artscapeレビュー

2017年09月01日号のレビュー/プレビュー

生誕150年記念 藤島武二展

会期:2017/07/23~2017/09/18

練馬区立美術館[東京都]

今年2017年は洋画家・藤島武二(1867-1943)の生誕150年。15年ぶりの大回顧展となる本展では、藤島武二の作品のみならず、彼が学んだ日本画家、洋画家、留学時代の師の作品、資料を含む約160点が紹介されている。また、日本のアール・ヌーヴォー様式の代表作のひとつである鳳晶子(与謝野晶子)『みだれ髪』装幀(1901/明治34年)を含む、グラフィックデザインの仕事が多数紹介されている点も特筆されよう。本展チラシのデザインもアール・ヌーヴォーを意識しているようだ。ほとんどアルフォンス・ミュシャのスタイルの模倣である「すみや書店」刊行の絵はがき《三光(星・日・月)》(1905/明治38年)などからは、藤島が同時代のヨーロッパの流行を熱心に研究していた様子がうかがわれる。藤島武二とアール・ヌーヴォー様式には黒田清輝、久米桂一郎らによって結成された白馬会との関わりが指摘されている。1901/明治34年、フランスから帰国した黒田らはアール・ヌーヴォー関連の情報、資料をもたらし、白馬会第6回展(1901年10~11月)では多数のアール・ヌーヴォー様式のポスターが展示されたという。しかしそれ以前からアール・ヌーヴォーのデザインは日本に影響を与えていた。黒田、久米らの不在中に開催された白馬会第5回展(1900年10~11月)にアール・ヌーヴォーのポスター2点が展示されており、また藤島武二は『明星』第10号(1901/明治34年1月)にアール・ヌーヴォー風の挿絵を発表している。藤島武二自身がヨーロッパ留学に出発したのは1905年のことなので、彼は日本に居ながらにして、そして黒田、久米が持ち帰った資料の影響を受ける以前にすでに、ヨーロッパのポスターや雑誌によってアール・ヌーヴォー様式を研究、マスターしていたことになる。他方で、装幀やデザインの仕事の場としては東京新詩社の主催者であった与謝野鉄幹、晶子夫妻との関わりが指摘されている。鉄幹と藤島との親交は1901年から始まり、夫妻とのコラボレーションはその後30年以上にわたって続いたという。さらに、デザイナー藤島武二誕生に影響を与えた人物として、ここでは藤島が洋画を始める前に師事した四条派の画家 平山東岳、円山派の川端玉章の影響も挙げられている★1。ところで藤島武二より10歳ほど年下で、アール・ヌーヴォー様式のデザインで著名となったグラフィック・デザイナー 杉浦非水(1876-1965)もまた四条派、そして川端玉章に師事し、東京美術学校時代には黒田清輝から指導を受けている。日本のグラフィックデザインの源流に連なる二人が、時期は異なるがよく似た道筋を辿っていたことがとても興味深い。よく知られた《蝶》(1904)、《芳惠》(1926)が、1967年以降行方が分からなくなっていることを本展で初めて知った★2。[新川徳彦]

★1──谷口雄三「グラフィック・デザインの先駆者」(本展図録、38頁)および『日本のアール・ヌーヴォー 1900-1923』(東京国立近代美術館、2005年、34頁)。
★2──加藤陽介「《蝶》、《芳惠》の行方」(本展図録、88-89頁)。


2017/07/22(土)(SYNK)

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命短し恋せよ乙女~マツオヒロミ×大正恋愛事件簿

会期:2017/07/01~2017/09/24

弥生美術館[東京都]

