artscapeレビュー
作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg
2016年03月15日号
会期:2016/02/02~2016/02/28
京都芸術センター[京都府]
「作家ドラフト」は、若手アーティストの発掘・支援を目的に、隔年開催される京都芸術センターの公募企画。アーティスト、建築家、劇作家・演出家など、各分野で活躍する表現者1名によって、提出された展示プランの審査が行なわれる。今回の審査員は小沢剛で、近藤愛助とBARBARA DARLINgのプランが選出された。本評では、プロブレマティックにして秀逸なBARBARA DARLINgの映像作品《BETWEEN #01》についてレビューする。
《BETWEEN #01》は、1組のカップルが、東京・新宿から、本州最北端に位置する青森・大間崎までの海岸沿いをドライブする旅を撮影し、「愛している」以外のふたりの会話を削除して編集した映像作品であり、上映時間は約10時間に及ぶ。彼らが通過する地点は、一時間ごとのタイムスケジュールとして記され、「10:00 東京都新宿区」から始まり、「11:00 福島県双葉郡楢葉町」といった原発周辺地域を通過し、「14:00 宮城県牡鹿郡女川町」「15:00 岩手県陸前高田市気仙町」「16:00岩手県下閉伊郡山田町」といった津波の被災地を経て、青森県へと北上する。
壁面いっぱいに投影される映像は、「ロードムービー」という(青春)映画の形式を借りながら、しかし、劇的な出来事は一切起こらない。後部座席に固定されたカメラは、フロントガラス越しに流れていく道路と沿線の風景を淡々と捉え、カーナビ画面とハンドルを握る手が映るだけで、運転席と助手席の人影はほとんど映らない。時折、サイドウィンドウからの映像に切り替わり、下車したふたりがタバコを吸って休憩したりする場面が挟まれるが、遠景からのショットのため、表情も不明で会話も聞こえない。つまりここに映し出されているのは、ドラマの圧倒的な不在であり、全編を通して見ることがほぼ不可能な長尺の「上映時間」が、見続けていても「特に何も起こらない」退屈な時間を引き延ばしていく。
全てを見続けることが苦痛を強いるほどの、上映時間の長尺さと退屈さ。それは、「物語」として消費されることへの抵抗であるとともに、5年前は多くの救急車両が行き交い、冠水や地割れで分断された道が、今や「ロードムービー」が撮れるほどになった、その平和な忘却の明るさを映し出す。ドラマの圧倒的な不在は、「もしかすると、見られなかった他の時間帯では何か出来事が起きているかもしれない」という期待を抱かせ、「目の前で今起きていること」よりも、「ここで起こらなかったこと」へと意識・想像を向かわせる。しかしそれが、スクリーンの表面を流れていく、更地になった土地や復興工事の現場と伴走するとき、かつて「ここで起きたこと」の想起へと、反転してねじれを伴いながら差し戻されていくのだ。
しかし車中のカップルは外の風景に無関心で、微温的な空気だけが覆っていく。《BETWEEN #01》の「主人公」たちは、1960年代~70年代のアメリカン・ニューシネマの主人公たちの逃避行のように、ロックカルチャーやドラッグカルチャーとも関わりながら、自由や性の謳歌、暴力的行為を通して、社会制度への反抗を表わしているわけではない。彼らが下車したときだけ、海岸の波の音や通り過ぎる車の音が聴こえるが、映像の大半を占める「車内」は無音であり、「外部」から完全に遮断された空間であることを示す。つまり、「外」の風景に関心を示さず、車の中という居心地よく密閉された個人的空間にいるカップルは、震災と原発事故を忘却しつつある今の日本社会の鏡像である。そう、この「ロードムービー」は、震災以降という「現実」からの逃避行なのだ。そこでは、恋人という親密な関係や「車内」という空間のプライベート性/震災という出来事の社会性、恋人どうしの旅というフィクション/風景の記録としてのドキュメントといった界面が衝突し、裂け目を露わにしている。
また、機械的に淡々と車窓の風景を映し取っていくカメラは、Googleストリートビューの撮影車の存在を想起させる。その風景が「普通の住宅地」であろうと「被災地」であろうと、データを集めるだけのカメラにとっては変わりない。「通行可能な道」として視覚化し、シームレスに連続したものとして平坦化し、所有しようとする欲望。それを、パソコンや携帯電話の画面上に「開いた窓」として召喚し、部屋にいながらでも「車窓の風景」のように楽しみ消費することができてしまう私たちの視覚環境や映像メディアについての批評としても、本作は機能していた。
2016/02/07(日)(高嶋慈)