artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
福田真知「essence / 風景」
会期:2015/06/02~2015/06/13
福田真知はこれまで、切断した枝の断片をバラバラに繋ぎ合わせて再び一本の枝に再構築した立体作品や、濃度1%にした画像を数百枚重ね合わせることで、被写体が揺らぎを伴って再生されていく映像作品など、複数の時間軸の接合や、時間の層の堆積としての映像のあり方を可視化する試みを行なってきた。
本個展では、三脚に固定された一眼レフカメラから、あたかも映写機のように映像が壁に投影されるインスタレーションと、レンズ越しにカメラ内部を覗いて見る映像作品を展示。いずれの映像も、カメラによって切り取られたイメージではなく、撮影行為の一連のプロセスにおいてファインダー越しに「見ている」光景を追体験させる。黒く縁取られた四角いフレームの中、タンポポの綿毛や風にそよぐ樹々が映し出される。画面中央にピント合わせのマーク。「カシャッ」というシャッター音とともに画面はフラッシュのような白い光で覆われ、何も見えなくなる。徐々に光は薄れ、再びイメージが現われてくる。展示の仕掛けとあいまって、あたかもカメラが擬人化され、カメラという眼が「見た」記憶が内部に保存され、壁に投影されるのを見ているかのようだ。
作家によれば、この映像は、iphoneで一眼レフカメラのファインダー内を動画撮影したものだという。一眼レフカメラでは、レンズから入った光が内部のミラーに跳ね返ることで、ファインダー越しに見る私たちに像=光が届けられる。だが、シャッターを切る瞬間、ミラーが跳ね上がるため、内部は真っ暗になる。一方、iphoneは自動で感度調整を行なうため、この瞬間に感度が極端に上がる。再びファインダー内には光が戻ってくるが、iphoneの感度が上がりすぎているため、眩しい光として定着されてしまう。その後、徐々に感度が合うことで、再びイメージが回復していく。
仕掛けは単純だが、このように福田は、普段私たちが見ている像=光であることを、「光」の物理的現前によって提示する。だがそれは同時に、明るすぎる光それ自体が見る行為を妨げ、像として固定されたイメージそのものを見ることはできないという逆説をはらんでいる。フラッシュを想起させるこの閃光はまた、撮影行為、ひいては「見ること」を可能にする絶対的な前提としての「光」を再認識させる。さらに、生成と消滅を繰り返す一定のリズムのなかに挿入されるこの強い光は、フラッシュバックを想起させ、記憶の心理的なメカニズムの謂いともなっていた。
2015/06/13(土)(高嶋慈)
佐藤雅晴「1×1=1」
会期:2015/04/18~2015/06/13
imura art gallery[京都府]
同じ顔、同じ髪型、同じワンピース姿の2人の少女が並んでこちらを見つめる。椅子に腰かける。それぞれが手にするショートケーキもまた、2つ並んだイメージとして提示される。彼女たちは双子だろうか? そしてあまりにも肌理の整ったこの画面は、デジタル処理を施された写真なのか、精巧に描かれたフォトリアリズム絵画なのか? 近づいて細部を凝視すると、髪の毛や衣服の微妙なディティールから、それが描かれたものであることがわかる。だがツルツルの表面に絵具の物質感はなく、二重の疑問が消え去ることはない。
佐藤雅晴は、デジカメ撮影した身近な風景や人物の写真画像をパソコン上に取り込み、描画ソフトを用いてなぞり直すことで、アニメーションや絵画作品を制作してきた。実在する対象を複写した写真を、さらに描画ソフトでトレースする。この二重のトレースを経ることで、「写真」でも「絵画」でもない、どちらにも定位できない気持ち悪さや違和感がもたらされる。さらに本展では、この違和感をさらに増幅する仕掛けとして、同じモチーフの反復・並列といった操作が加えられた。
細部にいたるまで精巧だが浮遊感の漂う画面は、写真と絵画、現実とフィクションの境界を曖昧化するとともに、写された/描かれた対象も同一性が曖昧になり、幾重もの分裂状態に陥る。佐藤の作品は、表面を写し取り、緻密になぞり直すことで、むしろ写真からリアリティの表皮を剥ぎ取っていくかのようだ。だが、写真画像を加工素材とみなす近年のデジタル処理された写真作品のみならず、彩色写真やピクトリアリズムといった初期写真における絵画との融合の試みを思い返せば、写真と絵画は二項対立的に分けられるのではなく、むしろ写真は創成期から絵画とのもつれた関係のなかにあった。佐藤の作品は、「なぜ写真にリアリティを感じるのか」という問いを改めて喚起する。
また本展では、同様の手法で無人の室内や住宅地の光景を描いたアニメーション作品も展示された。一見、普通の日常生活のワンシーンに見えるが、画面のなかの微妙な揺れや運動の反復が違和感を与える。コンセントを差そうと動く手、室内をパンし続けるカメラ、午後2時46分で止まったまま、秒針だけが動き続ける時計。微妙に揺れ動く画面がループする構造は、震災後の「余震」が終わりのないまま、まだ続いていることを静かに暗示していた。
2015/06/13(土)(高嶋慈)
プレビュー:声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション
会期:2015/07/20、2015/08/08、2015/9/27
アートエリアB1[大阪府]
映画、舞台演出、美術、テレビ、選挙運動など、多様なメディアと社会領域を横断する活動を行ない、2011年のヴェネチア・ビエンナーレでは、ドイツ館の構想半ばで逝去するも金獅子賞を受賞したクリストフ・シュリンゲンジーフ。多様な社会層の参加と議論の喚起によって成立する彼のアクション/パフォーマンス作品の記録映画を上映する試みが、〈声なき声、いたるところにかかわりの声、そして私の声〉芸術祭III PROJECT(8)「ドキュメンテーション/アーカイヴ」として企画されている。