「貴女、もう地獄に落ちてますよ」。シンガーソングライター・吉澤嘉代子の《地獄タクシー》(2017)は、女性解放を唄った名曲である。タクシーに乗り込んで空港へ向かう女は、「レースの手袋に滲んだ赤黒い染みを隠して、重い鞄を抱きしめた」。鞄の中に詰められているのは、亭主の首。だが、「窓の外を見遣ると、豊かな麦畑の黄金がそれはそれは美し」く見えるほど、女の気分はじつに晴れやかだった。抑圧からの解放と破滅の道が表裏一体であること。吉澤が軽やかに歌い上げているのは、地獄の釜の底に自由と解放を見出さずにはいられない女の切実な心情である。
本展は、明治大正時代の文学者や画家、詩人や俳人らの恋愛事件を当時の新聞記事や写真、小説など、数々の資料によって振り返ったもの。文学士・森田草平との心中未遂の後、洋画家・奥村博史と「結婚」ではなく「共同生活」をした、女性解放論者の平塚らいてう。そのらいてうが創刊した『青鞜』に執筆し、夫の田村松魚がいながら、『青鞜』の表紙絵を描いた長沼智恵子(後の高村智恵子)との恋仲が噂された、バイセクシュアルの小説家・田村俊子。そして二度目の駆け落ちでソ連に亡命し、スパイの容疑で収監、刑期を終えた後、ソ連でアナウンサーや演劇の仕事につき、当地で生涯を終えた女優・岡田嘉子。いずれも現在の姦しい不倫騒動が霞んで見えるほど劇的かつ濃厚、まさしく「事実は小説より奇なり」とも言うべき事件簿ばかりで、いちいち面白い。
展示で強調されていたのは、現在とは比べ物にならないほど頑強な「家制度」の力。家長たる男子を絶対視する家制度においては、個人の自由恋愛はそれを蔑ろにするご法度として罪悪視されていた。恋愛から結婚ではなく結婚から恋愛という手順が自明視されていた時代だからこそ、ある者は家制度の束縛に身を滅ぼすほど煩悶し、ある者はそれからの離脱に人生を賭けたのだった。言い換えれば、家制度が社会の核心に蔓延っていたがゆえに、それをよしとしない者たちは、たとえその外部が地獄だとしても、その釜の底を歩む道を選び取ったのである。
翻って現在、家制度の権勢は失われ、自由恋愛を阻む障壁の一切は取り払われたかのように見える。しかし、そうであるがゆえに、いわば地獄行きのタクシーに乗り込むような覚悟と情熱もまた、大きく損なわれてしまったのではなかったか。おびただしい数の資料群とともに展示されていたマツオヒロミによるイラストレーションは、竹久夢二や徳田秋聲との恋愛で知られる山田順子や前述した田村俊子を主題にしたものだが、流麗な線と艶やかな色彩によって女性の柔らかな肢体や着物の柄を丹念に描き出す力量は見事というほかない。あわせて展示されたラフ原稿を見ると、完成作の線とほとんど大差ないことにも驚かされる。だがその一方で、その耽美的な絵肌にいささか物足りない印象を覚えたのも事実である。というのも、マツオが描き出す女性像は、いずれも妖艶な魅力を確かに備えている反面、本展で詳しく紹介されている女性たちが醸し出す「業」を、ほとんど見出すことができないからだ。言ってみれば、天国で優雅に佇むような美しさは湛えているが、地獄の底を這いつくばりながら歯を食いしばって生きるような根性は到底望めないのである。
むろん、それは個人を疎外してやまない家制度の束縛から解き放たれ、自由恋愛を謳歌する現代の女性たちの等身大の姿なのかもしれない。彼女たちが100年以上も前の人間模様にある種の親近感を覚えることができるようにするための工夫とも考えられる。だが、かりにそうだとしても、そのようにして展示に含められた現代性を看過することはできない。なぜなら、そのような現代性は明治大正時代の展示構成にも少なからず暗い影を落としているように思われるからだ。
その暗い影とは、本展における伊藤野枝と阿部定の欠落である。前者は、言うまでもなく、雑誌『青鞜』に寄稿していた婦人解放運動家にして大杉栄と並ぶ無政府主義者で、事実、平塚らいてうと同様、野枝は結婚制度を拒否しつつ、大杉とのあいだに4人の子どもを設けたが、関東大震災の混乱に乗じた憲兵隊によって大杉とともに虐殺された。同じく『青鞜』に寄稿していた神近市子が大杉の喉元を刃物で刺した「葉山日陰茶屋事件」で野枝の名前を知る人も少なくないだろう。後者は、前者よりやや年少の芸妓・娼妓で、昭和11年(1936)に、性交中の愛人の男性を絞殺したうえ、男性器を切断して持ち逃げた「阿部定事件」で知られている。両者はともに家制度から逃れながら自由恋愛を実践し、結果として社会の大きな注目を集める事件を引き起こした点で共通しており、その意味で言えば、本展で紹介される資格を十分に備えているが、どういうわけか本展には含まれていない。厳密に言えば、阿部定事件があったのは昭和だから、明治大正時代の恋愛事件簿を取り扱う本展にはそぐわなかったのかもしれない。だが、平塚らいてうがいて伊藤野枝がいないのはどう考えても不自然であるし、自然主義文学運動を牽引した島村抱月と愛人関係にあった女優の松井須磨子がスペイン風邪で亡くなった抱月の後追い自殺を遂げた事件や、『婦人公論』の記者・波多野秋子と不倫関係にあった文学者の有島武郎が軽井沢の山荘で心中した事件を目の当たりにした以上、来場者の想像力が情死の極致とも言うべき阿部定事件に及ぶのは、至極当然の成りゆきではないか。
政治性とセクシュアリティ──。伊藤野枝と阿部定が本展からあからさまに排除されたのは、おそらく彼女たちが近代の美術館が露骨に忌避するこの2つの条件をものの見事に体現しているからだ。前者はアナキズムの運動家という点であまりにも政治的であり、後者は男根を直接的に連想させるという点であまりにも性的にすぎる。明治大正時代の恋愛事件簿を総覧した本展は、基本的にはその醍醐味をあますことなく伝えることに成功していると言えるが、伊藤野枝と阿部定を等閑視することによって、結果的にその本質的な魅力を半減させてしまっているのではないか。平成を視野に収めすぎたがゆえに、明治大正の濃厚な色彩がいくぶん脱色されてしまっていると言ってもいい。
ところが、改めて確認するまでもなく、男であれ女であれ、人は誰しも性的存在であり、なおかつ「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの大前提を持ち出すまでもなく、抑圧された女性が解放を求めるとき、政治性とセクシュアリティを無視することは決してできない。それらは、ある種の生きにくさを痛感させられているあらゆる人々にとっての問題のありかを示す道標であり、同時に、解放のための闘争の現場でもある。とりわけ戦後の現代美術が、こうした基本的な問題設定を忘却の彼方に沈めてきたことを思えば、地獄行きのタクシーに乗らなければならないのは、もしかしたら「美術」そのものなのかもしれない。

