artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

声が聴かれる場をつくる──クリストフ・シュリンゲンジーフ作品/記録映画鑑賞会+パブリック・カンバセーション

会期:2015/07/20~2015/09/27

アートエリアB1[大阪府]

美術館や劇場といった既存の制度の枠内から路上に出て、多様な社会層の参加と議論の喚起を引き起こすクリストフ・シュリンゲンジーフのアクション/パフォーマンス作品の記録映画の上映会。ここでは、特に『外国人よ、出ていけ!』に焦点を絞ってレビューする。
『外国人よ、出ていけ!』は、オーストリアで2000年に、外国人排斥を掲げる極右政党が政権入りしたことを背景に、同国最大の演劇祭「ウィーン芸術祭週間」で制作されたパフォーマンス作品(『お願い、オーストリアを愛して!』)の記録映画。12人の「難民申請者」を1週間コンテナハウスに居住させ、内部の様子をネット中継し、「観客」の投票によって国外追放する外国人が毎日2人ずつ選ばれていくという、過激な仕立てのパフォーマンス作品である。広場に設置されたコンテナは、極右政党のスローガンやヘイト発言を掲げる人気大衆紙で飾られ、道行く人々はピープショーのように壁の隙間から覗くことができる。
記録映画を見ているうちに感じるのは、真/偽の境界が融解していくに伴って、「パフォーマー/観客・観察者」の関係に生じる、奇妙な反転である。移動の自由を奪われ、監視され、強制送還を待つ身の「難民申請者」たちには、不思議なことに緊張感が感じられない。コンテナ内部の映像を見る限り、彼らはリラックスした様子で、コンテナから「強制退去」される場面でも、顔こそ隠しているものの、理不尽な「投票」結果に抗議したり、人権侵害を訴えたりすることなく、無抵抗で歩いていく。彼らが「本物の」不法滞在者かどうかは、映画内では(おそらく故意に)曖昧化されている(常識的・倫理的には「本物」とは考えにくいが、サンチャゴ・シエラのように、不法就労者に賃金を払ってギャラリー内で「労働」させる作品の例もある。ただしここでは、「本物かどうか」が重要なのではなく、「投票による外国人追放劇が公共空間で実際にパフォームされること」、つまり将来的な可能性が社会実験として「上演」されることで、市民の中に賛否両論の嵐のような反応を引き起こすことが企図されていたと言える)。
コンテナ内の「難民申請者」たちの切迫感のなさや正体の不透明さとは対照的に、「観客」たちの方が、右翼・保守/左翼・リベラルの双方の立場から抗議の声を上げ、シュリンゲンジーフに詰め寄り、身振り手振りも豊かに語り出す。「観客」「観察者」「窃視者」であったはずの者たちの方が、むしろ俳優のように雄弁に振る舞い、現実社会の諸相を鏡のように映し出すのだ。差別意識、ナショナリズム、監視社会、投票というシステムの「正しさ」とそれに則った不寛容さ……。とりわけ傑作なのは、「我々は文化的な国家だ、オーストリアに対する侮辱だ」と抗議する人が、「ドイツへ帰れ!」とシュリンゲンジーフを罵倒し、はからずも差別意識をさらけ出してしまうシーンだ。
シュリンゲンジーフの戦略の巧みさは、自身の立場を左か右か表明せず、「政治的主張」として行なうのではない点にある。コンテナに掲げられた「外国人よ、出ていけ!」というショッキングなスローガンもまた、予想される極右政党の批判をかわす戦略である。「これはあなたたちの掲げているスローガンですよ」というわけだ。ただしこの文句を観客に向かって直接言うのではなく、文字で表示することで、主張の明確さとは裏腹に、メッセージは匿名性を帯びていく。誰が誰に向かって発した言葉なのか、主体と対象が曖昧なまま、メッセージだけが浮遊し、人々の感情的な反応を引き起こす。
では、単なる社会批判や政治的主張ではないのなら、シュリンゲンジーフの挑発的な試みのより深い意図はどこにあるのか? 路上で人々と向き合うシュリンゲンジーフは、スローガンに賛同する右翼や保守主義者/批判する左翼やリベラリストにかかわらず、相手の意見を否定せず、むしろ拡声器を渡して彼らに積極的にしゃべらせる。たとえそれが何語であろうとも、「あなたはあなたの言葉で話してよい」のだ。一時的であれ、感情を逆撫でする不快感を伴うものであれ、誰もが自由に発言できる、多層的な声を響かせることのできる空間を、公共の場に開いたこと。それによって社会の矛盾や歪みが露わになり、「発言者」自身や周囲が気づけば、なぜそうした社会構造や心理構造になっているのか? 変えるにはどうすれば良いのか? と考え始めるだろう。その先に、一人一人が政治参加者として主体的に考え始めることが、真に民主的な社会への第一歩ではないか。おそらくここに、彼が根源的に目指す地点がある。
アートには、「現実を直接変える」有効性はないが、意識を変える媒介としての可能性はある。本作は、「観客」であった存在が、舞台に上がった「俳優」として声を発し、しかしその「台詞」はメディアなど他の誰かによって用意されたものではないか? という自問を経て、「主体的発言者」へと至ることが賭けられた演劇作品であると言える。だから劇場の幕が下りて終わるのではなく、「幕が上がった」というシュリンゲンジーフの言葉で締めくくられるのだ。

