artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──
会期:2017/03/02~2017/03/04
フラッグスタジオ[大阪府]
身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出/振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催されたドキュメンタリー映画祭。東日本大震災以降の東北に暮らす人々の「語り」に耳を傾けながら、記録し続ける映画監督、映像作家たちの作品計4本が上映された。上映作品は、『波のした、土のうえ』(監督:小森はるか+瀬尾夏美)、『ちかくてとおい』(監督:大久保愉伊)、『なみのこえ 気仙沼編』(監督:酒井耕、濱口竜介)、『うたうひと』(監督:酒井耕、濱口竜介)。
4作品はいずれも、「語ること」の位相がもうひとつの主題である。『なみのこえ 気仙沼編』と『うたうひと』については、同じく関連プログラムとして開催された「東北記録映画三部作」上映会のレビューで触れたのでここでは詳述しないが、カメラワークのトリッキーな仕掛けにより、「語り手」と擬似的に対面する「聞き手」へと鑑賞者を転移させる装置としてはたらく。また、大久保愉伊の『ちかくてとおい』は、かさ上げ工事で土に埋もれてしまう故郷、岩手県大槌町の姿を、震災後に生まれた姪へ向けて映像と言葉で伝えようとする作品。監督自身から姪へ、という個別的で親密な関係性の上に成り立つあり方は、『なみのこえ』の「語り手」と「聞き手」の関係性(夫婦や親子、友人など)とも共通する。
一方、小森はるか+瀬尾夏美の『波のした、土のうえ』では、被写体となる陸前高田の住民へのインタビューを元に、瀬尾が一人称で書き起こした物語を、もう一度本人が訂正や書き換えを行ない、本人の声で朗読する。その声と町の風景を重ねるように、小森が映像を編集した作品だ。物語としての書き起こしと、本人の声による朗読。それは一種の共同作業であり、「声を一方的に簒奪しない」という倫理的側面を合わせ持つ。また、語った言葉そのままでない距離の介在は、自身の経験や感情を客観化する過程であり、生々しさが和らぐ分、「共有できなさ」の心理的な溝が縮まると同時に、プロのナレーターのように矯正していない発話に残る訛りやイントネーションは、他者性を音声的に刻印する。
最後に、本映画祭の「みちのくがたり」というタイトルの含みについて。4作品はいずれも、みちのく(東北)についての語りであると同時に、「ドキュメンタリー」における「語りのあり方」の新たな発明の必要性、語ることとその記録との関係をどう更新するか、という問いの地平を開いていた。
関連レビュー
酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会|高嶋慈:artscapeレビュー
2017/03/04(土)(高嶋慈)
酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」上映会
会期:2017/02/09~2017/03/01
茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]
身体を通して震災の記憶に触れ継承するプロジェクト/パフォーマンス公演『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)の関連プログラムとして開催された、ドキュメンタリー映画の上映会。酒井耕・濱口竜介の共同監督による「東北記録映画三部作」全四編が4日間に分けて上映された。第一部『なみのおと』(2011)は、震災から約半年後、岩手から福島にかけての沿岸部で暮らす人々の「対話」を記録したもの。第二部『なみのこえ』(2013)は「気仙沼編」と「新地町編」から成り、震災から約一年後に同様の手法で撮影された。震災の体験談に始まり、「故郷とは何か」という問い、街や産業の将来への不安や希望、今の心情が語られるなか、夫婦、親子、兄弟、友人、職場の同僚、といった関係性や相手との距離感の遠近が次第に浮かび上がってくる。それは「被災者」という記号を解除させ、二人の関係性の中に浮き上がるその人個人の人柄や考え方へと見る者を引きつけていく。一方、第三部『うたうひと』(2013)は、「みやぎ民話の会」の小野和子を聞き手に、高齢の民話の語り手たちが民話を語る様子を記録した作品。民話語りの後には小野による考察が語られ、先祖たちの厳しい暮らし──女性が嫁ぎ先で味わう苦労、水の権利と貧富の差など──が背景にあることが示される。