2017/07/22(土)(福住廉)

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松岡亮「何も知らず、空で描く。」

会期:2017/07/24~2017/08/05

福住画廊[大阪府]

松岡亮はミシンを用いて刺繍ドローイングを制作するアーティストだ。個展会場には手描きのドローイングと刺繍ドローイングが並んでおり、それらを見たときには、まず手描きのほうを制作し、それらをもとにミシンワークを行なっているのだと思った。また、彼の作品には童画のような奔放さがあり、ひょっとしたら手描きの作品は彼の子供が描いているのか、とも思った。本人に尋ねるとどちらも間違いで、すべて自分の手によるものであり、下描き無しに即興で制作している。彼のミシンワークは、まるで手描きのごとく自由に糸を操るのが特徴だ。制作風景の動画を見せてもらったが、両手で布を躍らせるように動かすと、刺繍の線が四方八方に広がっていく。彼のミシン使いはきわめて独特で、その様子を見たミシンメーカーの人は驚愕し、悲鳴(ミシンが壊れる!)を上げたそうだ。道具の既成概念を覆し、新たな創造の可能性を切り拓くアーティストは格好いい。筆者は松岡に「ミシンのジミヘン」の称号を捧げたい。

2017/07/24(月)(小吹隆文)

新聞家『白む』

会期:2017/07/20~2017/07/25

Buoy[東京都]

