artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 2019|久門剛史『らせんの練習』

会期:2019/10/20

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

サウンド、光、立体を繊細に組み合わせて場所に介入し、時に自然現象さえ想起させる詩的なインスタレーションをつくり上げてきた久門剛史。KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで世界初演されたチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』で舞台美術と音を担当した経験を経て、自身初となる劇場作品を発表した。

観客は、バックステージの通路を通り抜けて、通常は「舞台」である空間に身を置いて鑑賞する。ゆっくりと暗闇に包まれると、前方で小さな光が瞬き始める。ガラスの球体の中で呼吸するように瞬くその光は、夜の海に浮かぶ夜光虫の群れのようだ。やがて空間を覆っていた「幕」が上がり、整然と並ぶ空っぽの椅子が現われ、観客はこの「舞台」へと反転された「客席」と対面して時空の旅人となる。客席にはスタンドライトが置かれて灯り、それは孤独な街灯を遠くから眺めているようにも見え、室内にいるのか、屋外なのかの感覚が曖昧になっていく。この知覚の攪乱は、「音」のレイヤーによってさらに増幅される。反復される電話の呼び出し音。ひぐらしの声。遠雷の響き。踏切の音。水滴の滴り。何かが落ちて壊れる音。コップに水を注ぐ音は、増幅され、激しい水流が部屋の中に侵入してきたような錯覚を与える。人工/自然、室内/屋外の境界が曖昧になり、音の遠近感が攪乱され、次第にカオティックに、暴力的になっていく音の洪水。それは、明滅するストロボ光や激しいフラッシュと相まって、知覚した刺激を情報としてうまく処理できない知覚過敏や精神病患者の世界を疑似体験しているようにも思える。一方、ピアノの鍵盤を叩いて一音ずつ確かめる「調律師」の登場は、この無秩序でカオスの氾濫した世界に、再び「秩序」を取り戻そうとする調停者の象徴だろう。

カオスの氾濫と、秩序の回復への希求がせめぎ合う世界。だが中盤では、「舞台」の床の上をスモークが覆い、たなびく雲海や、霧の立ち込める冬の澄んだ湖面を思わせる。また、「客席」から宙に浮いたカーテンは、風にはためきながら、「落ちる雨だれの音」と同期して広がる光の輪が投影されるスクリーンとなる。こうした「自然現象(の疑似的な抽出)」は、「暴力的であることと美しいことは矛盾しない」という言葉を発する。ただ、時報とともに断片的に流れる「台風の影響による道路情報」のアナウンスは、直近の台風19号の被害を直截的に連想させる点で、生々しい現実の侵入が緻密な構築世界を壊しかねない危惧を感じたが、特定の災害への言及というよりは、(無数の)自然災害の記憶へのトリガーと解するべきだろう。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]




[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ラストシーンでは、はるか高みの客席の天井から無数の紙片が落下し、舞い散る吹雪のようにも、文明の象徴としての書物の解体が暗示する人間世界の終末をも感じさせた後、再び暗闇が覆い、ガラスの球体の中で小さな光が瞬き始める。ひとつの宇宙の消滅さえ感じさせる大きな破壊の後で、原初の生命が(再び)誕生する瞬間を目撃するかのようだ。タイトルの「らせん」とは、一周した輪が閉じて完結するのではなく、少しズレながら、新たな時空上で再びループを描いていく、終わることのない反復構造を意味している。



[Photo by Takeru Koroda, Courtesy of Kyoto Experiment.]


