artscapeレビュー

石松佳『針葉樹林』

2021年04月15日号

発行所:思潮社

発行日:2020/11/30

2019年に第57回現代詩手帖賞を受賞した石松佳(1984-)による第一詩集。2021年3月には本書によって第71回H氏賞を受賞しており、第一詩集としては異例なことに、発売から半年を待たずして初版分は完売している。

じっさい本書を手にとってみると、ここに収められた作品が、多くの読者を魅了するのも大いに頷ける。ひとつひとつの詩が浮かび上がらせる情景は、よくある散文的フィクションの陳腐さからも、不必要に凝った現代詩の晦渋さからも、はるかに遠いものである。ひとことで言えば、ここにある言葉にはいっさい無理がない。本書を評するあれこれのなかに、「軽やかさ」や「まぶしさ」といった形容がしばしば見られる理由も、おそらくそのあたりに見いだされるだろう。

若干ながら、具体的な作品にも立ち入ってみたい。本書の栞で松下育男が書いているように、この詩集ではまず何よりも直喩のめざましさが際立っている。たとえば次のような一節。「ひとつの精神に対して、身体は買い物籠のように見透かされていたかったのだが。今日は茄子が安いよ、と言われて、手に取る」(「梨を四つに、」)。いささか無粋な説明を加えるなら、この一節の驚きは、前半で「身体」の喩えとして登場した「買い物籠」が、後半の買い物の情景でとたんに実体に転じている──ように読める──ことにある。前出の松下が評するように、ここには「喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくる」、あるいは「喩えたものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまう」という奇妙な世界が立ち現われている(松下育男「直喩と透明と小さな差異」本書栞)。

しかし、これらの作品においてもっとも特徴的なのは、むしろ先の一節に典型的に見られるような、ごく小さな接続語(「……のだが」)を介した不意の飛躍ではないだろうか。同じ「梨を四つに、」という作品は次のように始まっている──「梨を四つに、切る。今日、海のように背筋がうつくしいひとから廊下で会釈をされて、こころにも曲がり角があることを知った。そのひとの瞳には何か遠くの譜面を読むようなところがあり、小さな死などを気にしない清々しさを感じたために無数にある窓から射し込む陽光が昏睡を誘ったけど、それはわたしの燃え尽きそうな小説だった」(30頁)。

見てわかるように、後半に進むにつれて、ひとつひとつのセンテンスが長くなっている。ここには「会釈をされて、」「誘ったけど、」といった順接・逆接による情景のスイッチがあるが、その前後はおよそ論理的に繋がっているようには見えない。とはいえこれを一読してみたとき、この前後の流れがまったく連続性を欠いたものであるとも思えない。先に「ここにある言葉にはいっさい無理がない」と言ったのは、つまりそういうことである。これはおそらく、「背筋」「会釈」「曲がり角」、あるいは「死」「陽光」「燃え尽きそうな」といった言葉のふくらみが、論理とは異なるゆるやかな連続性を保っているからだろう。ただしそれは単語の羅列ではなく、あくまでも「……して、」「……けど、」のような接続語をともなった文章のかたちで連鎖するのだ。

いったんそのような目で眺めてみると、本書所収の詩篇のいたるところで「……して、」「……けど、」のような接続表現がやたらと目立つことに気づくだろう。これらは文法的な説明としては接続語ということになるのだろうが、同じく栞で須永紀子が指摘するように、これらの語彙を順接や逆接といった単一の機能に還元することは、実のところむずかしい(須永紀子「喩がひらく詩」本書栞)。この「……して、」「……けど、」のような比喩ならざる比喩、ごくわずかな一、二音節からなる接続語こそが、本書の見事な直喩の数々を、その根底において支えている当のものではないだろうか。

2021/04/05(月)(星野太)

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