artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

TODAY IS THE DAY:未来への提案

会期:2015/07/26~2015/09/27

アートギャラリーミヤウチ[広島県]

モニターにライブで映る自分自身に向き合いながら、モニターの中心から指がずれないように指差し続けるヴィト・アコンチの映像作品《リ・センターズ》(1971年制作の《センターズ》のリメイク)で始まる本展。モニター=鏡を介して、こちらを指差す自分を指差し続ける、すなわち己の立ち位置の絶えざる問い直しという、印象的で象徴的な導入だ。被爆地・広島において、東日本大震災以降の現在の社会を照射する本展には、ジョーン・ジョナス、ローレンス・ウィーナー、ピピロッティ・リスト、リュック・タイマンス、アピチャッポン・ウィーラセタクン、奈良美智、小沢剛、照屋勇賢など世界的な作家16名が参加している。
強いインパクトで目を惹いたのは、伊藤隆介のヴィデオ・インスタレーション。《そんなことは無かった》では、めちゃくちゃに破壊された福島第一原発の原子炉内部がスクリーン上に映し出されるが、徐々にカメラが退いていくと、精巧に出来たミニチュアのジオラマであることがわかる。映像の前にはお菓子のパッケージの箱と、その奥にジオラマの実物が置かれており、先端に小型カメラの付いた棒がお菓子の箱に開いた穴の中へ侵入していくと、カメラの捉えた映像がライブで映し出される仕掛けだ。また、《自由落下》では、原子爆弾が雲の中を落下する映像が映し出されるが、映像の与える衝撃をあざ笑うかのように、のどかな青空の書き割りの前で原子爆弾の模型が回転し続ける様子が、「撮影セット」として晒されている。写真や映像メディアの虚偽性への問いに加え、永遠に落下し続ける原子爆弾=原発問題の先送りに対する痛烈な批判が窺える。
ユーモアを交えつつ直球を投げかける伊藤作品に対して、ダレン・アーモンドやジャン=リュック・ヴィルムートの作品は、より詩的かつ美しさを湛えている。そしてこの、「美と恐怖の共存」という両義性こそ、本展を通奏低音のように貫く感覚である。ダレン・アーモンドの《Full Moon》シリーズの写真作品は、若狭湾原子力発電所群の半径30km圏内に位置する海岸の風景を、夜間に満月の月明りのみで長時間露光して撮影されている。松の木も岩肌も海面もほの白く発光しているかのようで、凍りついたように幻想的で美しいが、冴え冴えとした白い光に満ちた画面は死の世界を思わせる。ヴィルムートの《Marine Science》では、抒情的であまりにも美しいピアノの旋律、穏やかな光に満ちた海の光景とともに、早く漁を再開したいと話す被災地の漁師のインタビューが挿入される。また、1983年制作と30年以上前の作品でありながら、預言的な戦慄を覚えたのが、ビル・ヴィオラの映像作品《Anthem(聖歌)》。駅舎の暗いホールに一人佇む少女が上げた叫び声は、次々と周波数を変換され、工場の機械の不気味なノイズ、深い森のざわめき、街中のサイレン、手術室の電子音として機械的に変質され、重工業地帯、森の中、多幸感あふれるショッピングエリア、手術室で切り刻まれる人体などの映像に重ねられていく。少女の悲鳴は、世界の残酷さや狂気に初めて触れた叫びのようでもあり、また彼女こそ世界の暗い中心にいて、さまざまに変質されていく叫びを送り出す存在、つまり世界の恐怖の音源であるようにも見える。
このように、本展の根幹には原発事故を端緒とした問題意識が据えられているが、「原発反対」の声高な主張へと収斂するのではなく、「世界は畏怖や狂気で満ちている/にもかかわらず、こんなにも美しい」という美と恐怖の同居に引き裂かれている。そのことがより戦慄を覚えさせる。だが、政治的枠組みの矮小さに堕することなく、そうした倫理的要請を超えた矛盾(存在そのものの矛盾)を引き受け、同時代に向けて提示することこそ、アートの可能性ではないだろうか。

2015/09/27(日)(高嶋慈)

被爆70周年 ヒロシマを見つめる三部作 第1部「ライフ=ワーク」

会期:2015/07/18~2015/09/27

広島市現代美術館[広島県]