美術・映像作家が手掛ける舞台作品、とりわけ劇場の物理的機構それ自体を俎上に載せ、(ほぼ)無人劇と音や光の緻密な構築によって、一種の「劇場批判、上演批判」と幻惑的なイリュージョンの発生の両立をはかる手法は、例えばアピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』や梅田哲也の『インターンシップ』などとも通底する。


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


関連レビュー

TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/10/20(日)(高嶋慈)

アッセンブリッジ・ナゴヤ 2019 |山下残『屋合』

会期:2019/10/17~2019/10/20

Minatomachi POTLUCK BUILDING 屋上[愛知県]

代表作のひとつ『大行進』を昨年の同フェスティバルで上演した山下残が、滞在とリサーチを経て制作した新作公演。「夜間のビルの屋上」というロケーションを活かし、身近な道具を改変した楽器やデバイスを用いてパフォーマンスを行なうおおしまたくろうとコラボレーションを行なった。おおしまが自作した楽器やデバイスが発する音、光、動き、振動と山下のダンスが多層的に共存する、予測不能でスリリングな時間となった。



[撮影:蓮沼昌宏 写真提供:アッセンブリッジ・ナゴヤ実行委員会]


暮れた夜空とビル群を背景に、屋上に設えられた仮設のステージ。現れた山下は、直立した姿勢のまま、足指の微細な運動を足裏、足首、膝、太腿、下半身全体へと徐々に波及させていく。硬直と恍惚、脱力と緊張が入り混じったその動きは、どこか浮遊感を伴い、観客の目線と同じかそれより高く設定されたステージの高さと相まって、彼の身体は空中に頼りなく浮かんでいるかのようだ。一方、おおしまはその傍らで、スピーカーやアンプをいじり、ノイズを次々と発生させ、山下が波動状に運動し続けるステージ上に糸(ピアノ線)を張り渡していく。このピアノ線には小さなデバイスが吊り下げられ、星の瞬きのような光の明滅とノイズの発生を繰り返す。開放的な空間を次第に充満させる音、光、振動は、だが、山下の身体が不意にビルの縁から路上に身を滑らせたような「落下」によって中断される。

「追悼」のささやかな記念碑のように、おおしまが積み上げる黒い石。その上には明滅するライトが置かれ、遠くのビルの屋上で明滅を繰り返す赤い灯(航空障害灯)とシグナルを送り合っているかのようだ。さらに、自走する照明・音響装置も投入され、激しさを増す光と音、ノイズの氾濫のなか、スモークの向こうから「復活」した山下の身体が現われ、再び落下して見えなくなる。非常事態を告げるサイレンのように、戦場の銃撃のように鳴り響くノイズ。霧のたなびく海面を照らす灯台の光のように、あるいは硝煙の渦巻く戦場で「敵」をサーチするドローンのように、回転するライトは暴力的な眩しさで観客の目を射る。ここでは、デバイスや操作する身体が徹底して剥き出しの即物性と、にもかかわらず発生するイリュージョンというアンビバレント、その調停の不可能さ、そして光の浸食、ノイズの洪水、「落下」を繰り返す身体という事態の暴力性にただ耐え、幻惑されるしかない。



[撮影:蓮沼昌宏 写真提供:アッセンブリッジ・ナゴヤ実行委員会]


浮動と「落下」、そして「復活」を繰り返す山下の身体は、ラストシーンの「復活」ではビルの縁の「向こう側」に身を置いているように見え、反復による強度が「死と(再)生」のドラマをもたらす一方で、むしろ身体の実在感は希薄化する。現実空間の「先」にありながら、そこから遊離した一種の幽霊化。そこには、日常空間と地続きだが同時に非日常性を湛えた「屋上」というロケーションもうまく作用している。屋外での上演は珍しい山下だが、周囲の環境を舞台装置の一部や「借景」として取り込んだ本作は、「野外上演」の今後の展開を期待させるものだった。


公式サイト:http://assembridge.nagoya/

2019/10/19(土)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 2019|庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』/ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』

ロームシアター京都 ノースホール、元離宮二条城+平安神宮[京都府]

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』とブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』。上演日程を同じ週に設定した確信犯的意図は明らかだ。「儀式性」「観客への集団化作用」という共通項と、対照性を感じた両者を、本評ではまとめて取り上げる。

