artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
烏丸由美「フェーシング・ヒストリーズ」
会期:2015/08/06~2015/08/23
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
イタリア在住 27 年の画家、烏丸由美の個展。太平洋戦争に関する様々な写真資料をソースに絵画化した、100 点以上の小品のタブローが空間にリズミカルに配置される。
戦前期に撮影された家族の記念写真、白馬にまたがる昭和天皇の肖像写真、特攻隊員の集合写真や遺書、原爆のキノコ雲や被爆直後の市街地など原爆に関する米軍の記録写真、原爆投下時刻で止まった時計、原爆の悲惨さを訴える原民喜や峠三吉の文学作品の一節…。いずれも小サイズの画面に規格統一され、エフェクトをかけたような線描でなぞり直されたアウトラインと、カラフルで美しい色彩で彩られることで、ある種の異化効果がもたらされ、「歴史」との距離感が増幅される。
だが違和感を覚えたのは、そうした画面の「美的な」処理ではない。「歴史に向き合う」と言った時、ここでの「歴史」には加害の側面がすっぽり抜け落ちているのであり、またプライベートな家族写真/公的な記録、日本/アメリカの視点の差異、それぞれの政治的主張の差異といった、本来、異なる媒体や目的において記録・制作されたものが等価なサイズへと規格統一され、平坦に均されていった先に、「被害の歴史」「祖国の悲劇」の物語へと集約され再生産されていくことに対して疑問を覚えた。
2015/08/22(土)(高嶋慈)
マンガと戦争展 6つの視点と3人の原画から
会期:2015/06/06~2015/09/06
京都国際マンガミュージアム[京都府]
第二次世界大戦をテーマとしたマンガに焦点を当て、「原爆」「特攻」「満州」「沖縄」「戦中派の声」「マンガの役割」という6つのテーマを設定、それぞれ4つの象限にベクトル分けして計24作品を紹介する企画展。紹介作品は、「原爆」のテーマでは『はだしのゲン』(中沢啓治)、『夕凪の街』(こうの史代)、「特攻」では『ゼロの白鷹』(本宮ひろ志)、『積乱雲』(里中満智子)、「満洲」では『フイチン再見!』(村上もとか)、『のらくろ探検隊』(田河水泡)、「沖縄」では『ひめゆりたちの沖縄戦』(ほし☆さぶろう)、『cocoon』(今日マチ子)、「戦中派の声」では『総員玉砕せよ!』(水木しげる)、『紙の砦』(手塚治虫)など。また「マンガの役割」では、娯楽作品に加え、学習マンガや『戦争論』(小林よしのり)など政治的主張を担った作品も紹介。戦争の描写に関するページを拡大して複製パネルに展示するとともに、メインの紹介作品以外の作品も掲載誌や単行本が資料として展示された。
同じテーマでも、「フィクション/ノンフィクション」「戦争体験世代による/戦後世代による」「戦場(男の子文化)/銃後(女の子文化)」「教育/娯楽」など複数のベクトルに分かれることで、マンガにおける戦争像の多面性を提示している。このベクトル化は、ともすれば壁面に頼って平面的になりがちな「マンガの展示」空間においてもうまく機能していた。上述の対立する二項がxとyの二軸で示され、4つの象限に分かれた座標空間を形成するのに合わせて、テーマ毎に分かれた空間は十字形に仕切られ、足元に描かれた矢印が各ベクトルの方向性へと誘導する(下図参照)。例えば、「特攻」のテーマでは、「戦場(男の子文化)/銃後(女の子文化)」と「戦争のためのドラマ/ドラマのための戦争」という二軸が設定され、特攻兵器・桜花と搭乗員たちの戦闘をメカニカルな描写とともに描いた『音速雷撃隊』(松本零士)は「戦場(男の子文化)×戦争のためのドラマ」の座標に位置づけられ、一方、特攻隊員となった恋人を三者三様の想いで見送る女性たちの恋愛を描いた『積乱雲』(里中満智子)は「銃後(女の子文化)」×ドラマのための戦争」の座標に位置づけられるなど、同じテーマでも作品どうしの差異や対比が興味深い。
