artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
したため #7『擬娩』
会期:2019/12/06~2019/12/09
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
タイトルの「擬娩(ぎべん)」とは聞き慣れない言葉だが、文化人類学の用語で「妻の出産の前後に、夫が妊娠にまつわる行為を模倣する(例えば床につき、節食し、分娩の苦痛に苦しむふりをする)」習俗を指す。本作の制作動機には、演劇ユニット「したため」を主宰する演出家の和田ながら自身が、「30代になり、自分の妊娠・出産について考えることを先送りできなくなった」という問題意識があるという。和田を含め、男女の出演者全員が出産未経験者である本作は、「擬娩」という習俗のもつ演劇的なフレームを借りて、「もし妊娠・出産したら、私のこの身体と日常生活に何が起き、どのような変容を被るのか」という想像力の起動を、徹底して極私的で即物的なレベルにおいて記述を積み重ね、俳優の身体表現を通して多面的にシミュレートするものであった。
冒頭、一筋の光の差す舞台奥の暗がりから、ごろんと一回転して転がり出てきた俳優たちの身体。彼らはぬめるように床を這って進み、やがて二本足で直立する。産道を通って産まれ落ち、二足歩行に至るまでのプロセスの抽象化。自意識と言語を獲得する以前の時間は、無言と薄暗がりに包まれている。やがて彼らは自身の身体部位に触りながら、身体的特徴やその遺伝的要素について口々に語り始める。歯並び、あごの骨格、左利き、親指をしゃぶる癖、手足が大きいこと、腸が弱いこと。極私的な細部についての語りは、だが、ちょうど俳優の頭部の位置に吊られた半透明の窓のような舞台装置を介することで、顔は曖昧にぼかされ匿名化されている。
そして列挙される個体差は、第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)を経由して、つわりの症状の多様性へと展開していく。好物の食べ物の匂いを受け付けず吐いてしまう、制御できない眠気に襲われる、隣の人のシャンプーや整髪料の匂いに敏感に反応して嘔吐をもよおす「匂いつわり」、口や胃の中につねに食べ物が入っていないと気持ち悪い「食べつわり」など、四者四様だ。「身体が私じゃなくなる、乗っ取られたよう」という不快感は、執拗に繰り返される嘔吐の音によって増幅され、見る者をも身体的に脅かす。また、タバコやアルコール、カフェインといった嗜好品だけでなく、風邪薬や頭痛薬の服用、車の運転や自転車、ハイヒール、遊園地のアトラクションなど「妊娠中の禁止事項」が列挙され、生活習慣の変化や活動の制限を余儀なくされることがさまざまに語られていく。
胎児と妊婦が窓=スカイプのウィンドウを介して通信する、コミカルかつ(劇中唯一)情緒的なシーンを挟んで、お腹が大きくなった中盤では、胎動、内臓の圧迫感覚、寝返りの辛さといった身体的変容が進行していく。そして、クライマックスの陣痛と分娩では、即物的・物質的な位相の記述から、「生と死の波打ち際」としての神話的世界へと一気に突き抜ける。「恥骨、仙骨、骨盤が開く」「腰が爆発するような熱と激痛」「子宮口が10cm開かないと胎児が出られない」と身悶えしながら絶叫調で実況する男優。次第に感覚が狭まる大音量のノイズの波=陣痛。荒海に放り出されたような感覚は、志賀理江子が自身の出産を綴ったテクストの朗読により、痛みの沸点を超えた先に、自他の境界も時間軸も溶解した神話的世界と接続する。生と死が最も近くせめぎ合う波打ち際。体の中の海としての羊水/死者の帰る場所でもある海。私の身体は、その海を内包し、包含されてもいる。
一転してラストシーンでは、俳優たちはフレームを手枷のように腕にはめ、「妊娠・出産」を取り巻く呪詛のような文句をオブセッショナルに唱え続ける。「産めよ増やせよ」「出産エクスマキナ」「石女(うまずめ)血の池地獄」「ハイクオリティたまご」「その妊娠は合意ですかルワンダ」「2000万円主義者」「ホルモンは私ですか、どなた様ですか」……。人口政策や出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や資本産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という価値観や社会的圧力など、より大きな枠組みが最後に提示される。だがそれらは次第にバグをはらんで破綻し、失速する。
