artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
三田村陽「hiroshima element」
会期:2015/07/21~2015/08/08
写真集『hiroshima element』の発刊に合わせて開催された個展。写真家の三田村陽は、約10年間にわたり、月1回のペースで広島に通いながら撮影を続けてきた。本展では、その中から57点が壁を覆うようにグリッド状に展示された。いずれも、広島という都市の日常風景や人々をカラーで撮ったスナップ写真。モノクロ写真にともすればつきまとう、悲劇性の強調や重厚さは、ない。また、写真家の眼差しは、被爆の痕跡を物語るフォトジェニックなモニュメントへと寄るのではなく、求心的な物語を紡ぐ代わりに、風景の中にあてどなく身を置くような散漫的ですらある視線、観光客のそれとは異質な視線を伴った歩行とともに、この地方都市の姿を切り取っていく。
平和記念公園やその周辺で撮られたとわかる写真もあれば、平凡で匿名的な一地方都市の街並みのワンシーンもある。原爆ドームはフレームの中心に収まることはなく、商業ビルの間や観光バスが連なる橋の彼方に小さく見えている。あるいは、平和記念式典のための椅子並べの設営や、公園内の清掃など裏方の作業をする人々。トラックの背面に描かれた非核を訴える原爆ドームの絵や原爆展のポスター。何気ない日常風景の中に、目を凝らすと異物のように差し挟まれた存在に気づくとき、場所の特異性へとその都度連れ戻される。
三田村の写真は、特定の場所や時系列に沿って編集されているわけではないが、寂れた商店街や再開発など、変化していく都市のダイナミズムの記録ともなっている。また、もうひとつの特徴として、携帯の写メや記念撮影など「撮影する人々」のスナップが点在することが挙げられる。「眼差しを向ける行為」を入れ子状に写すことで、眼差しが過剰に供される場であることを告げているのだ。
都市の住人/外部からの訪問者、日常/非日常(とりわけ8月6日という局所的な時空間への集中)の狭間に身を置いて、広島という都市を撮り続けること。その行為は、再開発など街の外面的な変化と、自らの眼差しと広島との距離という内面的変化とを同時に眼差し、記録する行為でもある。
時間や季節ごとに異なる表情を見せる美しい川辺。川は、広島という都市の指標のひとつであるとともに、流れゆく時間のメタファーとしても機能する。群衆の集う特定の一日を除けば、そこに流れている穏やかな日常の時間。しかし、三田村の写真と向かい合うときに思い至るのは、目を凝らせば遠景に原爆ドームの姿が視認されるということだけではない。アイコン的存在であるドーム以外にも、雑多な街並みや人混みの中には、フォーカスされていないだけで、被爆した建築物や樹木などの過去の痕跡が、実は画面内に写り込んでいるのかもしれない、という思いへと至るのだ。写真は、刻々と変化する「広島の現在」を記録するが、そこには記憶の磁場が潜在している。それらは不可視なのではなく、説明やフォーカスがなければ認識できない私たちの弱い視力の、解像度を上げていくことでしか接近できないのだ。それは、「可視性の政治」への抵抗の試みでもある。
三田村の写真は、写真という可視化する(ことが可能だと思われている)装置によって形成されてきた場所のアイデンティティを、いったん振り払う地点からもう一度風景を眺めること、そして獲得された新たなイメージの多層性の中から見えてくるものを、粘り強く解像度を上げて凝視することの可能性と困難を自覚的に引き受けながら、写真を見る者にもそうした態度へと誘っている。
2015/08/08(土)(高嶋慈)
プレビュー:PACIFIKMELTINGPOT
会期:2015/09/22~2015/09/23
Art Theater dB KOBE[兵庫県]
