artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
藤安淳「empathize」
会期:2017/07/04~2017/07/15
藤安淳は、双子である自身と弟の身体パーツを同じフォーマットで互いに撮り合った処女作《DZ dizygotic twins》から出発し、他の双子を撮影したポートレイトのシリーズ《empathize》を発表してきた。本個展では、既発表作に新作を加え、「双子」を軸に3つの異なるアプローチが展開されている。
それぞれを概観しよう。1)「双子」の一人ずつを独立したフレームに収め、自室や思い出の場所で個別に撮影したポートレイトを2対で展示するもの。藤安の撮影方法の特徴は、ダイアン・アーバスや牛腸茂雄のように、「双子」を2人1セットとしてひとつのフレーム内に収めるのではなく、それぞれを私的背景とともに個別のフレームに収めることで、「独立した個人」として扱う点にある。そこでは「双子への眼差し」は、フォトジェニックあるいは奇異な対象と見なすことから解放され、顔が似ているだけに、微妙な表情の差異、服装の趣味や生活空間の違いが逆に浮かび上がる。また、新たな試みとして、2)「双子」(子ども)と両親、「双子」(親世代)とそれぞれの子どもを「家族写真」として撮った作品がある。双子という横軸の限定性に、親子という縦軸が加わり、被写体の「類似と差異」は、より時間的な厚みの中で眼差されることになる。さらに、3)「双子」それぞれの顔写真2組を、表情を変えて撮り、「証明写真」を思わせるフォーマットで展示した作品も発表された。この手法はより撹乱的であり、「同じ1つの顔を4つの表情で撮ったのか?」「メイクや髪型、服装を変えて撮ったのか?」「数ヶ月間のスパンで撮ったのか?」と鑑賞者をはぐらかす。だが細部を仔細に観察すれば、ホクロの位置などの微細な違いで、かろうじて別人と識別できる。
ここで、藤安自身と双子の弟を、頭部の正面像、耳、胸、腹部、腕、手や足の指といったパーツ毎に切り取り、厳格な同一フォーマットで撮影した《DZ dizygotic twins》を思い出してみよう。モノクロームで撮影されていることも相まって、それらは明らかに、「ベルティヨン式」の司法写真アーカイヴを想起させる(「ベルティヨン式」とは、再犯者の身元同定のため、頭部、耳、手指など犯罪者の身体パーツを撮影し、計測データとともに記録するシステムであり、1880年代フランスでA・ベルティヨンが確立した)。両者に共通するのは、データベースとしての写真の集合体を用いて、身体的特徴の類似と差異に基づき、個人を特定する手続きである。また、上述の3)において「証明写真」風のフォーマットが採用されていることからも、藤安の写真において真に主題となるのは、目を引きがちな「双子」というモチーフではなく、「写真とアイデンティファイ」の問題である。声のトーンや身振りのクセといった視覚情報以外のものを削ぎ落とす写真は、その人をアイデンティファイするための手段や拠り所でありつつ、アイデンティファイすることを無効化してしまう、というアポリアが前景化する。
従って、藤安作品は正確には「双子を撮った写真」ではない(アーバスや牛腸のように同一フレーム内に収めないことが証明するように。あるいは「家族写真」という別の枠組みへと回収されるように)。「極めて類似した、しかし同一ではない」ものを前にしたとき、「表面」しか写せず、視覚情報に還元してしまう写真は、その証明性の確かさと根源的な不確かさを同時に露わにするのである。だが一方で、ポートレイトとしての魅力が、写真をめぐるそうした思弁的思考に陥ることから、藤安作品を救い上げている。
2017/07/15(土)(高嶋慈)
林葵衣「声の痕跡」
会期:2017/07/08~2017/07/16
KUNST ARZT[京都府]
文字言語と異なり、「声」はその人の発した身体から切り離せず、その場限りの現象として消えてしまう。林葵衣は、声の現前性を機械の録音によって代補するのではなく、発音する口と支持体との物理的接触の痕跡として可視化する。唇に口紅や顔料を塗り、単語を発音しながら唇の形を転写するという方法は一貫しているが、支持体は、キャンバス、ギャラリーの壁、透明なガラスなどさまざまだ。肺に溜まった空気が押し出され、声帯が振動し、肉と骨で充満した体内を共鳴させながら、口腔を通って外へと放出されること。そうした声のエフェメラルな現象性や発語行為の身体性への林の関心は、俳優の発語する身体と不可分の演劇と親和性が高い。近年の林は、翻訳、異言語の共同体への越境、そこで生じる身体的違和感や抑圧、声の物質性を扱った演劇作品(したため#4『文字移植』、#5『ディクテ』)の2作の舞台美術を手がけ、作品世界に大きく貢献した。