このように、本作の最大の特徴かつ秀逸な点は、(舞台やドラマ、映画などで手垢にまみれた)「感動的な出産のストーリー」を徹底的に排除し、その代わりに「妊娠・出産」を「私のこの身体に起こる、不快で理不尽な変容のプロセス」のコラージュ的な積み重ねとして描き切った点にある。なぜ、無機的なまでに物語性を剥奪したのか? 本作の企図は、「夫(男性)」が妊娠をシミュレートする「擬娩」という習俗を援用することで、「妊娠・出産」という行為と「産む性としての女性の身体」との癒着をいったんリセットし、「女性なら産むのが当たり前」「母性愛」といった本質主義に陥ることを回避した地点から、想像的に捉え直すことは可能かという問いの投げかけにある。
したためとのコラボレーションは3回目となる美術作家、林葵衣による舞台美術も効果的だった。木枠にテグスを張り渡した一見シンプルなものだが、それを通してプライベートな細部を語る窓/匿名化する装置という両義性、妊婦と胎児をつなぐ媒介、産道としての開口部、そして手錠のような拘束的装置と、シーンの変遷に応じて意味を変容させていく。
ただ、難を言えば、ラストシーンは(挿入の必然性は理解できるが)やや唐突な展開に感じた。したためはこれまで、戯曲を用いずに俳優の個人的・日常的な経験の微視的な観察から演劇の言葉を立ち上げる試みと、テレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』や多和田葉子など異言語との接触、翻訳、越境、ポストコロニアリズム、それらがもたらす身体的変容を扱ったテクストを用いた上演という、二つを主軸に作品を発表してきた。本作はその交差上にある現時点での集大成といえる試みであり、同時に「微視的で極私的な観察というミクロの位相と、社会政治的な枠組みに対する批評というマクロな位相をどう共存・接続させるか」という方法論的な課題を浮き彫りにしていたと思う。
関連レビュー
したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年07月15日号)
したため#5『ディクテ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)
2019/12/09(月)(高嶋慈)
飯沼珠実「Japan in der DDR - 東ドイツにみつけた三軒の日本の家/二度消された記憶」
会期:2019/11/09~2019/12/14
KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHY[東京都]
冷戦期の東ドイツの3都市(ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリン)で日本の建設会社が建てた3軒のホテルについてリサーチし、自身の撮影した写真や収集した資料を5章からなる書籍にまとめた飯沼珠実。本展では、「第4章 二度消された記憶」が展示された。
飯沼は、関係者へのインタビューや資料調査を進めるなかで、1979年に建設事務所が空き巣被害に遭い、金庫に入っていた現金と、35ミリフィルムカメラからフィルムが抜き取られて盗まれた事件を知る。この盗難事件に着想を得た飯沼は、「盗まれた記憶を取り返してみよう」という動機から、35ミリフィルムカメラを携え、ベルリンに現存するホテルの周辺を撮影した。帰国後、東京の現像所にフィルムを持ち込むが、現像機の整備不良のためにフィルムが感光し、また外れたネジが機械内部に混入してフィルムを傷つけたため、現像されたイメージの一部は白く消え、ところどころに傷痕が入っていた。本展では、これらの「白く不鮮明にかすみ、傷を付けられた写真たち」が展示された。
