artscapeレビュー
国産アニメーション誕生100周年記念展示 にっぽんアニメーションことはじめ ~「動く漫画」のパイオニアたち~
2017年11月01日号
会期:2017/09/02~2017/12/03
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
日本で最も古いアニメーション作品は、1917年(大正6年)1月に浅草で公開された「凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻(でこぼうしんがちょう、いもすけいのししがりのまき)」と考えられている。この作品は天然色活動写真株式会社(天活)の制作で、作者は漫画家の下川凹天だった。興味深いことに、同じ年のうちに日本活動写真株式会社(日活)では北山清太郎が、小林商会では幸内純一と前川千帆が、それぞれアニメーション作品を制作し公開している。いまから100年前、1917年になにが起きたのだろうか。この展覧会は多彩な史料によって、日本のアニメーション草創期の姿を探ろうという企画だ。
展示は3つのセクションで構成されている。セクション1は、4人のパイオニアたちのプロフィールと主要な仕事の紹介。セクション2では、1917年前後のアニメーションに関する記録や証言を時系列に提示し、日本初のアニメーション作品公開への道筋を辿る。セクション3では、海外作品も含め、戦前期の漫画とアニメーション、それらに登場するキャラクターたち──具体的にはディズニーの「ミッキーマウス」や、田河水泡の「のらくろ」など──との交流関係が考察されている。
日本のアニメーションの始まりについては、まだまだ明らかになっていないことが多く、史料が発見されるたび、研究が進むたびに、その歴史は少しずつ改訂されている。たとえば、かつて最も早く封切られた作品は下川凹天「芋川椋三 玄関番の巻」と考えられてきたが、近年になって1917年1月に封切られた下川「芋助猪狩の巻」がそれより早かったことが明らかになっている。また従来、日本アニメーションのパイオニアは、下川、北山、幸内ら3人とされてきたが、小林商会のアニメーション制作において前川が幸内と対等な関係で作品制作にあたっていたとのことで、新たに彼の名前をパイオニアたちの中に加えることにしたという。さらに、初期アニメーション研究の困難は、史料において確認されている作品の多くが失われ、現存していないことにある。そうした研究の現状と困難を、この展覧会ではとても興味深い方法で提示している。すなわち、現時点における最新の情報を提示するために、展示室の壁面を年表に見立て、1916年10月から1918年8月までの日本のアニメーション関連の史料、証言などのコピー、それら史料に対するコメントなどを貼り、ケースに雑誌記事等の文献史料を並べているのだ。この方法ならば、仮に展覧会期間中に新たな史料が発見されたとしても、年表にそれを挿入すればよい。不明点が多いことはアニメーション史に不案内な者にとってはやや不親切かもしれないが、研究としてはとても誠実な方法だ。
ところで、なぜ1917年だったのか。解説によれば、1914年に始まった第一次世界大戦の影響でヨーロッパの映画産業が停滞し、映画会社の海外作品配給に影響したことや、フィルム価格の高騰が経営に影響したこと、新たな集客の試みとして映画会社がアニメーションに注目した可能性が指摘されている。制作にあたったパイオニアたちにとっては、なぜ1917年だったのか。彼らはいずれも画家、漫画家であり、映画制作との関わりはなかった。幸内と前川の関係を除くと、パイオニアたちが日本最初のアニメーション制作にあたって相互に交流した形跡はない。誰が「最初のアニメーション作家」になっても不思議ではなかった。輸入アニメーションはすでに1910年代から公開されており、パイオニアたちは当然これらの作品に触れている。津堅信之氏の研究では北山清太郎が輸入アニメーションを初めて見たのは、自ら制作を始める前年1916年のことだという(『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』臨川書店、2007年)。「年表」にこれら前史を加えると1917年という年の意味がより明確になるかもしれない。
もうひとつの疑問は、これらパイオニアたちの仕事は、その後の日本のアニメーションにどのような影響を与えたのかという点だ。それというのも、北山を除く3人は1年経たずしてアニメーション制作から撤退してしまったからだ。また影響を考える上ではそれが技術なのか、表現なのかという点も考える必要があろう。研究のさらなる進展が待たれる。
なお、川崎市市民ミュージアムが所蔵する下川凹天関連資料を紹介する「『漫画家』下川凹天 その、テンテンたる生涯」展が併催されているほか、未だ発見されていない下川凹天作品を現代のアニメーション作家たちの感性で蘇らせた「下川凹天トリビュートアニメーション」の上映が行われている。[新川徳彦]
2017/10/08(日)(SYNK)