キャンバスに唇の形の転写を重ねた作品は、「抽象絵画」(とりわけ、ピンクを基調とした松本陽子の絵画)を思わせる。そこでは、一つひとつの発語はもはや聴き取れないものの、物質的には静的なはずの画面が絶えず流動し、泡立ち、無数のざわめきが振動と共鳴の中で渦巻いているような密度として立ち上がる。一方、ギャラリーの壁に、左から右へと横一列に転写を連ねた作品では、波形のように連続しながら移ろう形、徐々に薄れゆく色の濃度、尾を引くように揺らめきながら消えていくかすれが、音とともに漏れる吐息や感情の濃度、空気の振動といった、文字言語では削ぎ落される身体的・感覚的な要素を強く示す。また、林が発したそれらの言葉が、部屋の外から聴こえてきた音や会話、ギャラリーがかつて喫茶店だった頃の記憶や店名であることも重要だ。あらゆる空間は、可聴的な音としては失われただけで、そうした「無数の聴こえない残響」で満ちているのだ。
痕跡は、物理的な身体が「不在」であるがゆえに、より強くその存在感を喚起させる。かつてその場所で発された声や音の粒子の一粒が遠く尾を引き、わずかでもその名残を留めていないか、耳をそばだてること。そうした聴取の態度へと誘う林の関心が、過去や記憶(の共有)へと向かうのはある種の必然だろう。例えばあるキャンバス作品では、父親との会話の中で、父が語った記憶を林自身が発話した「声」が刻印されている。場所や他者の記憶を語り直す、すなわち自身の身体を媒体として通り抜けた声=記憶であること。それは、記憶の分有作業であり、「二重の痕跡」であり、一度失われたものを「声」として再生させ、身体の痕跡として留めようとする、ささやかな追悼にも似た身振りである。
またそこには、発語した身体の痕跡に加え、時間性も内包されている。唇の転写を重ねた作品と、左から右へとフレーズ毎に転写を連ねた作品では、「時間の可視化」の点で相違がある。前者では、パランプセストのように時間の積層化の奥行きが示され、後者では、五線譜のように左から右へと流れる単線的な時間の流れが可視化されている。
林の作品は、生理的な身体感覚の喚起とともに失われた「声」への想起を促す、新たな書記法の開発である。
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2017/07/08(土)(高嶋慈)
キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917-2017「Case 2: He CHOSE it.」
会期:2017/06/14~2017/08/06
京都国立近代美術館[京都府]
男性用小便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。「Case 2: He CHOSE it.」でキュレーターを務めるのは、美術作家の藤本由紀夫。《泉》に加え、デュシャンの構想メモを収めた《不定法にて(ホワイト・ボックス)》と自作を並置した展示を行なった。
展示空間は二つに仕切られ、片方では、《不定法にて(ホワイト・ボックス)》を取り囲むように藤本作品が並ぶ。コンパクトミラーの片側に記された「ECHO」の文字が、直角で向かい合う鏡面に映し出され、文字通り反響する《ECHO(A RIGHT ANGLED)ver.2》。手前のアクリル板に「here」という単語が刻まれ、アクリルの透明な厚みを透かして「t」の文字が重なると「there」の単語が浮かび上がる《here& there》。デュシャンの通称《大ガラス》にちなんだ作品としては、「la vierge」(処女)と「la Mariée」(花嫁)という両立しない意味の単語が、見る角度によって交互に錯視的に浮かび上がる《passage(la vierge/ la Mariée)》がある。《不定法にて(ホワイト・ボックス)》から選ばれたメモは、「鏡」「反映」「投影」に関する内容のものであり、鏡という素材や反射という性質、デュシャンへのオマージュといった観点からこれらの藤本作品が並置されていると理解できる。だが、これらの藤本作品は、言葉を用いたコンセプチュアルアートを詩的化かつ3次元のオブジェ化したものと解されるべきであり、その点で「鏡」という素材レベルでの共通性やオマージュに留まる。
むしろ問題提起的だったのは、もう片側の空間で展開された《泉》の展示である。展示台に後ろ向きで載せられた《泉》の前には、「合わせ鏡」が設置され、鏡に映った4つの虚像と《泉》の背面という虚実入り混じった5重のポートレイトをカメラがまさに撮影しようとしているのだ(さらに古い大判カメラの背面のピントグラスには、淡く発光するような倒立像が写っている)。この仕掛けは、「合わせ鏡を用いたデュシャンの5重のポートレイト」を《泉》に置き換えたものである。私たちが見ているのは《泉》か、《泉》の鏡像か、(撮られるべき)5重のポートレイトか? もしシャッターが切られたら、そのイメージの所有者は誰か? デュシャンか、藤本か、撮影者の位置に同化する観客か? 《泉》が当初、無資格無審査を謳うアンデパンダン形式の展覧会に「R. Mutt」という偽名で出品されたことを考えるならば、ここでの事態は、さらに錯綜する。キャプションは、「マルセル・デュシャン《泉》1917/1964 小便器(磁器)/手を加えたレディメイド」と告げるが、「デュシャン」という作者名は「R. Mutt」へと分裂して二重写しになり、さらにその背後には「キュレーター:藤本由紀夫による」という不可視の名前が書き込まれているのだ。「He」とは、デュシャンであり、藤本でもある。藤本が美術作家であることも、事態をより複雑化させる。ここでの藤本は、「作家」なのか「キュレーター」なのか? 作家がキュレーションを行なう場合、それは「作品」と見なしうるのか? 問いは分岐し、鏡に映った4重の鏡像のように分裂する。