それは、(リサーチベースではあるものの)「二重のフィクションの介在」である。「盗まれたフィルムに写っていたであろうイメージ」を再演的に創造するという行為は、(機械的なアクシデントによって)傷を付けられ、「消えかけ、見えにくい、隔てられた」イメージへと変質する。一度目の「消去」を実行したのは、シュタージ(秘密警察)のスパイによるものだと推測された。では、二度目の「消去・抑圧」をもたらした作用は何だろうか? それは事実としては現像機の整備不良という人災だが、過去の想起と同時にはたらく忘却の作用が図らずもリテラルに顕現した、私たちはその暴力的な顕現をこそ眼差しているのではないだろうか。そして写真が「記憶」の謂いとなりうるのは、(物理的永続性ではなく)その可傷性・被傷性ゆえではないだろうか。
2019/12/06(金)(高嶋慈)
オリエンタル・ディスクール
会期:2019/11/29~2019/12/09
Komagome1-14cas[東京都]
「移民」、とりわけ韓国・朝鮮系ディアスポラの女性アーティスト3組に焦点を当てた自主企画展。それぞれの作品を通覧して浮かび上がる共通の問いは、「私たちの/が『記憶』と思っているものはどこまでフィクションか?」という文化的・民族的アイデンティティをめぐる問いかけだ。
在日韓国人を両親に持ち、日本語教育を受けながらフランスで生まれ育ったヨシミ・リーは、現在、フランス系住民の多いカナダのケベック州に住む。彼女の写真作品《Hanbok, (Déracinée)》は韓服(Hanbok)を着た西洋的な顔立ちの少女のポートレートであり、古典的な肖像写真を思わせるポーズや構図、無表情な少女の顔、端正なモノクロの陰影は、一見すると、19世紀後半の銀塩写真のような印象を与える。だがそれは演出・捏造された「伝統性」だ。被写体となった自身の娘に、民族の記憶はどう継承されるべきなのか?アジア系フランス人としての個人の生と「伝統」の虚構性との狭間で引き裂かれたその作品は、「写真は、アイデンティティの正統性の証明であると同時に捏造にもなる装置である」という両義的な決定不可能性をも示唆している。
アリサ・バーガーの場合、自身の家族の歴史を辿って複数の声を集めることは、朝鮮半島、ロシア、ドイツをめぐる複雑な現代史そのものへの言及と直結する。映像作品《ThreeBordersStill》では、肉親へのインタビューを軸に、家族アルバムの写真やビデオなど膨大な映像イメージと思索的なテクストが交錯する。アリサの母方の曾祖父は三・一独立運動の迫害を逃れてウラジオストクへ脱北した高麗人(コリョサラン)であり、彼女はその高麗人である母親とユダヤ人の父親の娘としてロシアで生まれ、ドイツへ移住した。家族写真を見せながら肉親それぞれが語る出会いと離散は、ドイツ語、ロシア語、韓国語など複数の言語が入り交じり、「家族」のなかに複数の国境線が存在する事実を告げる。彼女の作品は、複数の言語とボーダーの交差する地点にあるものとして自身を炙り出す。
在日韓国人のアーティストであるユミソンと、イスラエル出身の写真家イシャイ・ガルバシュは、ユニットを組み、パフォーマンスの記録である《Throw the poison in the well》を制作した。タイトルの「井戸に毒を流す」は、関東大震災の直後、「朝鮮人が井戸に毒を流した」というデマによって起きた虐殺を指す。自身は経験していない「民族が共有する傷の記憶」をどう想起し、「現在」に対する批評へとつなぐことができるか。2人は、住宅地の防火用バケツや用水路に、毒の代わりに赤い小さな唐辛子を流すパフォーマンスを行なった。それは、「過去のフィクション」の再演という身振りによって、「平和な日常風景」のただ中に亀裂を入れるように、「想像上にしか存在しなかった虚像のマイノリティ」「『いない』ことにされている存在」に実体を与え、可視化させる。だが彼らが流す「唐辛子」が韓国では「厄除け」の意味を持つことを考慮すれば、それは「架空のテロ」を模倣しつつ、「不可視化された他者への恐怖や憎しみ」を浄化し、祓う行為へと希望的に反転させているのだ。
関連レビュー
イシャイ・ガルバシュ、ユミソン「Throw the poison in the well」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年06月15日号)
