2019年11月15日号
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artscapeレビュー

Boyan Manchev『Clouds. Philosophy of the Free Body』

2019年10月15日号

発行所:Metheor

発売日:2019/09

ソフィアおよびベルリンを拠点とする哲学者ボヤン・マンチェフは、2年前、母語であるブルガリア語で新著『雲』を上梓した★1。過去に英語、フランス語、イタリア語をはじめとする複数の言語で著されてきた哲学的散文とは打って変わって、同書は全体にわたり断片的な、ほとんど詩的と言ってもよいテクストによって構成されている。「雲とは……である」というセンテンスの執拗な反復に貫かれたこの書物では、ボードレール、ブレイク、シェリーをはじめとするわずかな例外を除けば、明示的に第三者のテクストが引用されることもない。そのスタイルは、ジョルジュ・バタイユの思想を主要な導きの糸とする『世界の変容──ラディカルな美学のために』(Éditions Lignes, 2009)や、ドストエフスキー、アルトー、ブランショらの作品をつねに傍らにおいた『変身と瞬間──生の脱組織化』(La Phocide, 2009)といった旧著(いずれもフランス語)のそれとは際立って対照的である。

筆者がマンチェフ本人から『雲』の話を聞いたのは、彼がドラマトゥルクとして関わる「メテオール」という集団が、新たに同名の出版レーベルを立ち上げたときのことだった。アニ・ヴァセヴァ(演出家、アーティスト)、レオニード・ヨフチェフ(俳優)、ボヤン・マンチェフ(哲学者、ドラマトゥルク)の3名を中心とするメテオールの舞台作品は、すでにブルガリア国内で高い評価を獲得し、その次のステップとして、同名の叢書の設立を計画しているところだった。それからわずか2年ほどのあいだに、メテオール叢書から刊行されたブルガリア語の書籍はすでに8冊におよぶ★2。そして、同叢書から刊行される9冊目の書物にして、はじめての英語の書物となるのが、ボヤン・マンチェフによる『雲』の英訳(本書)である。

はじめにも述べたように、本書は「雲」にまつわるいくぶん詩的なテクストである。同書の「プロレゴメナ」(序文)によれば、雲についての書物は、同時にそれ自体が雲のような書物でなければならない。著者の言い方に倣えば、「雲についての書物(book on clouds)」は、同時に「雲の書物(book of clouds)」にして、「雲のなかの書物(book in clouds)」でもなければならない(p. 15)。要するに本書がめざすのは、雲をめぐる抽象的な思索それ自体を、雲の形象へと接近させることである。これも著者が述べていることだが、「新たな哲学」は「新たな形式」の発明と不可分である(p. 16)。複数の文体を矢継ぎ早に切り替えていく『雲』の叙述形式もまた、まさしくそうした「新たな形式」を生み出すために選ばれたものにほかならない。

形式面だけでなく、内容面でもひとつ、本書の読みどころを紹介しておきたい。本書でもっとも特権的な人物として扱われるのは、哲学者でも文学者でもなく、ロンドン生まれの科学者ルーク・ハワード(1772-1864)である。もともと気象学には門外漢でありながら、若い頃から雲におおいに魅せられていたこのイギリス人は、のちに今日までつづく雲の分類の基本形を作り上げたことで知られる。かのゲーテとも交流のあったハワードによる雲の研究を、本書は──いささか驚くべきことに──カントの『判断力批判』(1790)とともに読むことを提案する。

なるほど、1783年に起こったアイスランドの大噴火が象徴的に示すように、雲はカントが同書で「崇高」と呼んだ自然現象と容易に結びつくものである。しかし、それはまだ物事の一面にすぎない。天空のいたるところで集合・離散を続け、そのたびごとに姿を変える雲は、噴火や雷鳴といった「崇高な」自然の象徴である以前に、私たちの思考を刺激する「形」をともなった「不定形な」現象の最たるものである(ここで著者はカントとともに、バタイユの名にも抜かりなく言及している)。そしてそれを、カントが「美的理念」と呼んだもの、すなわちいかなる概念もなしに、しかし思考を大いに刺激する理念に結びつけるのだ(p. 78)。そのような理念を産出する、「概念−以前のマグマ」としての雲(p. 80)──著者マンチェフが雲のうちに見いだすのは、「美」や「崇高」の手前に位置する、そうした感覚と理念の媒介のアナロジーなのである。

★1──同年にソフィアとプロヴディフの二都市で行なわれた『雲』のリーディング公演については、次の拙文のなかで詳述したことがある。星野太「アペイロンと海賊──『雲』をめぐる断章」、小林康夫編『午前四時のブルー』第1号、水声社、2018年。

★2──http://desorganisation.org/index.php/en/

2019/10/07(月)(星野太)

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