展示構成のストーリーは大変分かりやすい。
被爆者が描いた「原爆の絵」50点で始まり、シベリア抑留という過酷な経験を芸術的に昇華させた香月泰男と宮崎進の絵画作品が続く序盤は、「当事者の証言」から「体験の内在化、芸術的昇華」へと展開する。この流れは、肉親の被爆死が創作活動と深い関わりを持つ四国五郎と殿敷侃において、残された日記や遺品となった衣服の絵画化として提示され、残された者の行なう喪の作業、ある種の供養としての「記憶の伝承」という面が加えられる。
この、被爆に関連した資料の絵画化・複写、すなわち「アーカイブの表象化」という作業は、中盤の石内都の写真作品においても共通する。ただし、序盤と中盤を決定的に分かつのは、「当事者/非当事者」という分断線である。中盤では、「非当事者による、物語の回復」が展開される。石内は、日常的で、身体性や触覚性を喚起し、持ち主のパーソナルな記憶を宿し、傷ついた身体のメタファーともなり得る衣服(その多くは若い女性が身に付けていたと思われる鮮やかな柄物やワンピースなど)をカラーで自然体に撮ることで、「被爆」という大きな物語から解放し、かつての持ち主が衣服に抱いていたであろう愛着や記憶に眼差しを向けようとする。また、後藤靖香は、劇画調のマンガの表現スタイルを用いて、第二次世界大戦に従軍した若き日の祖父や大叔父、藤田嗣治や宮本三郎といった従軍画家たちの物語を、デフォルメや力強い描線を駆使して大画面に展開する。
終盤では一転して、被爆樹木や路傍の草花の写生を行なった画家たちが召喚され、植物に仮託した「鎮魂と再生」の空間が立ち上げられる。そして、マチエールの追究と膨大な時間をかけた塗り重ねによって、黒一色のミニマルだが豊穣な絵画を制作した村上友晴。
このように本展は、「当事者による生々しい証言」→「体験の内在化、芸術的昇華」→「記憶の伝承」「アーカイブの表象化」→「物語の回復」→「鎮魂と再生」へと至る流れで構成されている。そこに、タイトルが示すように、日課のように「ライフワーク」として生涯取り組んだ仕事や、正規の美術教育を受けていない人による、みずからの生と直結した創作活動の双方が組み込まれているわけだ。個々の作品は、描き込みの密度や、継続性がもたらす圧倒的な物量感と相まって見応えがある。だが、分かりやすく消費可能な「物語」の着地点へと回収してしまうことで、見えなくなっているのは、広島、ひいては日本を取り巻く「現在地点」ではないだろうか。

2015/09/27(日)(高嶋慈)

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PACIFIKMELTINGPOT

会期:2015/09/22~2015/09/23

Art Theater dB KOBE[兵庫県]

フランス人振付家、レジーヌ・ショピノのカンパニーをハブに、日本、ニューカレドニア、ニュージーランドという3つの太平洋諸地域のアーティストが参加し、各地域でのリサーチワークを積み上げてきた《PACIFIKMELTINGPOT》。2013年に大阪で行なわれたリサーチワークの成果発表「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka」は基本的に3地域のグループに分かれてのショーイングという形式で、それぞれの文化圏ごとに身体性の差異が提示され、多文化主義的な性格が強かった。しかし、新たに3週間の滞在制作を経て作品化された本公演は、確実に深化を見せていた。
冒頭、上手と下手に分かれて対面したダンサーたちは、その隔たりを架橋するように、ひとりずつボールを床に転がして向こう側の相手に渡し、ボールは手から手へと渡っていく。静かな幕開けの後、ボールはあるときは祝祭的な花火のように空間を飛び交い、あるときは床に打ち付けられて力強いリズムを刻む。ボールの描く軌跡と弾む音が、ダンサーたちの身体の動きや声と呼応し、響き合う。ソロやデュオとして、個々人の身体性が強く浮かび上がる時間と、共同作業のように全員が混ざり合う時間。ふたつの時間のあいだをダンサーたちは行き来する。そこでは、一糸乱れぬ群舞のように全員が全体の目的に奉仕するのではなく、異なる身体性を持った個々人をつなぐ要素として、音や声といった音楽的要素が重要な役割を果たしていた。とりわけ、四股を踏むように、足で床=大地を強く踏む動作は何度も繰り返され、ダンサーたち全員に共有された身体言語として強い存在感を放っていた。また、それぞれの言語で歌われる歌に加えて、ひとりが声を発すると、口々に異なる音程やリズム、手拍子が加えられていき、多層的だが調和したひとつの音楽が即興的に生成されていく。豊穣な声が織りなす時間と、ボールの乱打や打楽器、掛け声が飛び交う喧騒の時間と、深い森のなかのざわめきを思わせる時間。ダンサーたちは動物や鳥の鳴き声を囁き交わし、ある者は動物へと擬態する。侵犯されていく境界。水平的に始まった上演の時空間は、さまざまな厚みと固有の響きを持って自在に拡張し、旅するように多様な風景を出現させ、それぞれのダンサーの身体から発せられる熱量が蓄積されていく。
そのエネルギーは終盤、輪になって集団で刻む足踏みのリズムと、ボールを床に打ち付けるリズムによって体現され、狭まる輪とともに内側へ収縮し、圧力を増していく。最後に一斉に虚空へ解き放たれるボールは、闇に火柱が立ち上がるようで、まさにエネルギーの噴出を思わせた。そう、「PACIFIKMELTINGPOT」の島々は、環太平洋造山帯として地下深くで繋がっているのだ。本作は、目下、経済的欲望に支配された巨大貿易圏に包摂され、他者の排除と多様性の否定が進行する現在に対して、身体的な対話と想像力を持つことの意義を提示していた。