立体的な展示空間の工夫とともに、内容面でも意外な発見があった。例えば、少女マンガにおける「難病もの」のひとつとして「原爆症」が描かれたことや、「原爆マンガ」の比重は広島が多く、長崎を扱ったものが少ないこと。また、文学や絵画に比べ、マンガにおける「シベリア抑留」の主題化は遅く、2008年に同人誌として発表された『凍りの掌』(おざわゆき)が初めてだったことなどだ。
いうまでもなくマンガは、ストーリーと画力で物語に感情移入させる強い力をもち、教科書で学ぶ以外の「戦争」について、世代間を超えて記憶を受け継がせる役割を担い得る。その際、マンガは、記憶の継承や戦争の非人道性の描写といった「正しい」役割だけでなく、メカニックへの偏愛、悲恋のドラマ、家族愛、自己犠牲、ナショナルな「物語」の形成、といった読者の興味や欲望を惹きつける要素を巧妙に含みながら、「戦争」イメージの可視化に寄与してきた。また、マンガの生産は商業ベースである以上、読者の興味や年齢層から遠いものは、題材化されにくい傾向もある(例えば、上述した「シベリア抑留」の主題化の少なさは、ドラマ性や画的な派手さに欠けると思われてきたことも一因ではないか)。本展は、「戦争」という切り口から、メディアとしてのマンガの受容が果たす社会的役割について考える機会となった。
また折しも、館内入り口付近では、実写化映画の公開に合わせて、『進撃の巨人』のプロモーションが派手に行われていた。ぜひ本展の続編として、「マンガと戦争展(イメージ・ファンタジー編)」の企画を期待したい。マンガのもつ親しみやすさやビジュアルの魅力は、「戦争を語ること」に対するタブーや忌避感を武装解除させる一面をもつ。だが同時に、物語のビジュアル化を通して感情に訴える力を本領とするマンガが、「戦争」という強い喚起力を持つ主題と結び付く時、メロドラマ、闘争本能、(異性・兵器の)フェティッシュ化といった様々な欲望を引き寄せる力を併せもつ。その延長線上に、『艦隊これくしょん』や『ヘタリア Axis Powers』など、兵器や軍国主義国家の「萌えキャラ」としての擬人化の流行現象も考えられるのではないか。つまり、ジェンダー的枠組みの強化によって、受容者層の欲望に巧妙に訴えかけながら(ミリタリー×美少女キャラ/美少年キャラ)、エクスキューズとしての無害化を装った「萌えキャラ」として愛でる嗜好が孕む危うさである。
2015/08/22(土)(高嶋慈)
Face Forward
会期:2015/08/22~2015/08/30
KUNST ARZT[京都府]
日本とオーストリアで活動する11作家による、自身の身体を題材に用いた作品で構成されたグループ展。「身体」はまずもって個を構成する物質的基盤であり、触覚を通して他人を含めた外界を感知する場であり、痛みの感覚は逆説的な生の実感と、時には自身の身体が異物化される感覚ももたらす。また、身体の加工や「第二の皮膚」である衣服をまとうことによって、アイデンティティの表出や書き換えが行なわれ、差異が読まれる場としての身体が現われる。ジェンダー、人種や民族、社会的立場などの差異を表わすとともに、様々な社会的規制や抑圧を受ける場でもある身体。そうした身体への抵抗は、ボディ・アートやフェミニズム・アートの諸実践が示すように、身体それ自体をポリティカルな闘争の場として用いて行なわれてきた。本展出品作においても、身体の題材化が喚起するそうした様々なトピックが提出されている。
例えば、松根充和は、剃った眉毛を髭として貼り付けたセルフポートレートと、その顔写真で取得したパスポートを作品として発表し、身体(の構成要素)が自分の所有物であることの自明性と社会的制度との関係の曖昧さについて問う。岡本光博は、人種の坩堝と言われるニューヨークで購入した絆創膏のパッケージと、その絆創膏を自分の腕に貼った写真を並べた作品を発表。白人用、ヒスパニック用、黒人用など様々な「皮膚の色」に合わせ「人種的に配慮した」商品と、そこから排除された東洋人としての自身の身体を浮かび上がらせる。