このように本展は、単にオマージュ的な身振りにとどまらず、「キュレーション」の持つ創造性や作品性へのある種の接近、キュラトリアルな実践の拡張やその外延の曖昧さ、「作者名」の登記といった問題を(まさに《泉》が問題提起した)「美術館」という場で再提示した点に意義がある。
2017/07/08(土)(高嶋慈)
澤崎賢一『動いている庭』
会期:2017/06/24~2017/07/07
第七藝術劇場[大阪府]
フランスの庭師、ジル・クレマンの「動いている庭」という思想を、彼の原点となった自宅の庭とともに紹介するドキュメンタリー映画。クレマンの庭師としての基本的姿勢は、植物や動物との共生、自然の変化、生物多様性を尊重することにある。例えば、生育の早い植物が道を塞ぎそうになったら、植物を引き抜く代わりに自分の歩く道を変える。大木が倒れた後の地面に一斉に種子が芽吹いたら、雑草として抜くのではなく、自然に生えた草をそのままにしておく。生物多様性を守るため、昆虫を殺虫剤で殺さない。自身の仕事は「引き算の手入れ」であり、「できるだけ合わせて、なるべく逆らわない」と語るクレマン。その結果、「庭」は毎年、姿もかたちも変え、年によって違う色の花が咲くと言う。「谷の庭」や「野原」と名付けられた広大な庭は、管理された「庭」というより、雑木林や草原のようだ。映画は主に、自宅の庭を案内しながら語る姿、日本での講演の様子、そして日本での滞在時のシーンが交互に展開して構成されている。
ただし、監督自身が記しているように、クレマンの「庭」を訪れて撮影したのは、8月中旬のわずか1日半ほどの滞在だった。映画タイトルからは、「季節ごと、数年のスパンで『動いていく』庭の動態的な姿」を定点観測的に記録したのかと期待したが、そうではなかったのが惜しまれる。むしろカメラが捉えるのは、自身の庭で、日本での講演で、「動いている庭」という哲学を言葉で語るクレマンの姿だ。また、日本での滞在では、庭園史研究者や京都の寺院の庭師らとも交流するが、どちらかと言えばオフショット的な扱いに寄りがちで、互いの自然観や「庭」の文化史の相違や共通点について、もっと突っ込んだ議論があれば、とも思う。
それでも、冒頭と終盤近くに長回しで撮影された、庭で淡々と手入れを行なうクレマンの、身体に染み込んだ一連の所作は流れるようで美しい。小雨が降る中、空気に漂う湿り気やみずみずしい植物の匂いも感じられるようだ。なお、クレマンの思想をより知るためには、映画にも登場した庭師・庭園史研究者である山内朋樹の訳による『動いている庭』がみすず書房から出版されている。
公式サイト:http://garden-in-movement.com
2017/07/06(木)(高嶋慈)
プレビュー:時差『隣り』
会期:2017/08/30~2017/09/03
green & garden[京都府]
「時差」は、特定の演出家や劇作家によるカンパニーではなく、複数のアーティストが同じコンセプトを共有しながら、それぞれの作家による新作公演をプロデュースする企画団体である。京都の若手制作者である長澤慶太によって2016年に立ち上げられた。第1回目の企画「動詞としての時間」では、精神科医の木村敏の著作を読み、「臨床哲学」の言葉を手がかりに、演劇、ダンス、映画作品を制作している。参加アーティストは、和田ながら(演出家)、城間典子(映画監督)、村川拓也(演出家、ドキュメンタリー作家)、岩淵貞太(ダンサー、振付家)であり、京都在住もしくは京都で発表歴のある気鋭のアーティストが名を連ねる。
今回の「動詞としての時間」第2回公演では、城間典子による映画『隣り』が上映される。この作品は、城間の幼馴染であり、統合失調症と診断された女性との共同制作による。映画は2つのパートから構成され、1)幼馴染の女性が、10代の頃、心のバランスを大きく崩した冬から春にかけて、彼女自身が「劇映画」として再現するパートと、2)その4年後に城間が再び彼女を訪ね、現在の様子を撮影したドキュメンタリーから成っている。発病当時、京都造形芸術大学の映画学科に在学中だった城間と、過去に演劇部に所属し、俳優を志していた彼女とのあいだで、1)の劇映画をつくることは自然な成り行きだったという。編集は城間に任されたが、4年かかっても終わらず、再び城間が彼女を訪ねたことを契機に2)が生まれた。そこには、一緒に劇映画の編集作業を行なう二人の様子とともに、通院を続け、絵を描きながら家族とともに暮らす彼女の日常生活が記録されている。本人の再現による「劇映画」とドキュメンタリーから成る構造は、ドキュメンタリー/フィクションという単純な二元論の解体についての問いを提起する。加えて、親密な関係のなかでカメラを向けるという被写体との距離感、病を抱えて生きることの困難とそこに寄り添って眼差しを向ける営みについてなど、さまざまなトピックを喚起する映画になるのではと期待される。
公式サイト: http://kyotojisa.wixsite.com/jisa
2017/06/30(金)(高嶋慈)