2021年09月15日号
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artscapeレビュー

松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』

2021年04月15日号

発行所:新潮社

発行日:2021/02/25

本書のもとになったのは、2019年からおよそ1年半にわたって『新潮』に書き継がれたエセーである。そのタイトルに違わず、著者がこれまでに行った「さびしい町」をめぐって書かれた文章だが、その内容はよくある旅行記のたぐいとは一線を画している。

著者・松浦寿輝(1954-)のこれまでの仕事を多少なりとも知る読者であれば、本書に登場する地名にヨーロッパ以外の町が多数含まれていることに、いささか意外な心持ちがするだろう。パリ十五区、ヴィル=ダヴレー、シャトー=シノンといったフランスの地名も登場しないわけではないものの、むしろ本書の大半は、イポー(マレーシア)、ニャウンシュエ(ミャンマー)、長春(中国)、江華島(韓国)といったアジアの国々の地名で占められている。加えて、上野や中軽井沢といった著者の生活圏と結びついた地名もあれば、過去に作家・研究者として滞在した北米のタクナ、ドーチェスターといった地名もある。本書では、これら数々の「さびしい町」でのエピソードとともに、著者の公私にわたる記憶がさまざまに綴られる。「わたしが行ったさびしい町」というだけあって、ひとつひとつの町に、何か大きな特徴があるわけではない。むしろ本書の読みどころは、そうした町の名前に結びついた、著者その人の個人的な記憶にある。

いささか回りくどい言い方になるが、本書がありふれた旅行記のたぐいと一線を画している理由は、ここに書かれたことが、それぞれの「町」について何か有益なことを教えてくれるわけではないからだろう。先にも書いたように、本書において印象的なのは、それぞれの町を訪れたときの著者の心境や、その時々の人生の濃淡が、ちょっとした昔話のように現われては消えていくことだ。ものによっては半世紀以上前の記憶もあるのだから、それはいつも鮮明なものであるとはかぎらない。いや、たとえ比較的近い時期のものであっても、著者の記憶は全体的にどうも心もとない。

そのようなとき、本書では著者がウィキペディアなどで「調べてみた」事実がしばしば挟み込まれる。わざわざそんなことを書く必要はないではないか、と思うむきもあるかもしれない。だが、むしろ本書の叙述において肝要なのは、そうした「経験」と「情報」の隔たりであると言えるだろう。考えてみれば、ここに登場する「さびしい町」での記憶のほとんどは、iPhoneもGoogleマップもなかった時代のそれである。対して、いまや当地の情報を手繰り寄せようとすれば、さしたる労力もなく、いくらでもそれを手元に呼び出せる時代になった。しかし、往時の経験がGoogleマップの客観的な情報に還元されることはないし、ましてそのとき自分がいかなる心境にあったかという実感は、とうてい復元しえるものではない。のちに著者が詩集のタイトルに掲げるほどに想像力を掻き立てられたというソウルの「秘苑(ビウォン)」が、Googleの検索結果ではあえなく焼き肉屋のサイトに押しのけられてしまうという挿話(185頁)も、ユーモラスでありながらそこはかとない悲哀をさそう。

本書で幾度も吐露される「さびしい町」への偏愛は、この著者の熱心な読者にとってさほど意外なものではないだろう。また、「さびしさ」そのものをめぐる著者その人の考えも、後半にむかうにつれ次第に明らかになっていくにちがいない。とはいえ、そうした堅苦しいあれこれは措くとしても、本書はとにかくめっぽう面白い。これが凡百の旅行記と一線を画すということはすでに述べたとおりだが、「ナイアガラ・フォールズ」と「タクナ」の章で綴られるアメリカ横断旅行のエピソードや、「アガディール」の章での命からがらのモロッコ旅行など、読みどころを挙げていけばきりがない。ここに漂っているのは、やはり個人的な回想を多分に含んだ旧著『方法序説』(講談社、2006)などよりもはるかに優しい雰囲気であり、かつて著者の文体の特徴をなしていた厳しい断言は、ときおり括弧のなかで控えめに呟かれるのみである(14、23頁など)。そうした文体上の変化は、著者がこれをはっきり「余生」や「老境」の認識と結びつけていることと、おそらく無縁ではないだろう。

2021/04/05(月)(星野太)

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