今回上映されるのは、『友よ!友よ!友よ!』『失敗をチャンスに』『外国人よ、出ていけ!』『フリークスター3000』の4作品であり、鑑賞後にはファシリテーターの企画によって対話の場が設けられる。『失敗をチャンスに』は、シュリンゲンジーフが1998年のドイツ総選挙に向けて設立した政党「チャンス2000」の選挙運動のドキュメンタリーで、俳優、失業者、障害者らが国会議員候補となって、ドイツ全国で街頭演説を行なった。また、外国人排斥を掲げる極右党の政権入りを背景にした『外国人よ、出ていけ!』は、12人の「亡命希望者」をコンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が1人ずつ選ばれていくという過激な仕立てのパフォーマンスの記録である。
「演劇」という虚構のフレームを用いて、社会に潜在する矛盾や差別意識をあぶり出すとともに変革の可能性を提示するシュリンゲンジーフ作品の記録上映を通して、パフォーマンスとドキュメンテーションのあり方のみならず、参加型芸術と現実社会の関係、社会の多声性をいかに拾い上げるか、民主主義、同質性と排除の力学などについて再考する機会になればと思う。
2015/05/31(日)(高嶋慈)
プレビュー:やなぎみわ『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』
会期:2015/07/18~2015/07/19
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
やなぎみわが作・演出・美術を手がけた演劇作品「ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ」。2013年に神奈川芸術劇場とあいちトリエンナーレで上演された後、2015年1~2月にかけて北米ツアーが行なわれ、今回はその凱旋公演となる。「ゼロ・アワー」とは、太平洋戦争中に日本政府が英語で連合国軍向けに発信していたプロパガンダ・ラジオ番組の名称。アナウンサーとして従事していた日系女性の中でも、特に魅力的な声の持ち主は、南太平洋で戦う米兵たちによって「東京ローズ」と呼ばれ人気を博す。本作はこの事実を踏まえつつ、「東京ローズ」の正体をめぐって対立する2人の男性(日本人の録音技師と日系2世の米軍通信兵)のドラマが展開される。
国内では2年振りの再演だが、北米ツアーと同様の演出で、英語での上演(日本語字幕付き)となる。また、キャストを一部入れ替え、ダンサーを採用することで、より身体性の強い演出になるのではと期待される。太平洋戦争終戦から70年という節目、集団的自衛権をめぐる同時代的危機感、またサブタイトルがベケットの戯曲『クラップの最後のテープ』を示唆するように、戦争や国家とメディア、メディアにのった声と身体性、声の操作・複製・拡散、案内嬢の制服をまとったアナウンサーたちが象徴する均質化・匿名化された女性身体、などさまざまなことを問いかける再演となるだろう。
2015/05/31(日)(高嶋慈)
プレビュー:村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』4バージョン連続上演
会期:2015/07/10~2015/07/12
京都芸術センター[京都府]
KYOTO EXPERIMENT 2014 にて上演された村川拓也の演劇作品『エヴェレットゴーストラインズ』のコンセプトを引き継ぎつつ、新たにつくられた4つのバージョンを連続上演する試み。
「出演者未定の演劇作品」である『エヴェレットゴーストラインズ』の基本コンセプトは、「演出家が出演者候補に前もって手紙を送る」「手紙には、劇場を訪れる時間と観客の前で行なう行為が指示されている」「当日劇場に来るかどうかは受け取った人が決める」というもの。ある一定の上演時間と舞台空間を設定し、入退場時のハケ方と舞台上で行なう行為を指定すること。村川は、演劇の構造的原理を「時空間の共有と行為の指示」へと還元し、裸形にして差し出しつつも、「手紙」という間接的な伝達手段やコントロールの放棄によって、再現(再演)不可能な一回性の出来事へと近づけていく。要請に応じた出演者たちが舞台上に現われる時間と現われない不在の時間が交錯し、上演ごとに揺らぎを伴った不確定性へと開かれていく。
さらに、今回の4バージョン連続上演の試みでは、Ver.A「赤紙」(初演時の出演者が手紙を別の人に渡し、受け取った人はさらに別の人に渡す)、Ver.B「顔」(ある死の記憶を共有する特定のグループ数名の出演者達による上演。一人につき何枚かの指示が配られるが、どの指示に従うかは当人次第)、Ver.C「記録」(記録にまつわる作業集団 “ARCHIVES PAY” との共同制作。あらゆる記録装置を舞台に持ち込み、現場の一回性とその記録によって生まれるもう一つの時間軸を内包させたまま上演が展開する)、Ver.D「集団」(ティッシュ配りの要領で、街に出て大量の手紙を不特定多数の人々に配る。もっとも不確定要素の強いバージョン)が予定されている。
新たな、そして複数の条件づけによって、観客はどのような出来事を体験するのか(あるいは体験できないのか)。スリリングな期待を抱かせるとともに、「参加」を要請する枠組みや従う/従わないの判断を巡って、「作品」に対する責任の所在やある種の権力関係についても考えさせる上演になるだろう。
2015/05/31(日)(高嶋慈)