artscapeレビュー

裵相順「Layers of time」

2019年10月15日号

会期:2019/09/07~2019/11/03

LEE & BAE[韓国、釜山]

20世紀初頭、朝鮮半島における鉄道建設の中継地として日本人が作った街、大田(テジョン)のリサーチを元に作品を制作している裵相順(ベ・サンスン)。大田で生まれ育ち、引き揚げ後は日本国内での差別から自らの出自を語らずに生きてきた高齢者たちを取材し、映像作品を制作している。また、彼女がこれまで手掛けてきた絵画作品の主要なモチーフであり、多義的なメタファーを持つ「糸」を用いた写真作品も発表している。絡まりもつれ合ったカラフルな糸は、「大田生まれの日本人」というアイデンティティの複雑さ、解きほぐし難く絡まった日韓関係、伸び行く線路や人々の行き交った軌跡の交差、そして髪の毛や血管、心臓など人体の一部にも見え、さまざまな読み取りを誘う。近現代史のリサーチやオーラルヒストリーの収集などの手法を用いて制作する作家は増えているが、アートの可能性は、単なるドキュメンタリーではなく、より複雑な意味を持たせて見る者の想像力を刺激し、能動的に考えさせることができる点にある。

今回、釜山のギャラリーで開催された個展では、植民地期の釜山で暮らした日本人の痕跡に焦点を当てた新作が発表された。釜山は、1876年の開港以降、日本人が多く入植し、港湾部の開発や日本風の市街地が形成された。裵が着目したのは、かつて日本人街だった地区に今も残る1本の街路樹だ。現存するのはこの1本だけだというが、裵は、撮影した樹の画像をデジタル合成で重ね合わせ、鬱蒼と生い茂る森のようなイメージを出現させた。それは、黒いベルベットの下地に極細の面相筆で白い描線を描き重ね、気の遠くなる緻密な線の連なりが吸い込まれそうな深度を持つ絵画作品と、「レイヤー構造」の点で響き合うとともに、「過去と現在」が錯綜し、安定したパースペクティブを消失した眩暈のような感覚をもたらす。



会場風景


また、《Stone Rose》と題された、カラフルな樹脂でできた板状の立体作品もある。その表面は、ひび割れた大地のような複雑な凹凸を持つ。これは、釜山の龍頭山公園の石垣の表面を型取りしてつくったものだ。現在は、港を見下ろせる丘の上に釜山タワーが建ち、観光地として人気の龍頭山公園だが、李氏朝鮮時代(江戸期)から日本統治時代の間は神社が建てられていた。敗戦後は引き揚げを待つ日本人の、朝鮮戦争勃発後は戦火を逃れてきた避難民の避難場所となったが、度重なる火事に見舞われた。石垣の表面が爆発で割れたような跡は、火の強さを物語る。この石垣の痕跡が、「バラの花のように見えた」と言う裵は、ピンクやオレンジ色の樹脂を用いて作品化した。同時にそれは、皺の寄った皮膚のようにも見え、矛盾した感覚を見る者に与える。石という硬いものであると同時に、花びらや皮膚のように柔らかく有機的なものであること。冷たく死んだものであり、血の通ったものでもあること。アートは矛盾を抱え込むことを許容する領域であり、作品は矛盾した言葉を語ることができる。それは、一元的で排他的な断定の言葉に抗う術となる。



《Stone Rose》2019, Crystal resin


裵の作品は、歴史的痕跡に対し、糸や樹脂を用いてメディウムを変換することで、人体組織を思わせる有機的なものとして差し出す。それは、言語による歴史記述よりもより微妙で複雑な方法で、現在と過去は断絶ではなく繋がっていること、近代史を考えることは現在を考えることであること、そして現在の状況の複雑さの根は近代にあることを示している。



《Layers of stone i, ii, iii, iiii》2019, Face-mounted archival pigment prints


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