また、作家自身の身体を用いてジェンダーの問題に言及するのがヤコブ・レーナ・クネーべルとアンナ・イェルモラエヴァ。クネーべルは、自身の裸体にピカソの女性像を描いたセルフ・ポートレートを発表し、イェルモラエヴァは裸体の上にミニカーを走らせ、丘を登ったり下りたりするようなミニカーの様子が愛撫のようにも見える映像作品を発表。両者はともに、男性中心の眼差しによって形成されてきたアートや文化における、女性身体の物象化に対して批評的に介入する。
さらに、身体の露出や排泄など、身体をめぐるタブーや社会的規範に対して、ユーモアをもって自由さや抵抗を表明するのが、高嶺格と池内美絵。高嶺は、肛門を口に見立て、臀部の筋肉を動かすことで、肛門=口がポップソングを歌っているように見えるコミカルな映像を制作。また池内は、ミニチュア人形を飲み込み、排泄後、バラバラになったパーツを組み立てた人形を美しい宝石箱のような箱に収めて展示することで、内と外、美と醜、身体表面を飾って他人の眼を惹きつけるものと他人の眼から排除されるもの、といった様々な境界を撹乱する。
このように本展では、身体の直接的な提示やパフォーマンスの記録が中心であったが、その中で、「不在」によって身体の存在感をより強く感じさせたのが、井上結理の写真作品《ヌケガラ》である。衣服、靴、アクセサリー、下着に至るまで、その日に身に付けていたもの全てを脱いで床に置いて撮影し、床の上に展示することで、脱いだ時の状態を再提示する作品であり、作家によれば撮影は日課のように10年以上続けているという。衣服や靴を脱ぐ行為自体は、誰もが毎日行っている日常的な行為であり、脱ぎ捨てられた衣服や靴が原寸大でプリントされ床に置かれることで、観客は、脱いだものを見下ろす視点を作家と共有する。そのとき、身体を包む衣服の形、とりわけ脱いだ後にできた皺や立体感は、かつて身体がそこにあった痕跡を示すがゆえに、存在の不在感を逆説的に強調する。そこに、「下着」までが写されることで、身に付けていたのが若い女性であることを示すとともに、下着が被写体として成立する背後にある欲望のコードの存在をほのめかす。この時、井上の写真作品が「その上を踏んで歩いてかまわない」という展示条件は、日常的な眼差しの共有を超えて批評性を発動させる。偶然にも、ある男性の観客の靴が写真の上を踏んでいる瞬間を目撃したとき、(不在の女性の)身体に外部から加えられる暴力がはからずも具現化して現われたように見え、戦慄を覚えた。
2015/08/22(土)(高嶋慈)
光路
会期:2015/07/25~2015/08/08
SAI GALLERY[大阪府]
光を集め、屈折させることで像をつくり出すレンズ。そのレンズを光が通過した際にとる経路を意味する物理学用語「光路」をタイトルに、今村遼佑、大洲大作、前谷康太郎の写真・映像作品を紹介するグループ展。3名とも、「窓からの光」を捉えた自己言及的な映像作品という点で共通しつつ、時間、フレーミング、像=光という映像を成り立たせる要素に焦点を当てている。
大洲大作の映像インスタレーション《光のシークエンス・métro》は、地下鉄の車窓から捉えた光景を、実際に地下鉄車両で使用されていた車窓にプロジェクションした作品。暗闇に灯る電灯が、流れ星のように闇を引き裂く幾本もの光の筋となって画面をゆっくりと横切っていく。ここでは、引き伸ばされた時間とともに、可視的な光の軌跡として定着されている。
一方、今村遼佑の《窓》は、その名の通り、カーテンの掛かった窓越しに室内に差し込む朝日を固定カメラで捉えた映像作品。ここでは、「窓」は画面内に入れ子状にもう一つの矩形のフレーミングを形づくりつつも、窓外の風景=切り取られたイメージとして差し出すのではない。窓そのものを被写体とすることで、フレーミングという「窓」の機能を際立たせるとともに、矩形に切り取られたイメージ自体は、風に揺れるカーテンのそよぎや差し込む光の微妙な揺らぎによって間接的に伝えられる。見過ごしてしまいそうなほどの小画面、さらに床面近くの低位置に投影されることで、日常的でささやかな光景が異質なものへと変貌していく。