2015/09/22(火)(高嶋慈)

山城知佳子+砂川敦志(水上の人プロダクション)「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka 2013」映画上映

会期:2015/09/22~2015/09/23

神戸映画資料館[兵庫県]

フランス人振付家、レジーヌ・ショピノのカンパニーをハブにして、太平洋諸地域のアーティストや研究者が展開する《PACIFIKMELTINGPOT》。これまで、ニューカレドニアやニュージーランドの先住民であるカナックやマオリなど、口承文化をまだ受け継ぐ地域の人々とワークショップを行ない、リサーチを積み上げてきた。2013年には大阪で「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka」ライブパフォーマンス&ディスカッションが開催され、日本、ニューカレドニア、ニュージーランドという3つの地域のアーティストが参加した。この映画は、大阪でのリサーチワークとその成果発表の上演を記録したドキュメンタリーである。監督は、沖縄を拠点に活躍する映像作家・山城知佳子と映画監督・砂川敦志。《PACIFIKMELTINGPOT》の完結編となる神戸での公演に合わせて上映された。
このドキュメンタリー映画の特徴は、振付家やダンサーたちが交わす言葉に対して、字幕が一切付けられていない点にある。フランス語、英語、日本語。3つの地域の3つの言語が入り乱れてやり取りされるリサーチワークの現場。ダンスは身体言語の芸術だが、創作現場ではたくさんの言葉が発せられ、身体への探究が言語化を通してフィードバックされる。加えて、《PACIFIKMELTINGPOT》の場合、身体から発せられる音や声、つまり口承文化の豊かな語りや歌唱も作品を構成する素材となる。映画では、観客が「字幕を読む」ことを封じることで、身体の動きへの注視に加え、聴こえてくるさまざまな歌や音そのものが際立っていた。アカペラ歌唱、その力強さやハーモニックな調和、手拍子や足踏みで集団的に刻むリズム……。さらに木琴の即興演奏が加わる。ここでは常に絶えず声と音が流れ、多声的な場を醸成している。その意味で、これはダンス映画であると同時に、音楽映画と言えるだろう。
字幕がないことで、(日本の観客にとって)もうひとつ際立つ部分が、通訳を兼ねた日本人ダンサーと振付家とのやり取りだ。3地域それぞれのグループ毎に、動きや声を通して身体の共同体的質を探っていくのだが、日本の子守唄やわらべ唄を歌いながら踊ってみせたダンサーたちに対して、ショピノは「私にはそれは何のバイブレーションも起こさなかった」と厳しい判断を下す。共同体的身体や「起源」の捏造や再生産は、とりわけそれが「国家」という仮構されたシステムと結びつくとき、同化と排除の論理の強化につながる危険性を大いに孕んでいる。あるいは、グローバリゼーションと消費資本主義が覆っていくなか、多文化主義への回収や観光資源化されていくだろう。しかし、口承文化が生活のなかにまだ残っているカナックやマオリの出演者たちとは異なり、われわれの身体にはそうした共同体的質がどの程度まで宿っているのだろうか。筆者のインタビューにおいて、ショピノは「2年前の大阪でのクリエーションは互いの差異を知る段階として必要だった」と語っていたが、ここでの「差異」とは所作やリズム感、体格の違いといった表面的なもの以前に、歌や踊りとして身体化された共同体のルーツの有無という、より根源的な差異ではなかったか。

2015/09/22(火)(高嶋慈)

パク・ジフン「Condition Impossible」

会期:2015/09/12~2015/10/03

CAS[大阪府]

韓国ソウル在住の現代美術作家、パク・ジフンの個展。パクの作品は、キネティック・アートの系譜に属するが、明快で簡潔な構造と運動の要素には、社会構造や人間存在についての象徴性を読み取ることができ、テクノロジーについての考察というよりも哲学的な様相を帯びているのが特徴だ。
出品作《心の分割器》は、平行に設置された4本の長い金属棒が、中央で回転する短い棒に接触すると押されて動き出し、その動きが隣り合った金属棒に当たると、次々と連鎖反応のように動きを誘発させていく作品。4本の棒は、互いに独立したパーツでありつつも、連鎖的に反応し、平行線→W字型→先端の一点集中というパターンを反復し、同調と反発を繰り返しながらも、全体としてひとつの機構のなかに組み込まれている。
また、《心の計測器》は、4本の水平器を四角いフレーム型に組み合わせ、四隅にロウソクを取り付け、シャンデリアのように天井から吊り下げた作品。天井近くに仕込まれたモーターの動きによって絶えず揺らされることで、水平器は平衡を求めつつも、成就されることはない。両作品ともに、明快な構造を持ちながらも揺れや運動性を与えることで、安定や平衡を求める心と、規定するフレームの強固さや束縛感からの解放を求め反発する心との両方を感じさせ、金属的で幾何学的な外見を持ちながらも、人間存在の両義性を擬人化した「計測装置」となっていた。

2015/09/15(火)(高嶋慈)