ここで、『なみのおと』『なみのこえ』(被災経験者の語り)と『うたうひと』(民話の語り)が「三部作」としてまとめられた意味と、一見隔たった両者の関連性を考えるには、第三部の『うたうひと』から折り返して考えた方が分かりやすいかもしれない。子どもの頃、祖父母や親から繰り返し聞いた民話を受け継ぎ、今度は自分が語り手となることは、すなわち他者の記憶を生きる、(死者も含めた)他者の声を自分の身体に宿すことを意味する。そこでは、目の前で対面する身体から発せられる声はひとつの声ではなく、背後に無数の声が流れ込んでいる。では、「震災の記憶」を語り継ぐ人はいるのか? 民話がひとりの人生を超える命脈を保ち続けてきたように、「震災の記憶」も世代を超えて継承されていくのか? こうした危機的な問いが、おそらく制作の根底にある。長期的な避難や移住による離散、コミュニティの消滅により、予想される「震災の記憶の語り手」の不在。また、記憶の継承は、民話の口承伝達がそうであるように、「語り」だけでなく、「語る─聞く」共時的な関係がなければ成立しない。
そこで、本三部作が採用するのが、カメラワークの創造的/想像的な仕掛けである。固定カメラが真横から映していた2人の「対面」が、いつの間にか、話し手/聞き手の姿を「真正面」で捉えるショットに替わっている(つまり彼らは、実際には対話相手でなくカメラに向かって喋っていることになる)。撮影と編集上のトリックだが、見る者はあたかも映像の中の彼らと同じ空間に身を置いて対面しているような感覚を味わい、擬似的な「聞き手」の位相に転移させられてしまうのだ。このとき映像は、単に記録メディアであることを超えて、時空間の共有を擬似体験させる装置となる。
だからこそ、「わたし」と「あなた」という関係性を成立させる想像力の駆動のためには、鑑賞・受容のあり方も一考すべきではないか。巨大なハコの中で、屹立する大スクリーンを前に、匿名化した集合的な観客として受容する鑑賞体験ではなく、ほぼ等身大のプロジェクションとごく少数人で(理想的には1対1で)向き合う親密な受容体験が望ましい。その意味で本三部作は、「他者の記憶の継承」という点から記録メディアのあり方への再考を促すとともに、「映画」の受容・鑑賞の様態への問い直しも射程に含んでいる。
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みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──|高嶋慈:artscapeレビュー
2017/03/01(水)(高嶋慈)
プレビュー:國府理 「水中エンジン」再始動!!!
会期:2017/04/01
2014年に急逝した國府理の《水中エンジン》(2012)は、國府自身が愛用していた軽トラックのエンジンを剥き出しにして巨大な水槽の中に沈め、稼働させるという作品である。動力源となる心臓部が、水槽を満たす水によって冷却されて制御されつつ、部品の劣化や浸水など頻発するトラブルの度に一時停止とメンテナンスを施されて稼働し続ける不安定で脆い姿は、原発に対する優れたメタファーである。何本ものチューブや電気コードを接続され、放熱が生む水流の揺らぎと無数の泡のなか、不気味な振動音を立てて蠢くエンジンは、培養液の中で管理される人造の臓器のようだ。エンジンから「走る」という本来の機能を奪うことで、機能不全に陥ったテクノロジー批判を可視化して行なうとともに、異物的な美をも提示する作品であると言える。
國府の創作上においても、「震災後のアート」という位相においても重要なこの作品は現在、インディペンデント・キュレーターの遠藤水城が企画する再制作プロジェクトにおいて、國府と関わりの深い技術者やエンジン専門のエンジニアらの協力を得ながら、再制作が進められている。解体され、オリジナルの部品が失われた《水中エンジン》を再制作し、再び動態の姿での展示が予定されている。國府自身が悩み手こずった作品を、残された記録写真や映像、展示に関わった関係者の記憶を頼りに再現する、非常に困難な作業だ。4月1日には、再制作の作業現場である京都造形芸術大学内のULTRA FACTORYにて、一般公開とトークが予定されている(15~17時、要予約)。
