artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
吉田芙希子「メレンゲの部屋」
会期:2015/06/30~2015/07/05
KUNST ARZT[京都府]
整った顔立ちに物憂げな表情。長い睫毛、風になびくサラサラの髪、滑らかな肌。西欧風の植物装飾モチーフが周囲を美しく縁どる。吉田芙希子は、「理想化された美少年・美青年像」を、巨大化したカメオのようなレリーフで表現している作家である。表面の質感は磁器のように見えるが、発砲スチロールを芯材にして石粉粘土で成形し、表面を塗装して仕上げている。
吉田の作品を考える上でのポイントは、以下の4つの構成要素である:(1)美少年・美青年×(2)レリーフ×(3)装飾×(4)窓という構造。
まず、「理想化された美少年・美青年像」について。ただしここでの「理想化」とは、女性の視線からなされたものであることに留意したい。西洋美術では、「理想化された女性像」は(制作/消費主体である男性の視線によって)無数に生み出されてきたのに対して、「理想化された男性像」は少なく、ダヴィデ像のように健康的な若い男性の「肉体美」の賛美が主流である。しかし吉田は、そうした引き締まった筋肉や均整のとれた体躯を表現する全身像ではなく、あくまで顔貌へのこだわりを見せる。女性の視線によって理想化された男性像─その視覚イメージが最も原初的な形で結晶化するのが、少女漫画の世界である。少女漫画においては、整った容姿に加え、汗や体臭、体毛といった不快な要素を一切除去された「美少年・美青年」が無数に生み出され、読者の欲望に忠実な世界を提供し続けてきた。吉田が具現化するのは、そうした実在しないファンタジーの中の理想の男性像に他ならない。
その具現化の際にポイントとなるのが、「レリーフ」や「カメオ」といった表現形式の半立体性と装飾性である。レリーフやカメオ状に成形することで、架空の二次元の世界から、現実の三次元の世界へと、物質感を伴って半ば立体的にせり出してくるのだ。同時に、顔立ちの彫りの深さを強調する角度を保ったまま、睫毛や髪の毛などの繊細な細部の立体的な表現が可能になる。また、カメオは工芸や装飾品、レリーフは建築に附属する装飾であるが、さらに植物や花の装飾モチーフが美青年たちを取り囲む。つまり吉田の作品は、少女漫画的なファンタジー、工芸、装飾といった、「美術」の外部へと排除されてきた要素が組み合わさって成立している。
さらに、ここでの「装飾」はもう一つの機能を有している。植物や花の装飾モチーフは、美青年たちの周囲を美しく縁取りつつ、「窓」のように外界から切り取るフレーミングの機能を合わせ持つ。それは、彼らと現実世界の間に切断線を引き、理想の世界へと隔離し、「一方的に眺められる眼差しの対象」として閉じ込める作用を持つ。イメージが憧れの視線に供される場を開きつつ、手を伸ばしても届かない境界線を介在させること。この理想化の作業は、サイズの巨大化によってさらに高められる。 現実感を超えるサイズによって、理想の世界の非現実性が増幅され、神像や仏像のような「神聖さ」「崇高さ」のオーラを放つようになるのだ。
磁器のように白く滑らかな肌でたたずむ彼らはしかし、あるアンビヴァレントな思いを引き起こす。とりわけ、磁器の肌理が女性の肌の美しさを表わす比喩となることを思い起こすならば、彼らは「眼差しの主体性を回復した女性としての表現」であると同時に、なお回帰する女性美の規範性の強固さを露呈させてもいる。憧れの表出や欲望の吐露を原動力にしつつ、「美術」の外部・周縁化された複数の要素を組み合わせ、そうした視線の非対称性やねじれた構造を浮かび上がらせる点に、吉田作品の批評性を見出すことができるだろう。
2015/07/05(日)(高嶋慈)
知らない都市──INSIDE OUT
会期:2015/07/04~2015/08/02
京都精華大学ギャラリーフロール[京都府]
「裏返しに、くまなく」を意味する副詞「inside out」をキーワードに、伊藤存、contact Gonzo、志賀理江子、dot architects、中村裕太の作品を紹介し、美術、生活工芸、建築、身体表現など、様々な領域から「都市」について再考するグループ展。
建築設計ユニット・dot architectsと中村裕太はそれぞれ、地形分析や建築、工芸という観点から、京都という都市の新たな姿を浮かび上がらせていて興味深い。dot architectsの《京都島》では、比叡山や鞍馬山などに囲まれた京都盆地が、地下に琵琶湖の約8割の水を蓄えた水盆構造になっていることが、実際に水が循環する模型によって提示される。京都の市街地は、絶えず循環する水に浮かぶ小さな島のような存在であることが立体的に可視化されている。