北千住の古いマンションの地下に降りる。コンクリートむき出しの会場に、円陣状の客席。扇風機が回る。クーラーなし。ペットボトルをもらって汗を拭う。村社祐太朗の演劇の特徴に毎回会場が変わるということがある。いわゆる劇場は用いない。美術ギャラリーなどが多い。環境は作品を変える。村社はそのことに自覚的だ。新聞家の劇は、そのデリカシーゆえに、演劇でありながら、絵画に見えたり、彫刻に見えたりする。会場が美術ギャラリーだからだけではなく、観客の「見ること」へ向けた作術が繊細であるが故のこと。例えば1年前の『帰る』では、ソファーに座る二人の男女が近代の肖像画のように見えた。絵画か彫刻のように見える演劇は、見ることの集中度が高くなり、見入ってしまう。今作は様子が違っていた。円陣状の客席に混じって、俳優も同じパイプ椅子に座り、座りながら話を始める。俳優の3人は1人ずつしばらく喋ると、交代する。内容は家族や恋人との思い出。思い出はレストランの名前とメニューとともに語られる。高級レストランもあれば、ファミレスも出てくる。誰かと食べた思い出。記憶にとどめられない分量の語りを観客は聞き続ける。古いマンションの片隅でしかも円陣の輪の中で聞いていると、まるで住民の管理組合の会議でメンバーの話に耳を傾けているような、なんというべきか「車座」感が出てくる。役者たちは絵画でも彫刻でもなく、生身の人間として「居る」、その感じが今作では強調されていた。そういえば、受付時に、赤い干しトマトが振舞われ、口にすると甘く、酸っぱい味がした。その経験を会場の観客たちは共有しているのだった。筆者は時間が取れず参加できなかったが、観客全員と行なう意見会も新聞家恒例の趣向で実施されている。ひとの話を聞き、自分の感想も語り、交互にそれが行なわれるという意見会で起きることは、上演中、役者と観客との間で起きている交感とさして変わらない、ということなのかもしれない(上演後も残れたらよかった)。であるならば、村社は、「話すこと」と「聞くこと」というきわめて基本的な、演劇的であり社会的でもある状況へと観客の意識を向けようとしている。ここに新聞家の真髄がある。それがはっきりとした。

2017/07/25(火)(木村覚)

中銀カプセルタワービル

[東京都]

建築・アートの研究者である和田菜穂子さんの案内で、銀座の中銀カプセルタワービルを見学。黒川紀章の設計により1972年に建てられた13階建ての集合住宅で、カプセルを積み上げたユニークな姿は、新陳代謝していく建築・都市を提唱したメタボリズム運動を代表するものとして知られている。「中銀」というのはてっきり中央銀行とかが施主だったから名づけられたんじゃないかと思っていたが、単に中央区銀座にあるからだって初めて知った。丸窓のある直方体のカプセルが積み重なり、外から見ると巨大な鳥の巣か、コインランドリーの洗濯機を縦に並べたよう。個々のカプセルは独立した部屋になっていて、構造的に交換可能なはずだったが、両隣にビルが建ってしまったこともあって一度も交換されたことはないそうだ。
さっそくエレベーターで上階へ。通路や継ぎ目は老朽化が激しいが、部屋のなかに入ると約半世紀前の「未来」が保存されている。室内はオフホワイトで、直線と円で構成されているところがいかにもレトロフューチャーな趣。そう、これが40-50年前の「未来」だった。大阪万博にもこんな未来的なパビリオンが林立してたっけ。独身者用なので1室の広さはビジネスホテルより狭い3畳程度か、でもその後できたカプセルホテルよりずっと広い。ちなみに最初のカプセルホテルを設計したのは黒川紀章とのこと。ユニットバスはついているけどお湯は出ないらしい。ベッドやテーブルは収納式で、テレビや冷蔵庫は備え付け。部屋によってはあれこれ改装しているという。
こういう未来志向の建築は年月を経てほころびが出てくると、見るも無惨な姿をさらすことになる。最新の機器やデザインほど10年もたてば逆に古さが目立つようになるからだ。レトロフューチャーな建築にも二つあって、ひとつは1968年に公開された映画『2001年宇宙の旅』に見られるような、無菌室のごときウルトラモダンなインテリアであり、理想的かつ非現実的な未来像だ。もうひとつは1982年に公開の『ブレードランナー』に代表される薄汚くて猥雑でデッドテックな未来都市で、こちらのほうが現実的。このカプセルタワーは建設当初はウルトラモダンを目指したのだろうけど、年月を経て図らずもデッドテックな味わいを兼ね備えることになってしまった。やはりこれはいろんな意味で永久保存してほしい建築だ。

2017/07/26(水)(村田真)

2017年09月01日号の
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