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』は、上演空間が本物かと見紛うほど精緻に作り込まれた「お堂内部」に変貌し、「蛸」を「神」と崇める8名の信者(を模したパフォーマー)とともに読経や唱和に参加し、(疑似)宗教儀式のトランスを体験するという作品だ。観客を構築されたフィクション内部へと誘う仕掛けは、(上演開始前から既に)周到に幾重にも仕掛けられており、入場前に「名前と願い言」を書いたお札が儀式中に読み上げられてお焚き上げされる、「お堂内の窓や扉を密閉する」作業を観客にやらせる、「経典」や打楽器を配り、読経や木魚を叩くリズムに参加させるなど、「儀式」とその集団化作用へ取り込もうとする「演出」が散りばめられている。さらに、パフォーマーたちが次々と繰り広げる歌唱、三味線や二胡などの演奏に加え、「火入れ」された中央の炉、それが発散する熱、炉に投入されるお香のスパイシーな香りが五感の総動員へと駆り立てる。



[Photo by Yoshikazu Inoue, Courtesy of Kyoto Experiment.]



一方、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、二条城(13日)と平安神宮(14日)という屋外空間で、9名の女性パフォーマーの身体と声だけで行なわれるミニマルな作品。薄暗くなり始めた夕空の下、静かに入場したパフォーマーたちは、頭に巻いた白いスカーフと黒服というそろいの出で立ちだ。互いに数メートルの距離を保ち、別々の方向を向いて立った彼女たちは、しばしの沈黙の後、頭と上体を激しく前後に振りながら、掛け声とも動物の咆哮ともつかない鋭い叫びを、一定のリズムで反復し始めた。彼女たちは約30分間、位置は不動のまま、短くも全身全霊の叫び声を発し続ける。ひとりの叫びのトーンが少し変化すると、他の声もそれに応答し、時に微妙にズレるリズムは多層的な音響の揺らぎを発生させていく。豊かな反復と差異を湛え、「自律」と「共鳴」の拮抗関係を保ち続けた後、彼女たちはひとり、またひとりと沈黙し、向き合う二人だけとなり、最後のひとりもやがて叫びを停止した。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ここで前者の庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』を振り返ると、「蛸=神を信仰する」というフィクショナルな意味の中心(の空虚さの充填)に向かって、容器(舞台美術の造形的完成度)と振る舞い(宗教儀式の形態的模倣)が全力で投入されていたと言える。だが、舞台美術を作り込めば作り込むほど「つくりもの」感が増し、「みんなでお祭りに参加する楽しさ、エネルギーの発散」はあっても、歌舞音曲を伴う宗教儀式(とそれを起源のひとつとする舞台芸術)が本質的にはらむ「身体的同調を通した集団化作用」に対する批判的契機は見られなかった。観客をどこまで「ノせる」のか?(読経や打楽器のリズムに、あるいは(フィクションと了解しつつ)「(疑似)宗教儀式」そのものに)。「実際に、トランス状態に陥った観客が踊り狂う」事態の出現まで想定していたのか、そこまでの狙いがあったのかは不明だが、観客の身体に対する演出設計について言えば、パフォーミングエリアと客席を明確に分け、「『堂内』にすし詰めで座ったまま、ほぼ身動きが取れない」拘束的な状況は、むしろ足枷となったのではないか。


対照的に、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、そうした意味の中心性が仮構されていなくとも、求心力の弱まりにはならず、むしろ体験の強度が増すことを示していた。そのことは、(パフォーマーが煽らなくとも)「磁場の中心に吸い寄せられるように、観客の輪が自然発生的に縮まる」事態が簡潔かつ雄弁に物語っていた。パフォーマンスが(淡々と、しかし次第に熱を帯びて)進行するにしたがい、初めは遠巻きに取り囲んでいた観客たちは、次第にその輪を縮め、至近距離で眺める人もいた。本作では、観客の身体的振る舞いも(作品要素のひとつとして)計算されている。それは、「その場に不動のパフォーマーたち/座席がなく、自由に移動できる観客」という設計上の対比構造に如実であり、効果的に作用していた。装飾的要素を切り詰めたミニマルに徹しつつ、パフォーマーの声の豊かな振幅の強度によって、「観客の身体感覚に対して遠隔操作的に作用し、その点を反省的に自覚させる」点で、秀逸な作品だった。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]



庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
会期:2019/10/11~2019/10/15
会場:ロームシアター京都 ノースホール

ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』
会期:2019/10/13~2019/10/14
会場:元離宮二条城、平安神宮


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


関連レビュー

庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2019/10/14(月)(高嶋慈)

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|市原佐都子(Q)『バッコスの信女―ホルスタインの雌』

会期:2019/10/11~2019/10/14

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を換骨奪胎し、「性と生殖」をめぐる現代社会批判をポップかつ網の目のように散りばめた、2時間半の大作。市原佐都子がこれまで主題化してきたテーマ──ロマンチック・ラブ・イデオロギーから切り離された「生殖」としての「性」、女性が自身の「性」を語るタブーへの異議申し立て、「男性」が不在・排除された世界、人間/動物の境界の曖昧化、異種交配への強い衝動、そして最終的には食べることも性も「命の連続」「生」の営みとして全肯定する意志── を、ギリシャ悲劇が描く「子殺し」の復讐劇やその形式性と結び付け、現代社会批判として読み替え、さらに音楽劇として昇華させた。昨年のKYOTO EXPERIMENT 2018で上演された『妖精の問題』も衝撃的だったが、さらに突き抜けた深度をもつ怪作である。


本作では、リビングダイニングを舞台に、一見平凡な主婦と、彼女が生み出した「牛と人間のハーフ」である「半獣」の愛憎劇が描かれる。以前は、牧場でホルスタインの雌を人工授精して繁殖させる「家畜人工授精師」だったという主婦。特に好きでもない男と結婚したのは、家事や性欲の処理という「妻の役割」をこなしていれば、賃金労働に就かずに安楽に暮らせるからだと語る小市民的な人物だ。彼女は結婚前、乱交バーで女性とセックスし、「硬いものを経由しなくても柔らかいものに触れることでダイレクトに自分を喜ばせている」喜びに感動するが、直後に罪悪感に陥り、正しい「生殖」をして子どもをつくろうと思い立ち、海外の通販サイトで「日本人男性の精子」を購入する。彼女のなかでは「性(欲)」と「生殖」は分離されており、後者は普段、自分が牛相手に行なう仕事と同じなのだ。彼女は矛盾や分裂を抱えた奇妙な人物であり、ヘテロセクシズムの規範を逸脱しつつ、「結婚」「妊娠出産」という世間的圧力や「生殖に結びつかない性は異端である」という性規範を内面化してもいる。また、「子どもが外見でいじめに合わないように」「精子の国籍」にこだわる彼女は、人種差別主義者でもある。



[Photo:Shun Sato]


しかし、土壇場で臆した彼女は、購入した精子をホルスタインの雌に注入し、「上半身が人間、下半身が牛」の化け物を生み出してしまう。「牛の本能と成長速度」のために、制御できない性欲と肥大したペニスを持て余し、泣き喚く子ども。「エロ本」を教科書として「しつけ」を施す主婦。この「半獣」は、ひとつの体に牛と人間、理性と衝動、男性と女性が入り混じる「半獣半人かつ両性具有」という複数の境界攪乱的な存在だ。手に負えなくなった「半獣」は育児放棄されるが、「変態向けの性風俗」で生活の糧を得て生き延び、主婦が暮らすリビングダイニング、つまり「規範化・制度化された生殖システム」「女性の再生産労働の現場」のなかに回帰してくる。

成長した「半獣」は、山中で「女性を愛する女性のための牧場」を運営し、「バターマッサージ」で互いに愛撫し合うことで、人工授精で精子を注入される苦痛を濃密な快楽に変え、繁殖しているのだと言う。「半獣」が母を再訪したのは、「人間に母乳を搾取された子牛たちの、そして自身も飲めなかった恨みを癒すため、母と交わって自らの生まれ変わり(子)を産ませ、母乳を独占したい」からだ。「半獣」に誘われ、主婦は牧場へ赴きマッサージを受けるが、欲情した「半獣」に襲われ、引きちぎった肉の棒を手に茫然自失でリビングに戻る。「字幕スクリーン」を突き破って(再)登場した「半獣」は、「解放された」「これは母の愛なのでしょうか」と呟き、彼/彼女の浄化と昇天(さらには理性による獣性の制御)を暗示する。「中国では牛のペニスを食べる」「生臭いがコラーゲン豊富」という挿話を挟み、主婦が愛玩犬と「焼肉」を囲むラストシーンはグロテスクだが、ドラマに併走してきたコロスの合唱によって、食べられることは誰かの一部になって生き続けることであり、生を全肯定するポジティブな意志が歌い上げられる。