また、中村裕太は、京都市街地の各所に残る、タイル貼りの土台を持つ地蔵のホコラ(通称「タイルホコラ」)のフィールドワークを行なっている。写真とテクストによる紹介に加え、タイルの補修跡がモザイク状になった造形的な面白さやホコラの構造自体の建築的多様性に注目し、本立てやカレンダー、植木棚といった別の用途を兼ね備えたホコラ型オブジェを制作している。中村の試みは、生活環境と結びついた信仰の場が現代まで残存していること、明治期以降に日本に導入された「タイル」という建築資材の歴史や工芸史、補修を加えながら受け継いできた地域住民の工夫や知恵、といった様々な観点と接続しながら、地域の文化資源として「タイルホコラ」の掘り起こしを進めるものである。
一方、contact Gonzoと志賀理江子は、身体表現/イメージの創造を通して、公共空間への介入/想像の中の都市への接近を試みる。contact Gonzoは、雑踏の行き交う大阪の梅田駅で、接触のスピードや強度を殴り合いのように増幅させていく即興的なパフォーマンスを展開。記録映像を見ると、立ち止まって怪訝そうに見る人、巻き込まれまいと避ける人、無関心に通り過ぎる人など周囲の人混みの反応は様々だ。見るべき対象であることが自明のものとして行なわれる舞台空間での「上演」とは異なり、取り巻く人々の視線は拡散的で、contact Gonzoの生み出す動きと周囲で流れ続ける人混みの動きは微妙な影響関係のうちに揺らぎ続ける。
また、志賀理江子は、当時住んでいたロンドンで、行ったことのない都市「ジャカルタ」について考えた行為の痕跡を、イメージとして昇華させた写真インスタレーションを展開。暗闇の中でインドネシア料理を食べた昼食会、ムスリムのコミュニティの集会への参加、インドネシア料理店で働く友人の女の子など、様々な人々との関係性の物語を紡ぎながら展開される写真作品は、天井から血管のように垂れ下がった照明のコードや赤いプロジェクターの光といった呪術的な仕掛けとあいまって、「まだ見ぬ都市」のイメージの中を胎内巡りのように旅する空間をつくり上げていた。赤いカーテンに覆われて顔の見えない人物に抱きかかえられた少女、暗闇の中に幾重にも重なり合った手、散乱した倉庫の中に野生動物のように潜む半裸の人物たち─それらは、想像の中に出現した亡霊的存在の可視化であるとともに、写真自体が、今ここにある肉体が存在する世界からイメージとして切り離された「亡霊」を生み出す装置であることを、写真の根源的な恐怖とともに告げている。
2015/07/04(土)(高嶋慈)
大石茉莉香「Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0Q0…」
会期:2015/06/23~2015/06/28
KUNST ARZT[京都府]
大石茉莉香はこれまで、崩壊する世界貿易センタービルや市街地を飲み込む津波など、メディアに大量に流通した報道写真を巨大に引き延ばし、解像度の粗い画像の上に銀色のペンキでペインティングする作品を発表してきた。本個展のタイトルは、画像の構成単位であるセルやドットを、Questionを意味する「Q」の形へと変換する行為を意味すると考えられる。
出品作に用いられているのは、東日本大震災直後に「ひび割れた日の丸」のイメージを表紙に掲載した米誌「ブルームバーグ・ビジネスウィーク」の画像と、それに対する在ニューヨーク総領事館の抗議を伝える新聞記事。外部からの客観的な視線と、共同体内部での象徴的存在。同じ記号をめぐる反対の視点を効果的に対置し、その視差を浮かび上がらせる。だが、メタリックな銀色のペンキの滴りで覆われたそれらは、下に隠されたものを「見たい」欲望をかき立てつつ、光の反射によって見ることは阻まれてしまう。
また、壊れたTVに、「日の丸」の映像、地上波放送、電源ONの状態の画面が映し出されるインスタレーションも展示された。液晶が死んだ部分が黒くなり、ひび割れのようなラインが走り、色とりどりのバーに浸食されていく画面。地上波放送を流しているはずの画面は、サイケデリックな映像の波と化す。瀕死状態の画面は、メディアの末期症状への比喩となる。メディアの透明性への疑いを、美しくすらある壊れ方で示すこと。TV番組を流す画面を磁石で変調させた、ナム・ジュン・パイクのヴィデオ・アート作品《プリペアドTV》を想起させる。
「社会的共有」を目指して配信され、「情報」として浸透したイメージの表面に裂け目を入れ、印刷されたドットやセルの集合、電気信号で構成されていることを露呈すること。物質性へと還元しつつ、そこに美的な相を見出すこと。大石の作品は、描画という身体的行為/機械の故障による偶然性の介入という2つの方法を用いて、メディアの透明性に対する批評の強度を獲得していた。
2015/06/28(日)(高嶋慈)
「視点の先、視線の場所」展
会期:2015/06/21~2015/07/05
実在する場所に赴いてフィールドワークやリサーチを行ない、場所の認識や眼差しの向けられ方について絵画/写真というそれぞれの媒体において考察している、来田広大と吉本和樹。二人展という枠組みによって、両者の問題意識の共通点と差異がクリアに浮かび上がった好企画。