2019/12/06(金)(高嶋慈)
VISIONEN -ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズVol. 9 『HOMOHALAL(ホモハラル)』
会期:2019/11/23~2019/11/24
FLAG STUDIO[大阪府]
現代社会をテーマにしたドイツ語圏の劇作家の戯曲をリーディング公演で紹介する、「ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ」。9回目は、シリア出身のクルド人劇作家、イブラヒム・アミールによる『HOMOHALAL(ホモハラル)』(2017)。エイチエムピー・シアターカンパニーの俳優、髙安美帆の演出により、日本人の俳優によって上演された。アミール自身、シリアの大学で演劇を学ぶも、クルド人学生運動への参加を理由に退学処分となり、ウィーンに渡った経歴をもつ。本作は、劇場や支援機関と協同し、難民たちと対話する演劇ワークショップをもとに執筆された。
舞台は、難民受け入れ問題で揺れた2017年から20年後の、2037年のドイツという仮想の未来。当時、難民の庇護権を求めて共闘していた若者たちは、親世代となり、仲間の1人の葬式で久しぶりに再会する。シリア、イラク、パキスタンなど出自の異なる彼らは、ドイツ社会に馴染み、市民権も得て、恋に落ちて難民どうし結婚した者もいるなど、穏やかに暮らしている。だが、ゲイである息子を父親は受け入れることができず、夫婦や友人間の亀裂といった日常的な諍いから会話は次第に綻びや対立の相を見せ、社会に完全に溶け込めない疎外感、異文化間の軋轢、ヨーロッパ社会の偽善や自己満足に対する糾弾、同化吸収=文化的なルーツの喪失への批判といった「剥き出しの本音」が噴出し、「安全のためには自由を制限すべきだ」と叫ぶ者の演説で幕を閉じる。タイトルは「ホモ」と「ハラル」(イスラムの教えで「許されている」を意味するアラビア語)を掛け合わせた造語だが、「ホモ」には、「ホモセクシャル」(ひいては何らかのマイノリティ性を持つこと)と「同質性」(社会のマジョリティに同化吸収しようとする圧力)という二つの意味が引き裂かれながら内包されている。
本上演はリーディングだが、「演出」の要素が強く打ち出されていた。そこには、「ヨーロッパにおける難民問題」という主題が、「日本で日本人俳優が日本語で演じる」上演において、演出的な介入を必要とせざるを得なかったという力学が浮かび上がる。とりわけ肝となるのが、冒頭のシーンだ。登場した俳優は、自分自身の名前を(繰り返し)名乗りつつ、シリアから地中海をボートで渡る危険な航海を経てウィーンに辿り着いた経験を語る。そして、今や難民がプロの俳優に取って代わり、自身の体験の「悲惨さ」「非人道性」を語ることが引っ張りだこであるという、ヨーロッパ演劇界の「政治的正しさ」に対して強烈な揶揄を繰り出す。初演では、この冒頭のパートは、実際の難民が本名を名乗って登場/出演した。だが、「難民」が不可視化され、「単一民族」神話の浸透した日本という上演の文脈において、「ヨーロッパの観客」向けの強烈な批判をどう俎上に載せるのか? という難問が立ちはだかる。戯曲に書かれた内容を、日本人俳優がそのまま「難民役」として演じた場合、演劇の「約束事」に吸収され、無害化・無効化されてしまう。ドイツ語から日本語へ、という言語間の翻訳とは別に、「文脈の翻訳」の作業が必要となるのだ。本上演では、このパートを、別のマイノリティ性を持った俳優に発話させるという置換の作法により、マイノリティ性・異質性を担保してみせた。
また、もうひとつの仕掛けとして、「演じる役のポートレート」が描かれたパネルの効果的な使用がある。1人の俳優が2~3役を演じ分ける際の視覚的なわかりやすさに加えて、難民を「固有の顔貌を持った個人」として顕在化させる機能を持つ。同時に、仮面としての「役柄」の提示は、日本人の俳優/中東出身の(元)難民というズレや乖離を常に意識させ続ける装置としても機能する。