[Photo:Shun Sato]


そしてこの物語は、会話部分とコロスによる合唱を交互に繰り返すギリシャ悲劇の形式を踏襲し、東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるポップで多彩な楽曲が散りばめられる。「雌のホルスタインの霊魂たち」によるコロスは、清冽なハーモニーで、毒の効いた歌詞を繰り出す。とりわけ、「半獣」を演じ、狂気走ったダンスからファルセットの効いたヴォーカルまでこなすダンサーの川村美紀子の怪演は圧巻だ。



[Photo:Shun Sato]



本作において、女性と「ホルスタインの雌」の二重写しは、批判と肯定の両面を含み、極めて両義的だ。しばしば「巨乳」と同義の「ホルスタイン」同様、男性の欲望に支配・搾取される家畜・奴隷状態であることへの批判(だが男性もまた、ランキング化された精子が「商品」として販売される生殖産業においては、牛と同じである)。一方、「人工授精」は、「半獣」の牧場では、生物学的な「男性」が不在の世界でも、女性だけで生殖できるものとして、ポジティブに読み替えられる。「私たちには(も)快楽への欲求や性欲はある、でも『男』は要らない、なぜならずっと男性の欲望や幻想の道具として客体化・家畜化されてきたからだ」という弾劾と自立への強い意志がここにある。

女性が「性」を語ることへの抑圧、性的な搾取に対する異議申し立てに始まり、「エロ本」を教科書代わりに「学習」する男性の性幻想、国境を越えて拡大する生殖産業、性風俗産業、人種差別(人種の「ハーフ」から「人間と動物のハーフ」に拡張される)、食肉・家畜産業/愛玩犬の対照性が示唆する「動物の搾取」など、現代社会に対する問題提起が、「リビング」すなわち「主婦」「家族」にあてがわれた私的領域において語られ、相互参照し合う。いや、むしろそうした私的領域こそ、性と生殖をめぐるポリティクスに浸食され、管理されているのだ。市原がユニット名に掲げる「Q」に込められた複数の意味──クエスチョン(問題提起)、クィア(「正常」に対する疑義)、そして卵子に侵入した精子の図示──をここで改めて思い起こすべきだろう。

また、すべて女性出演者のみで構成される本作が、「すべて男性俳優により、市民=男性観客だけのために上演されていた」古代ギリシャ悲劇に対するアンチでもある点も看過できない。同日に観劇した劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』が、非常に緻密で洗練された手法で「物語の解体・極北」を示し、(あえて)プロセニアム舞台を用いて「上演すべき物語などない」上演批判・物語批判を行なっていたのに対し、(彼ら「ヨーロッパ演劇」の根本たる)「ギリシャ悲劇」の物語や構造を換骨奪胎して、「いや、女性の側から語り直すべきことはまだある」という、強烈なアンチを突き付けていた。来年、ドイツで開催される世界演劇祭への正式招待も決まっている本作だが、国内での再演も強く希望したい。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


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2019/10/13(日)(高嶋慈)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』

会期:2019/10/10~2019/10/14

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、現実/演じられたフィクションが秘かに通底する共犯関係、感情移入の回路とその露悪的な暴露について、「共同体の夢」であるナショナリズムや戦後日本社会が清算できない加害のトラウマと結び付けて提示する映像作品を制作してきた小泉明郎。VR技術を用いた上演形式の作品が、あいちトリエンナーレのパフォーミングアーツプログラムのひとつとして発表された。本作の肝は「二部構成」にあり、「前半30分」で観客がVRのヘッドセットを付けて知覚のめくるめく拡張を体験した後、「後半30分」では、同じ語りが、「見る/見られる」「虚構/現実」の反転とともに、没入/客観視、恍惚/覚醒、知覚の解放感/身体的束縛の落差をもって(再)体験される。