フランス人振付家、レジーヌ・ショピノのカンパニーをハブにして、太平洋諸地域のアーティストや研究者が展開する《PACIFIKMELTINGPOT》。ショピノの基本的な関心は「口承文化」にあり、声を通した伝達が時間や空間性、身体性と切り離せないことを、コンテンポラリー・ダンスの本質に通じるものとして捉えている。ニューカレドニアやニュージーランドの先住民であるカナックやマオリなど、口承文化をまだ受け継いでいる人々とワークショップを行ない、太平洋地域の口承文化に関するリサーチを行なってきた。2013年には大阪のアートエリアB1で、「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka」ライブパフォーマンス&ディスカッションを開催し、日本、ニューカレドニア、ニュージーランドという3つの地域のアーティストが参加した。
私は一昨年、この大阪でのパフォーマンスを実見したが、基本的には、それぞれの文化圏ごとに3グループに分かれてのショーイングという形式だった。体格差や肌の色、バネや跳躍力など身体そのものの強度、アカペラの力強い歌唱や身体の動きと一体化した音楽のリズムなど、それぞれの文化圏ごとに提示された身体性の差異は分かりやすく、とても魅力的だったが、反面、こうしたプレゼンテーションの仕方は多文化主義的な予定調和に陥りがちでもある。「多様性や差異を認め合って尊重しよう」という確認作業に落ち着いてしまいかねないのだ。
「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka 2013」の完結編となる今回の上演では、大阪大学と城崎国際アートセンターにて、計約3週間の滞在制作が予定されている。滞在制作期間が1週間であった前回に比べると、充実したスケジュールだ。既にある「共同体」の内部に留まったまま、確認・抽出して並置するという提示方法から、身体的対話の継続とさらなる深化によって、より「メルティングポット」な状況が生まれるかに期待したい。
また、沖縄を拠点に活躍する映像作家・山城知佳子と映画監督・砂川敦志が、前回の「PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka 2013」のリサーチワークや上演の様子を撮影したドキュメンタリー映画の上映も予定されている。こちらはArt Theater dB KOBEの近くにある神戸映画資料館にて、同日程の午前中に上映されるので、合わせて鑑賞したい。
2015/07/31(金)(高嶋慈)
月が水面にゆれるとき
会期:2015/06/27~2015/08/02
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
木藤純子、曽谷朝絵、中村牧子、和田真由子の若手女性作家4名を紹介するグループ展。会場を実見しながら、「非実体性」というキーワードが立ち上がってくるのを感じた。
和田真由子は、木枠から垂れ下がったビニールシートやベニヤ板を組み合わせ、その上に鉛筆やアクリルで薄い描画を加えた作品を制作している。透明で薄いビニールシートは、描画が施される「支持体」でありつつも、木枠から垂れ下がったり重ね合わせられることで彫刻的・空間的なボリュームを獲得し、ヨットの帆や鳥の翼の形となる。支持体そのものが透明化し、物質性が希薄化する一方で、それを支えていた木枠やベニヤ板の存在が露わになり、モチーフの形象の一部のように成形され、彫刻へと近づく。このように和田の作品は、「描画されたイメージ/を支える物質的基盤としての支持体/を支える木枠(より基底部の枠組み)」の関係を分解し、露呈させ、空間的に再配置することで、「絵画」でも「彫刻」でもなく両方の要素が混在したハイブリッドな構築物を立ち上げる。そこでは、非実体的なイメージが物質性との往還の中で揺らぎや多層性を伴って立ち現われるのだ。和田の選ぶモチーフが、「ヨット」「鳥」「馬」といった運動性をもつものであることも、意図的な選択だろう。
曽谷朝絵は、バスタブや丸いたらいに満たされた水を、光を分解したプリズムを思わせる淡い虹色のグラデーションで描き出す。水面に生じたいくつもの波紋は、丸みを帯びたバスタブやたらいの形態と響き合い、揺らめくような光で充満した美しい画面を生み出す。曽谷のペインティングでは、光という実体のないものを描くために、プリズムを通して得られる可視的な光線という操作と、波紋や水面の反射といった現象的なモチーフがともに要請されている。
