2018年04月15日号
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artscapeレビュー

関かおり『を こ』

2016年03月01日号

会期:2016/02/08~2016/02/11

森下スタジオ Cスタジオ[東京都]

関かおりのダンスの特徴は、徹底的にダンサーを鍛え、その身体をこしらえ上げるところ、そしてそれによって独特の運動の質が身体の隅々までみなぎるようにするところにある。今作にも、その徹底ぶりは垣間見えるのだが、なんといおうか、ごくごく微量のコミカルさが感じられて、それがとても印象的だった。誤解されてはならないが、それは関のダンスがキャラ的だということではない。とはいえ、関のダンスは、独特の運動の質を作り上げるところにあり、その傾向はひとつに、人間らしさからの逸脱を意味するところがある。白いガーゼを巻いただけのような、ほとんど裸に見えるダンサーの姿は、人間をプリミティヴな状態へと連れ戻したかのように見えるし、そうしてリセットされた人間があらためてどんな生態をもつものなのかが気になってくる。例えば、ダンサー同士がコンタクトするさまは、その「始原へとリセットされた人間」の知性や感情のかたちを伝えてくれているようだ。突飛な例かもしれないが、例えば『進撃の巨人』の怪物たちの運動の質もまた、彼らの生態を伝えるためにあのような動きとして造形されたのだろう。そう思うと、関のダンス上の試みというのは、実写映画やアニメーションなどで運動する生命体を造形する試みとよく似ているのかもしれない。しかし、そこまでだったら「キャラ」の範疇に収まることだろう。関は慎重に「キャラ的」になることを回避している。そのうえでなのだが、筆者が先に「ごくごく微量のコミカルさ」と述べたのは、いつもの関らしいていねいな造形意志とはちょっと質を異にするリズムが、本作にはあったからだ。しっかりと構築された造形物が、不意に落下してしまうみたいな、そしてそれによって、構築性が破損されてしまうかのような、スリリングなリズムが生まれていた。その意味で、とてもダンス的な舞台だった。例えば「大駱駝艦」を連想させるような、舞踏的な気配もあった(タイトルには「おろかなこ」の意味があるという。こういう着眼点も舞踏のエッセンスとのつながりを予想してしまう)。ひょっとしたら、室伏鴻の逝去によって、実現されぬままとなったフランスでの室伏との稽古の日々も、ここになんらか作用しているのかもしれない。

2016/02/09(火)(木村覚)

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