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越境する日本人──工芸家が夢みたアジア 1910s-1945

2012年07月01日号

会期:2012/04/24~2012/07/16

東京国立近代美術館工芸館[東京都]

20世紀初頭、大正から昭和にかけて、多くの日本人工芸家たちがアジアの他の地域へと渡った。彼らがアジアに求めたものはさまざまであった。日本工芸の源流をかの地に求めた者もあれば、新しい可能性を求めて旅した者もあった。展覧会ではその関わりかたやまなざしを5つの章に分けて紹介している。第1は「『アジア』へのまなざし」。明治維新以降、アジアのなかでさきがけて近代化を成し遂げた「東洋の盟主」としての日本のアジアに対するアプローチを探る。第2は「1910-20年代の『新古典派』」。日本や中国の古典的な工芸品の研究を通じて生み出された意匠を紹介する。第3は「唐三彩、磁州窯、李朝──新しい美の規範」。ここでは1920年代から、従来珍重されてきた「唐物」とは異なる種類の器──李朝の白磁、染付など──が高く評価されるようになったことが指摘される。第4は「越境する陶芸家──朝鮮、満州にて」。朝鮮や満州に渡って現地で制作を行なったり、陶土などの原材料を持ち帰って制作を行なった陶芸家の事例が紹介される。第5は「もうひとつのモダニズム」。ここでは、満州などの植民地では西欧文化に抗う新しいデザインの試みが行なわれていたことを示す。
 アジアとの関わりがおもに工芸家やデザイナー、あるいは「工芸済々会」のような団体によって行なわれていたのに対して、朝鮮に拠点をおき高麗磁器の復活を試みた実業家・富田儀作(1858-1930)の事例が興味深い★1。富田は1899(明治32)年に朝鮮に渡ったあと、鉱山経営、農業や養蚕、牧畜業に携わった。それらの事業の傍ら富田が力を注いだのが、高麗青磁(三和高麗焼)、籠細工(三和編)、伝統玩具、螺鈿細工など朝鮮の伝統工芸の復興であった。さらには1921(大正10)年には朝鮮美術工芸館を設立し、蒐集した美術工芸品を無料で公開している。これらにより富田は莫大な損失を被ったようであるが、もとより彼の意図は利益をあげることよりも「朝鮮特有の産物を発達せしめ、その品物を欧米諸国に輸出して、以て東洋における朝鮮なるものの存在を知らしめたい、といふ深遠なる希望と計画」にあった★2。高麗青磁の復興にあたっては、熊本から濱田義徳(1882-1920)・美勝(1895-1975)兄弟を招いて製作にあたらせ、高い品質の磁器を生み出したという[図1、図2]
 日本とアジアのあいだには歴史認識をめぐる複雑な問題があり議論には繊細な注意が必要となろうが、同時代の日本人工芸家たちのアジアへの多様なまなざしと、作品への影響を冷静な視点で明らかにしようという今回の試みには大きな意義があると思う。[新川徳彦]
★1──岡本隆志「三和高麗焼について」(『三の丸尚蔵館年報・紀要』第15号、2008年度)。
★2──中島司『富田儀作伝』(富田精一、1936、285頁)。


左=三和高麗焼《青磁象嵌菓子鉢》c.1911-1945
右=三和高麗焼《青磁象嵌花瓶》c.1911-1945

2012/05/15(火)(SYNK)

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