また、合わせて発表された映像インスタレーションでは、色とりどりの植物が絡み合いながら伸びていくアニメーションが、曲面鏡や半透明の布を用いて投影される。映像は鏡の反映によって床や天井にも映り込み、半透明の布を介して幾重にも重なり合うことで、旺盛な生命たちが繁茂する深い森や海底のサンゴ礁の中に分け入るような、幻想的な空間を作り上げていた。
中村牧子の陶磁器作品では、工芸における「装飾」の付随性それ自体が主題化される。用途や実用性が求められる工芸において、「装飾」は表面に付随する非本質的な要素と見なされがちである。しかし中村は、額縁や皿、ティーカップの表面に施された草花や蝶の装飾を過剰に増殖させ、表面に属しつつも半ば自律した存在として立体化させる。草花や蝶の装飾が三次元化されて空間へと飛び出していくのに対し、額縁や器はズレたり溶解したりと変形を被ることで、「本体・実体」と「付随的な装飾」の関係は転倒させられていく。
木藤純子はこれまでも、具体的な場に介入して、鑑賞者の知覚や認識を変容させるようなインスタレーションを発表してきた。出品作《ひるとよる》では、展示室の壁に、一見何も描かれていないように見える真っ白なキャンバスが等間隔で掛けられている。数分間の暗闇が訪れると、蓄光塗料で描かれていた波の光景が浮かび上がり、立ち並ぶ回廊の柱の黒い影の向こうに海を眺めているような感覚で満たされる。通常の明るい光の中では不可視であった潜在的なイメージが顕在化する劇的な瞬間と、空間の静謐さが同時に感じられ、忘れがたい体験となった。
2015/07/26(日)(高嶋慈)
吉田重信「2011312313」
会期:2015/07/11~2015/07/26
GALLERY TOMO CONTEMPORARY[京都府]
福島県いわき市在住の美術作家、吉田重信の個展。
真っ黒に塗られた表面に「20113111446」と刻印された矩形の平面。この数字は東日本大震災が起こった日時を表わし、内部の箱の中には、現在も帰宅困難地域である福島県双葉郡浪江町の販売所に、配達されずに放置されていた2011年3月12日と13日の新聞が鉛に覆われて封入されている。従って新聞の実物を見ることはできないが、紙面を巨大に引き延ばしてプリントした作品が傍らに提示されている。だが、画面が極端に暗いため、光の当たり方によっては真っ黒に見え、地震の規模の大きさや原発事故、住民の避難を伝える紙面をクリアに読み取ることはできない。
ここで、単色の絵画平面に記された日付と新聞の封入という手つきは、河原温の《Today》シリーズ(「日付絵画」)を想起させる。河原の《Today》では、描かれる内容が「制作した日にち」という最小限の情報に還元されるという意味で絵画は限りなく「死」に近づくが、「日付ならまだ描ける」という意味において死の一歩手前に踏み留まっている。それは作家の生存の痕跡でもあるが、日付の刻印という行為が延々と反復されることで、「生」は告げられてもそれ以上前進できず、絵画の「再生」は遅延し続け、夜明けは繰り延べされる。つまり《Today》シリーズでは、絵画は「死」「終末」を宣告されつつも、「現在」の反復においてかろうじて延命し続け、同時に作家の生存記録ともなっている。
一方、吉田の作品においては、日付が刻印された表面は内部の新聞を覆う容器という機能をまずもって有しており、葬り去る棺のような様相を呈している。それは、新聞を収めた箱が開けた状態で一緒に展示されることもある《Today》シリーズとは対照的に、鑑賞者の眼に触れることはない。吉田は、「配達されなかった新聞」=「見られなかった存在」を明るみに出して欠落を回復させようとするのではなく、不可視性をそのまま提示しようとする。その意味でむしろ、ルワンダ内戦でのジェノサイドの被害者に関連した写真を開示せず、黒い箱に収めて墓標のように提示するアルフレッド・ジャーの《Real Pictures》における態度に接近するだろう。ジャーの場合、写真の記録性、表象可能性への信仰、イメージによる収奪に対する不信と批判が作品の基盤をなしているが、吉田作品における棺のような「黒い箱」は、物理的・心理的・社会的レベルにまたがる多重的な意味を担っている。放射線を遮る鉛で実際に覆われた箱は、物理的には「保護する容器」であり、被災の当事者にとっては「思い出したくない辛い出来事」を象徴するものであるとともに、新聞の封印という操作は、報道メディアの減少や不在によって薄れていく社会的関心の比喩でもあるからだ。