開催日:2015/07/20、08/08、9/27

2015/07/20(月)(高嶋慈)

没後20年 具体の画家──正延正俊

会期:2015/06/13~2015/08/02

西宮市大谷記念美術館[兵庫県]

正延正俊(1911~95)は、1954年の具体美術協会の結成に参加し、1972年の解散まで全展に出品した数少ないメンバーの一人。1948~49年頃に吉原治良(1905~72)の指導を仰ぐようになり、世代としては、元永定正(1922~2011)や白髪一雄(1924~2008)より一回り年長だった。没後20年を記念して、後年に自宅とアトリエを構えていた西宮で回顧展が開催された。
とりわけ圧巻なのが、大画面の代表作を一堂に集めた第一展示室。茶褐色や白・黒を基調とした色彩を用いて、夥しい線描や斑点、殴り書きの文字のような形象がオールオーヴァーに画面を覆い尽くしていく。色彩はいたって地味だが、近づいて目を凝らすと、濃淡のある茶褐色の下地の上に、白、黒、灰色、深緑、黄土色といった様々な色彩で細い線が何層にも描き重ねられ、多層構造がもたらす密度と多方向へ流れる線の運動性が視覚をスクラッチする。また、油絵具とともにエナメル塗料も用いられ、綿布への滲みやエナメルの光沢感、絵具の厚塗りや削り取りといった操作によって、絵具の物質性が前景化し、筆線の増殖性との相乗効果をもたらす。近づいたり離れたりしながら一枚一枚の絵画と向き合ううちに、その豊穣な奥行きをたたえた画面に惹き込まれ、大気の流れや微細な空気の震え、散らばる星雲、緻密に織られた織物のように見えてくるのだ。
本展では、こうした主に60年代の代表作の他に、「具体」参加以前に描いていた構成的な風景画や静物画、生涯にわたって日常的に制作していた実験的な小作品も展示された。これらの小作品は0号ほどの大きさだが、色彩や画面構成、厚塗りや削り取りなどの技法、エナメル塗料という新素材の探究など、様々な実験を日々繰り返していたことが分かる。
近年、国内外で脚光を浴びる具体美術協会だが、初期のアクションや既存の表現領域の境界を打ち破る「前衛性」に評価の主軸が傾くならば、「アンフォルメル旋風」以降の「具体」の活動は「絵画」への後退と判断されてしまい、正延のように一貫して絵画に取り組んだ作家は評価から取りこぼされてしまうだろう。今回の回顧展が、正延の再評価、ひいては「具体」の評価の再考につながるものになればと思う。