さらに、「窓からの光」を、遮蔽物など意図的な制限や操作を介して撮影することで、矩形のフレーミングや時間の推移に加え、受像=光の知覚へと還元するのが、前谷康太郎である。前谷はこれまでも、採取した自然光を抽出し、光の色・強弱の変化や拡張/収縮といった運動性へと還元することで、我々の眼が光を受容することで像を知覚・認識していることを改めて意識させる映像作品を制作してきた。出品作《womb》は、自作のカメラ・オブスクラのレンズに赤い画用紙を取り付け、大阪環状線の列車の車窓から撮影した映像作品。ガタンゴトンという電車の走行音が、かろうじて日常や具体性とのつながりを保っているが、光を遮る建物や電線の影が横切る度に、スクリーンを満たす赤い光がまばたきや心臓の鼓動のような明滅・強弱を繰り返し、窓の外を流れる日常的な車窓の風景が純化された光/影へと還元されることで、認識の母胎(womb)としての「光の受容」を意識させる。赤い色ともあいまって、子宮の中で「光」だけを捉えている記憶のような、皮膚感覚を活性化させる映像であった。
2015/08/08(土)(高嶋慈)
Art Court Frontier 2015 #13
会期:2015/08/01~2015/09/12
ARTCOURT Gallery[大阪府]
Art Court Frontierは、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったグループ展。これまでは毎年約10組が参加していたが、今年は4組に絞って各作家の展示スペースの拡大を図り、選抜グループ展というよりも4つの個展が並置されたような充実感があった。
contact Gonzoは、自作の巨大なゴムパチンコで、最大時速100kmで射出されるフルーツを肉体で受け止めるパフォーマンスの瞬間を撮影。広告のように壁面を覆う、縦横2~3mほどの巨大なサイズに引き延ばして展示した。裸の上半身に激突して破裂するフルーツ、飛び散る飛沫。破壊的な力を肉体で受け止め、痛みに耐える彼らの表情は、殉教者のように崇高にも見える一方で、威圧感を与える記念碑的なサイズ感とも相まって、「強い肉体」の誇示やマッチョイズムの称揚にも見えてしまう。
谷口嘉は、可変的なガラスという素材に最小限の手を加えただけの操作の反復により、外光の射し込む廊下の壁面を活かした、美しいインスタレーションを展開。四角く切ったガラスの小片を微妙な角度の変化をつけて壁に取り付けることで、見る角度や距離により、光の反射と陰影が刻々と変化し、有機的な表情を見せる。
東畠孝子は、「セーターに付いたオナモミ」という関係を「角材から垂れ下がる衣服」へと変換したり、「家」の外形をシンプルに表わす形を壁紙でなぞるなど、手触り感や記憶を喚起するような既製品を用い、主と従、内と外といった転換の操作を加えることで、「時間」や「記憶」という本来目に見えない存在の可視化を試みる。
堀川すなおは、言語とドローイングという異なるメディアによる二段階の伝達に加えて、他者の介入を経ることで、同じ対象物に対する「認識」の差異や多様性を視覚的に提示する。出品作は、「バナナ」の形を観察した文章をつくり、それを読んで緻密に描いたドローイング。作家自身による複数のバージョンに加え、ある1名の観察者の記録を、「25人の色々な人種の人が読んで形にする」作品では、同じバナナという対象が、謎の植物組織の図解、原始的な生物の体組織、精密機械の部品や設計図のようにも見え、日常的なコミュニケーションにおいては捨象されている「認識のズレ」の幅を押し広げて、「客観的な認識」と「想像力」との曖昧な領域を出現させていた。
2015/08/08(土)(高嶋慈)