来田の絵画が対象とするのは、富士山と会津磐梯山という「山」。実在物としても私たちの認識においても「山」という具体的で堅固な存在は、視点の空間的移動によって、複数の見え方を獲得する(Google Earthの衛星写真を元に描かれた真上からの俯瞰図、それぞれ反対側から描いた同じ山並みを表/裏に配した絵画、360度のパノラマを分割した画面)。だがそれらは、複数の視点の並置によって同一性を引き裂かれつつ、身体性という契機によって再び実在感をともなって迫ってくる。ストロークの痕跡を露わに残し、画家の身体性を強く感じさせるチョークを用いて描かれ、また添えられた写真やスケッチが「現地に行った」ことの証左となるからだ。
一方、吉本は、「ヒロシマ」として半ば記号化され、歴史的意味の重圧を負わされた広島という場所に向けられる視線を、写真を用いて批評的に問い直す。吉本は、「平和記念公園」という特殊な場所を、植物、建築物、人間という3つの要素に分解し、図鑑のように即物的に撮影し、採取する。モニュメントや彫像と異なり、ほとんど視線を向けられることのない公園内の樹木や植え込みを丁寧に撮影してみること。原爆死没者慰霊碑を、アーチの奥に原爆ドームを臨むおなじみのアングルではなく、真横から即物的に撮ってみること。特に秀逸なのが、「原爆ドームを撮影する人」の後ろ姿を撮影したシリーズである。思い思いにカメラを向ける人々の背中と裏腹に、彼らの視線の先にある「原爆ドーム」自体は写されず、フレームの外に放逐されている。吉本は、眼差す行為それ自体にメタ的に言及し、「(過剰なまでの)眼差しを向けられる場」であることを示しつつ、眼差しの対象を再びイメージとして奪取することを拒絶する。それは、表象として切り取り固定化しようとする政治性への抗いであるとともに、被爆から70年が経過した現在、被爆という歴史的事実の「遠さ」「見えにくさ」を指し示す。ちょうど、補修工事のために鉄骨の骨組みで覆われ、「見えにくい」原爆ドームを写した写真が暗示するように。
2015/06/28(日)(高嶋慈)
稲垣智子「声 -Voice-」
会期:2015/06/23~2015/07/11
「ライトに照らされた側が鏡面になり、暗い側の面はガラスのように向こう側が透けて見える」というマジックミラーの二重性をうまく利用したインスタレーション。映像インスタレーション作家の稲垣智子はこれまでも、こうしたマジックミラーでできた箱の中にリアルとフェイクの境界が曖昧なオブジェを詰めた作品を発表してきた。近年の大作《Forcing House》(2013年)では、マジックミラー貼りの温室の中に本物とフェイクの植物が入り混じり、内部の壁面いっぱいに投影された映像の女性が窮屈そうに身じろぎする。現実とも非現実ともつかない光景は、万華鏡のような鏡の反映によって自己増殖を繰り返し、閉じた箱の中に永遠に広がる虚像の世界を生み出していく。
本個展「声 -Voice-」の出品作は、こうした過去作の系譜に連なるものである。マジックミラーでできたケースの中に納められているのは、嫁入り道具や婚礼用の贈答品として用いられてきた、豪華な振袖姿の日本人形や花嫁衣裳の西洋人形たち。足元には色とりどりの造花が敷き詰められ、ライトが華やかに照らし出す。ケースの外側はガラス面になるため、周りの人形たちの姿が多重に映り込んで幻想的な雰囲気を醸し出す。一方、内部をのぞき込むと、鏡の空間に閉じ込められた人形の姿が延々と反復される無限の回路が広がっていく。
鑑賞用の高価な人形たちは、美しく華やかに飾られているようにも、出口のない空間に閉じ込められているようにも見える。彼女たちは自己の分身と見つめ合い、幻影に取り囲まれ、外部のないナルシシスティックな回路に閉じ込められている。「人形」という存在は、男性の眼差しによって形作られた理想像を示唆するとともに、「きれいな花嫁さん」として理想化された自己像の内在化でもあり、出口のない回路の中で、自分自身を見失うほどに分裂し、増殖していくのだ。
稲垣は、そうした美しくも残酷なまでに脅迫的な回路を作り上げつつ、人形たちを花とともに箱に詰める。その手つきは、棺桶や柩を連想させ、「死」を強く感じさせる。ここで、本展で用いられたような婚礼の贈答用の人形は、江戸時代、武家の子女が嫁ぐ際に、災厄を身代わりさせるための人形を嫁入り道具として持たせたという風習に由来することに留意したい。だが、古風な日本人形や少女漫画風の目鼻立ちの西洋人形がどことなく時代を感じさせるように、そうした風習も、結婚率の低下や価値観の変化によって消えていきつつある。稲垣は、人形という似姿を借りて、時代とともに失われ、変化していく女性たちの声に耳を傾けながら、愛おしむように丁寧に箱に納めつつ、そっと葬送を告げるのだ。
2015/06/27(土)(高嶋慈)