「前半」では、「子どもの頃に見たSF映画の続き」を夢見る、ある男性の語りが、ゴーグル越しのVR映像とともに展開される。徐々に身体が動かなくなり、呼吸も困難になっていったこと。自分の口で最後に言える言葉は「ありがとう」だろうと言う彼は、死後の魂の世界、そして自分の脳がコンピュータと繋がったSF的未来を夢想する。そこでは自己と他者、過去と未来が繋がり、彼は自分の(想像上の)息子と触れ合う喜びについて語る。VR映像は、初めモノリス/棺を思わせる黒い直方体だったものが無数の立方体に分裂し、不安の塊のような黒い球体が増殖した後、死後の世界やSF的未来の想像シーンでは、魂が雲上を浮遊する臨死体験的な感覚や、過去と未来を行き来する高速の光の矢に包まれるような感覚を味わう。



[Photo:Shun Sato]


一転して後半では、観客はVRのヘッドセットを外し、「VR体験空間」の裏に用意されていた、狭い通路上の空間に誘導される。対面する壁には「覗き窓」が開けられ、「次の上演回の前半」を体験中の観客たち(=過去の自分自身の鏡像)を眼差すことになる。また、モニターに流れる映像には、電動車いすに乗ったALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性が、かろうじて動かせる口回りの筋肉を使って、必死に発話する様子が映し出される。

スクリーンの表/裏の同期/ズレに仕掛けられた虚実の反転や「タネ明かし」、「逆再生」という時間的反転による意味の反転といった構造や、それがもたらす後味の悪さや残酷さは、これまでの小泉の映像作品においても顕著な特徴であった(例えば、故郷の母を気遣う電話(に見えたもの)が事務的な応対を繰り返すコールセンターの担当者との不毛なやり取りにスライドする《僕の声はきっとあなたに届いている》、戦地に赴く夫と見送る妻の「感動のドラマ」(に見える映像)が裏側の「メイキング」で暴露される《ビジョンの崩壊》、第二次大戦中に大陸で子どもを殺害した日本兵の証言が、実は事故で記憶障害を患う男性のおぼつかない暗誦であり、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する《忘却の地にて》、「逆再生」により、「宣言」と「蘇生」の儀式が「断罪」と「集団処刑」に反転する《私たちは未来の死者を弔う》など)。

本作においても、こうした反転作用や後味の悪さが複数の層で体験され、見る者にさまざまな問いを突きつける。それは、VR技術(ひいては、集団で虚構世界に没入する「演劇」)そのものや、私たちの知覚や想像力に対する反省的問いでもある。VRの疑似体験によって、知覚を拡張し、あるいは他者の知覚世界や感情をどこまで共有できるのか? それは、ALS患者の男性の独白であることが明かされることで、不可能性と切実な希求の落差として差し出される。また、VRがもたらす全能感にすら満ちた没入体験は、「今ここにいる私の身体」を希薄化し、ほとんど消去するが、その事態は「実際に身体が不随意な障害者」へと反転させられる。その落差を突きつけられる居心地悪さは、「自分自身の鏡像を見ること」に加えて、「無遠慮にまじまじと見るべきでない」とされる障害者の姿を直視し続けねばならないという、二重、三重に増幅されたものとして体験される。知覚が拡張される解放感と、「指示された座席に座り続けねばならない」という束縛。だがこの「束縛」は、(VR装置を外したにもかかわらず)「彼」の身体環境の疑似体験でもある点では、一種の希望の回路でもある。ここに、単なるVR/演劇批判を超えた、本作の真の意義がある。

最後に発せられる「私たちの垣根は無くなる 私たちはひとつになる」という宣言は、他者への共感と包摂に満ちた希望的未来の到来なのか? それとも、「個」が「全体」へと同化吸収されるディストピアなのだろうか。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


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2019/10/13(日)(高嶋慈)

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