ラストシーンでは、それまでずっと「妻」「母」の立場で発話していた者が、「安全のためには自由を制限すべきだ」「誰かがドアを押さえないといけない」と語り出し、モノローグは激しさを増す演説へと変貌していく。そこでは鬱屈の噴出というよりも語る主体自体が曖昧化し、「保守主義の権化」が実体化してしゃべっているようにも見える。彼女を取り巻く他の俳優たちは、ポートレートの描かれたパネルを裏返し、裏面の「白紙」をプラカード/バリケードのように掲げる。それは、全体主義的な社会への同化吸収によって、個人の顔貌が消されて匿名化していく事態の暗示とも、排他主義的な演説に抗議して止めさせようとしている身振りとも取れ、極めて両義的だ。
ドイツの同時代戯曲の紹介という意義、「難民」「共生社会」というテーマに加え、「ヨーロッパにおける難民問題、劇場文化への批判」をどう日本での上演に接続させるかという困難な問題に関しても問いを投げかける上演だった。
2019/11/24(日)(高嶋慈)
はなもとゆか×マツキモエ『VENUS』
会期:2019/11/21~2019/11/23
京都芸術センター[京都府]
ポップでキャッチーな世界に潜ませた毒と批判精神が持ち味のダンスデュオ、はなもとゆか×マツキモエ。平塚らいてうのスローガン「元始女性は太陽であった。」に続き、「しゃもじをラケットに」と謳うコピーが付けられた本作では、「約1時間の上演時間中、安室奈美恵の楽曲が流れ続ける」という過剰な多幸感に満ちた世界で、ピンポン球=卵すなわち生殖や世間的圧力のメタファーが飛び交うなか、「ラケットで球を打ち返す」脅迫的な身振りの反復、男女間の支配や依存の関係、そして自立への意志が紡がれていく。
本作を特徴づけるのは、歌詞やモノローグとして声に出されるものと、身体的な位相との落差だ。ひたむきな恋愛の純粋さ、ポジティブさに溢れた安室奈美恵の歌詞。恋バナや合コンでの出来事を語る、はなもとのモノローグ。その一方で、支配と依存、暴力といった男女間の力関係が、支配/被支配の関係性や主導権を流動的に入れ替えながら、短いシークエンスの連なりとして活写されていく。例えば、序盤と中盤で反復される、腹ばいで進む男の背に馬乗りでまたがる支配者としての女。一方、別のシーンでは、女の身体は2人の男に物体のように引きずり回され、仰向けに横たわった顔の上にはピンポン球が容赦なく落とされ続け、女性の身体に加えられる暴力を暗示する。男女が身体の一部を次々と接触させながら絡み合うシーンは、コンタクトによるダンスムーブメントと激しいセックスの境界を融解させていく。そこでは相手に馬乗りになる側が絶えず入れ替わり、支配/被支配の流動性を示すとともに、組み敷かれた側の者がコンタクトによって相手の動きをコントロールしている可能性もあるのだ。
また、舞台上ではしばしば、生殖のメタファーとしての「卵」およびその相似物としてのピンポン球が飛び交うのだが、ラケットの素振りを反復する身振りは、見えない球を打ち返す、つまり見えないプレッシャーをはね返し続ける脅迫衝動を暗示する。あるいは、それぞれの長い髪の毛をひとつのお下げに編み込んだ男女は、文字通り一心同体となって足並み揃えたスキップで登場するが、依存/束縛から脱け出そうともがく女は、最終的に自分だけの髪の毛でお下げを編み直し、自立への意志を示す。
不気味なのは、これらの光景を、一段高い奥の壇上に身を置いて一見無関心を装いながら、実はコントロールしているような超越的な者の存在だ。ピンポン球=卵を容器から容器へと移し替え続け、何らかの秩序や選別を司るこの者は、ラストで大量のピンポン球=卵を舞台上にぶちまける。四方八方から飛んでくるその球=プレッシャーをはね返そうと素振りを続ける女たちは、相手が不在のまま、1人で戦う孤独なゲームにいつまで従事させられるのか。彼女たちのしんどさは、「延々と垂れ流されるアムロちゃんの曲が次第に暴力性を帯びてくる」体感のプロセスとして、観客にものしかかる。アップテンポの多幸感溢れるラブソングを聴かされ続けるしんどさ、「常に恋してキラキラしていないといけない」圧力をかけられ続ける暴力性に、観客もまた晒されるのだ。表面的なポップさとは裏腹に、身体を賭した切実な希求がここにはある。
2019/11/21(木)(高嶋慈)