2015/07/19(日)(高嶋慈)

Slice Pack

会期:2015/07/07~2015/07/18

Galerie 16[京都府]

ともに写真画像を素材として用い、描画や転写といった手作業を介在させることで、イメージの変容と認識のあり方について問う、荒井理行と楠本孝美による二人展。
荒井は、写真を画面の上に貼り付け、その周囲を想像して余白に写実的な光景を描き込んでいく絵画作品を制作してきた。出品作では、横長のパノラマ画面上に、ミレーの《落穂拾い》の複製画像、ベトナム戦争での虐殺事件のドキュメンタリー写真、草原を歩く狩猟者を写した写真、ウィンドウズの標準的なデスクトップ画面(おなじみの青空と草原)、テレビドラマ「大草原の小さな家」の静止画像(草原を駈けていく少女たち)といった様々な画像が集められ、画像同士の間の空白がつながるように、緑や茶褐色の草原、小川、木々の描写で埋められていく。貼り付けられた画像は、絵画/写真/PC画面/TV画面といったソースも、事実の記録/フィクションといった区別もバラバラで意味的な連関も見いだせないが、唯一、「草原」という共通項だけでつながりを保っている。そのランダム感や見境の無さは、「草原」という検索ワードをかけて収集した時の、Google画像検索結果の表示に近い。
写真=「現実」、絵画=「虚構」という分かりやすい図式はもはや成立しない。荒井の作品が提示するのは、写真=リアルな対応物が外界に存在するのではなく、写真はもはや「画像」として検索・収集対象と化し、その際に打ち込んだ検索ワードやタグによっていかようにも接続可能な存在であるということだ。検索ワードやタグによって自在に結び付けられ、かつ組み換え可能であること、つまり関連の恣意性によって、画像同士の「間」「距離」には無数の「物語」が発生する。描画と地続きの存在として扱われたそれらの画像は、周囲に描かれたイメージと「同等」なほどにフィクショナルな存在であることを示している。そして私たちが身を置くそうした画像環境では、凄惨な虐殺の報道写真もつくられた映像も無邪気で多幸感溢れる写真も「等価」であり、並列化されているのだ。
一方、楠本は、複数の写真を幾何学的にコラージュした画面をシリコンに転写した平面作品を発表。過去の写真作品でも、矩形の色面の反復や斜線の反復・交差など、日常的な光景の中で、本来は関連のない物体同士が見せる形態的反響やリズミカルな構成を捉えていたが、発表作では、そうしたスナップショットからコラージュへと移行。画像をぼかす、帯状に切断した写真同士を接合する、無関係な写真の上に重ねるといった加工や操作を施されて出来た画面は、シリコンに転写され、さらに表面に切れ込みや破れ目が入れられて、白い下地が露出する。楠本の作品は、二重、三重の介入を受けた画像を再び物質性へと送り返すことで、イメージの形態と認識、イメージと物質性とが錯綜した状況を作り上げていた。

2015/07/12(日)(高嶋慈)

村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. B「顔」

会期:2015/07/11

京都芸術センター[京都府]