その後は、「裏声で歌へ」展への出品(小山市立車屋美術館、4月8日~6月18日)、オリジナルが発表された京都のアートスペース虹での展示「國府理 水中エンジン redux 」(7月4日~7月30日)と展開していく。一連の展示やトークイベントを通して、再制作という営為とオリジナルの関係性、不完全さや危険性を内包した作品の動態的なあり方が提起する「自律性」への問い、國府作品の再検証、原発への批評性など、複数のトピックを提起する機会となるだろう。まずは、《水中エンジン》が再び動き出す日を楽しみに待ちたい。
公式サイト:https://engineinthewater.tumblr.com/
2017/02/27(月)(高嶋慈)
プレビュー:裏声で歌へ
会期:2017/04/08~2017/06/18
小山市立車屋美術館[栃木県]
今号のプレビューでも取り上げた、國府理「水中エンジン」再制作プロジェクトの一環であり、同プロジェクトの企画者である遠藤水城がキュレーションするグループ展。時代の「音」、「声」をテーマに、再制作版の國府理《水中エンジン》のほか、大和田俊、五月女哲平、本山ゆかりの3名の現代美術作家による新作、美術館の最寄りの中学校の合唱コンクールの映像、富士山や戦闘機などが描かれ、日清、日露、太平洋戦争など時代を映し出す「戦争柄の着物」が出品される。昨秋、「奈良・町家の芸術祭 はならぁと2016」において、地域の案山子巡りと同居する形で開催された展覧会「人の集い」に続く、遠藤による連続展覧会「日本シリーズ」の第二弾となっている。現代美術作品に加え、地元中学校の合唱コンクール、戦争柄の着物という資料を並置することで、それぞれの人の営みのなかからどのような視座が浮上するだろうか。
2017/02/27(月)(高嶋慈)
五線譜に書けない音の世界~声明からケージ、フルクサスまで~
会期:2017/02/26
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
京都市立芸術大学 芸術資源研究センターの記譜法研究会が企画したレクチャーコンサート。スタンダードな五線譜によらない記譜(図形的な楽譜など)をテーマに、声明(仏教の法要で僧侶が唱える音曲)と、ジョン・ケージやフルクサス、現代音楽における図形楽譜を架橋する試みが行なわれた。
第1部「声明とジョン・ケージ」では、声明の記譜法についてのレクチャーの後、ケージの《龍安寺》を天台宗の僧侶が声明で披露。伝統音楽・芸能と現代音楽、東洋と西洋の架橋が音響的に試みられた。第2部「記譜法の展開」では、現代音楽に焦点を絞り、足立智美、一柳慧、塩見允枝子の3作品が上演された。足立智美の《Why you scratch me, not slap?(どうしてひっぱたいてくれずに、ひっかくわけ?(1人のギター奏者のための振り付け))》は、ギター奏者の両手の動きを映像で記録した「ビデオ・スコア」を元に演奏するというもの。音を生み出す所作をインストラクションとして言語的に指示するのではなく、音を生み出す身振りの記録映像が楽譜として機能する。生身でなく、映像に記録された身振りではあるが、1対1で対面して「手本」の身体的トレースを行なう様子は、むしろ古典芸能の稽古・伝承に接近する。
一方、一柳慧と塩見允枝子の作品では、図形楽譜やインストラクションに従いながら、複数人がさまざまな楽器や声、身体の音を用いて同時進行的に演奏を行なう。楽譜のスタート地点の選択や音の出し方の幅は即興的な揺らぎを生み、「アンサンブル」として間合いの意識が発生することで、スコアに基づく「上演」ではあるものの、一回性の出来事に近づいていく。塩見はレクチャーの中で、「言語能力、記述の正確さが求められる」と語っていたが、指示の曖昧さを回避するそうした努力の一方で、スコアの規定のなかに、演奏者の能動的な関わりや創造的なリアクションを生み出す余白や伸びしろをあらかじめどう盛り込むかがむしろ問われるだろう。それは制限が課された中での逆説的な自由かもしれないが、記譜とパフォーマーの間にある種の相互作用や循環が起こることで、記譜が引き出す創造力が発揮されるのではないか。「五線譜」という近代音楽の制度化されたフォーマットへの疑い、オルタナティブな記譜法の開発・創造であると同時に、記譜と創造的振る舞い、「開かれ」のあり方について改めて考える機会となった。
2017/02/26(日)(高嶋慈)