だが、河原の《Today》の反復性とは異なり、唯一性・一回性を帯びた吉田の「20113111446」が、今後も果たして反復されることはないと言い切れるだろうか。
2015/07/26(日)(高嶋慈)
堂島リバービエンナーレ2015「Take Me To The River 同時代性の潮流」
会期:2015/07/25~2015/08/30
堂島リバーフォーラム[大阪府]
4回目を迎える国際現代美術展。大阪市街を流れる堂島川に面した会場で開催されるため、「リバー」という単語が冠され、出品作も「川」「水」「流れ」「海」をモチーフにしたものが多く目につく。そうした視覚的な分かりやすさの一方で、展覧会自体は社会政治的なテーマで構成され、作家数15名(組)と規模は大きくないものの、見応えある展示となっていた。
例えば、矢印型の筏で京都~大阪まで川下りを行なった《現代美術の流れ》(1969)で知られるプレイは、当時のドキュメンテーションの展示とともに、小屋型の筏を川に浮かべるパフォーマンスを新たに行なった。また、下道基行は、沖縄の海岸に流れ着いた様々な地域の漂着ビンを用いて、再生ガラスの器をつくるプロジェクトを提示。「移動」による様々な文化圏の混淆を再生ガラスの姿に仮託するとともに、沖縄という土地の複雑な歴史的・地政学的位置に言及する。また、貨物タンカーの事故現場を紙で模型風に再現したメラニー・ジャクソンの《不快な人々》は、国境間の移動、「移民」問題を扱う。さらに、無人のマクドナルドの店内が水浸しになっていく様子を徹底的にリアルにつくり上げたSuperflexの《水没したマクドナルド》や、ロゴ入りの紙袋を切り抜いて樹の形につくり変える照屋勇賢の《告知─森》は、消費社会批判や環境問題に言及する。
とりわけ、「アイデンティティの流動性」という深刻になりがちな問題を、軽快でポップな映像で示して興味深いのが、ヒト・スタヤルの映像インスタレーション《Liquidity Inc.》。「泳げ」と繰り返し呼びかけられる主人公の「ジェイコブ」は、アジア系の顔立ちの青年だが、結局、彼が何者なのか分からないままだ。ベトナム戦争孤児/総合格闘技のファイター/金融ビジネスマンという複数の顔を持つことは分かるが、個々についての深い掘り下げはなく、捉えどころの無さだけが残る。
リズミカルな映像編集とポップな音楽にのせて、繰り返し流れる「水のように流動的になれ」というメッセージ。それは、状況に柔軟に対応すべき格闘家の心得でもあり、市場価値の流動性、グローバル企業の拡大や戦略であるとともに、複数の文化間にまたがる生を生きるアイデンティティの流動性でもある。水や波のイメージの反復と共に流れるメッセージは、巨大な波形の構造物が客席として用意され、柔らかいクッションに寝そべりながら鑑賞するスタイルとも相まって、自己啓発セミナーのマインドコントロールのような刷り込み効果をもたらす。
そうした捉えどころの無さは、この映像自体の性格でもある。様々なスタイルが継ぎはぎされ、アイデンティティが一定しないのだ。例えば、過激派テロ組織の映像を思わせる覆面の人物が唐突に登場するが、TVの天気予報の語り口を真似て、「自意識のコントロールで世界が変わる」とレクチャーを行なったり、偏西風や海流をグローバル社会における労働力や物資の流動性へとトレースさせ、天気予報の「無害さ」を社会的・政治的な力動関係の視覚化へと変質させていく。《Liquidity Inc.》は、「美術作品」としての真面目さを脱力させるユルさを表層的にまといつつ、娯楽としてのミュージッククリップ、自伝的なドキュメンタリー、企業のプロモーション、自己啓発セミナー、テロ組織の犯行声明やPR映像、TVの天気予報といった様々な映像の文法をパロディ的に用いることで、現代社会において映像がどう用いられ、視聴者にどのような心理的効果を及ぼそうとしているかを、ユーモアを交えながらあぶり出していた。
2015/07/24(金)(高嶋慈)