)、《レッド・バスルーム》(1983)、《ペイル・ブルー・リビング・ルーム》(1983)
右:やなぎみわ《アクアジェンヌ イン パラダイス II》(1995)


ただ、渋谷の街頭を精緻に写したトーマス・シュトゥルート、昭和の団地の光景をシュールなアニメーションで描いた束芋、精巧な植物の木彫を空間に溶け込ませる須田悦弘、牛乳箱を「貸し画廊」に見立てた小沢剛を紹介する終盤は、焦点がぼけて失速を感じた。ポップカルチャーの引用を経て、ポップカルチャーが再生産するジェンダーの構造への批評という軸線を、さらに掘り下げる余地が同館のコレクションにはあるのではないか。後編では、「展覧会レビュー」の枠を逸脱するが、同館コレクションを通してジェンダーやセクシュアリティを語り直す視座の可能性について考えてみたい。

後編に続く)

公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/collection20230624/

関連レビュー

コレクション1 80/90/00/10(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)

2023/06/23(金)(高嶋慈)

2023年07月15日号の
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