『エヴェレットゴーストラインズ』のコンセプトについては、Ver. A「赤紙」のレビューを参照していただくとして、ここでは連続上映された4つのバージョンのうち、Ver. B「顔」(ある死の記憶を共有する特定のグループ数名の出演者達による上演。一人につき何枚かの指示が配られるが、どの指示に従うかは当人次第)を取り上げる。
Ver. B「顔」が秀逸だったのは、不在の対象(ある死者)「について」語られる前半の時間(証言、ドキュメンタリー)と、その不在の対象「と」語る後半の時間(フリをすること、フィクション、演劇)との落差を仕掛けることで、現実の行為とフィクションとの境界が判断不可能になる瞬間をまさに体感させた点にある。
前半では、演出家が依頼した「手紙」を受け取った出演者が1人ずつ登場し、椅子に座って演出家と向き合い、簡単な自己紹介の後、演出家からの質問に答える形で、ある死者についての記憶を語っていく。いわば、公開インタビューの形式だ。話題に上る死者は、水俣病のドキュメンタリー映画で知られ、後年は京都造形芸術大学で教鞭を取った映画監督の佐藤真で、舞台上に召喚される出演者は、大学での教え子たちだ。ここにいない不在の存在「について」語ることが前半の時間を占めているが、この「公開の証言」によって、果たしてどこまで佐藤真という人物の人となりに迫る狙いがあるのかは曖昧だ。主導権を握る演出家が投げかける質問は雑談も含み、佐藤本人よりも「目の前で話している人」の個性の方を浮き彫りにするように感じられるし、予めセットされたタイムキーパーが鳴れば、証言者は会話途中でも強制的に退場させられるからだ。だが、2巡目の質問で、「佐藤先生の死の知らせを受け取った時の状況や心境を話してください」と聞かれた時、一気に空気が重くなったのが肌で感じられ、また証言者同士の記憶に「食い違い」が生じた点は興味深い。
そして後半の時間では、演出家は席を外し、今度は「佐藤先生『と』会話して下さい」と要請される。無人になった椅子と向き合い、「先生、ご無沙汰してます」などの挨拶から始め、お世話になったお礼や近況報告などを、訥々と、照れ臭そうに、時に言葉につまりながら語り出す出演者たち。彼らは俳優ではなく、台本の再現でもなく、「演技」というには拙い誠実さにもかかわらず、いや、この上なく「誠実に」語りかけているからこそ、訓練された俳優の「演技」よりもある意味「感動的」なほどだ。しかし同時に、目の前にいない「佐藤先生」の姿やリアクションを心の中で描きながら「会話」する様子は、「演劇」に見えてしまう。ここで、先ほどまでナマの証言がなされていた時空間は、一気に演劇的な強度へと反転する。
「について語る」時間と、「と語る」時間。この落差の感取がVer. B「顔」の肝をなす。「について語る」時間が何ら演劇的に見えないのは、語る対象が「今ここにいない」ことが前提化されているからだ。逆に言うと、不在の対象についてのみ「語る」ことができる。一方、「と語る」時間は、目の前に相手がいれば日常的な行為だが、本作の場合、「対象が不在の状態」を前半から引きずったままなので、「フリ・虚構・演劇」へと接近する。
言い換えれば、前半の時間は、今ここにいない不在の存在(その最たるものが「死者」)を、語る行為を通して、(不完全な像ながらも)舞台上で語る人の脳裏/観客の想像の中に召喚しようとする時間であったのに対して、後半の時間は、「不在」として召喚した存在を、目の前に「いる」存在として投影して語る/見るように出演者/観客に要請する。この時、観念的な「不在」は、舞台上の今ここに「物理的にいない」存在へとすり替えられることで、「演劇的な時空間」が駆動させられる。
しかし同時に、前半の時間との連続性によって、リアルと虚構の境界が曖昧化する。出演者自体は前半と同じく、あくまで「本人のまま」振る舞い、また「思い出」「訃報の記憶」を語る複数の証言の蓄積を通して、「佐藤先生は架空の人物ではなく、確かにいた」実在性が担保されているため、非再現的な出来事でありつつ演劇的に見えてしまう、という宙吊り状態が出現するのだ。この引き裂かれた、アンビヴァレントな感覚を味わうこと。物語の力や俳優の技量によって感情的に揺さぶられるのではなく、感情的喚起と論理的了解が合致しない状態を味わわされることが、村川作品の特異性であり、通底する「残酷さ」である。

2015/07/11(土)(高嶋慈)

村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. A「赤紙」

会期:2015/07/10

京都芸術センター[京都府]

「出演者未定の演劇作品」である『エヴェレットゴーストラインズ』の基本コンセプトは、「演出家が出演者候補に前もって手紙を送る」「手紙には、劇場を訪れる時間と観客の前で行なう行為が指示されている」「当日劇場に来るかどうかは受け取った人が決める」というもの。ある一定の上演時間と舞台空間を設定し、入退場時のハケ方と舞台上で行なう行為を指定すること。村川は、演劇の構造的原理を「時空間の共有と行為の指示」へと還元し、裸形にして差し出しつつも、「手紙」という間接的な伝達手段やコントロールの放棄によって、再現(再演)不可能な一回性の出来事へと近づけていく。
舞台装置も指示内容もいたってシンプルだ。何もない舞台上には、背後に字幕が投影され、「分刻みの出演時間」「出演者の名前(居住地、職業、年齢)」「指示された行為」を観客に告げる。指示された行為は基本的に、誰でもできるような簡単なもので(「誰かの名前を呼ぶ」「傘にまつわる思い出話をする」「壁づたいに移動する」など)、行為同士の関連性も見いだせない。しかし、要請に応じた出演者たちが舞台上に現われる時間と現われない不在の時間が交錯するさまはスリリングであり、「ルールの設定」の厳格さは、上演ごとに揺らぎを伴った不確定性へと開かれていく。とりわけ、出演者が「不在」の空白の時間が、見る者の想像を刺激する。現実には現われなかった出演者候補が「もし現われていたら、どんな風貌でどう振る舞ったのだろうか?」。タイトルの「エヴェレット」は、量子力学において「量子は、観測者の存在によって状態が確定されるまでは、可能性が重なり合った状態にある」とするエヴェレットの多世界解釈を指す。また「ゴースト」とは、出演者候補が不在の時空間を埋めていく観客の想像力の中で、「こうだったかもしれない」可能性の世界を徘徊する幽霊のような存在を指すのだろう。
『エヴェレットゴーストラインズ』は2013年の初演と、KYOTO EXPERIMENT 2014 での再演が行なわれているが、今回は、基本コンセプトを引き継ぎつつ、新たにつくられた4つのバージョンが連続上演された。Ver. A「赤紙」は、初演時の出演者が手紙を別の人に渡し、受け取った人はさらに別の人に渡すというもので、より不確定性の増幅が企図されている。
だが今回の公演で気になったのは、本作が構造的にはらむ微妙な政治性である。「出演」に応じるか応じないか、さらに指示通りに振る舞うかどうかは、出演者候補の判断に委ねられている。彼らはプロの俳優ではなく(舞台芸術関係者も一部いるようだが、大半は「会社員」「学生」「介護職」「画家」など様々だ)、金銭の受領による契約関係に基づかない点で、性善説的な「善意」・「協力」を前提としている。ただし、本作の仕掛けの巧みさは、出演者候補を必ず指示通りに「集わせること」に賭け金を置いていない点にある。出演者候補が現われなかったこと=「失敗」ではなく、それさえも「不確定性」の振れ幅のうちに回収されてしまうのだ。だが、そうした「不確定性」を前景化・主題化することで、「手紙」という迂回路をとった「依頼」という形式がはらむ微妙な強制力は曖昧化されてしまう。
もう一つ気になった政治性は、終盤で指示される「服を脱いでください」という指示内容と、その指示が向けられる対象についてである。私が観た2013年の初演、2014年の再演、今回のVer. Aの3回とも全て、この指示が「女性」の出演者候補に向けられていた。基本的には誰でも遂行可能な指示が淡々と続く中で、終盤のこの箇所だけが異様にハードルが高く、ある種の「ハイライト」的な役割を担っていることは明らかだ。そして性別の選定も意図的なものだろう。男性よりも女性が「脱ぐ」方が「より舞台上でのインパクトが大きい」と演出家が考えているならば、そこには出演依頼がはらむ政治性に加えて、演出家(男性)から出演者候補(女性)へのジェンダー的な権力関係も二重にはらまれているのではないか。

2015/07/10(金)(高嶋慈)