artscapeレビュー

したため#5『ディクテ』

2017年07月15日号

会期:2017/06/22~2017/06/25

アトリエ劇研[京都府]

テレサ・ハッキョン・チャによる実験的なテクスト『ディクテ』(1982)は、演出家の松田正隆による舞台化や山田うんによるソロダンス作品など、身体と発語をめぐる俎上に幾度も載せられてきた。京都を拠点に、演出家の和田ながらが主宰する演劇ユニット「したため」は、台本を用いず、出演者への取材を元に言葉を構築する方法論から出発し、近年は、自由律俳句や小説など、戯曲でない(演劇の舞台を前提に書かれていない)テクストを上演する手法を試みている。前作『文字移植』では、日独の両言語で執筆する多和田葉子の同名小説を、「演劇」として上演した。「翻訳」の(不)可能性、言語の物質性、異言語の発話に伴う身体的苦痛、ポストコロニアルや男性中心主義への批評といった主題に対して、俳優の身体表現と声、舞台美術によって、テクストの密度を音響的・立体的に立ち上がらせることに成功していた。次なる挑戦として、『ディクテ』が選ばれたことは必然と言える。
『ディクテ』では、冷戦構造下で強まる韓国の軍政を逃れるため、家族とともに少女期にアメリカへ移住し、コリアン・ディアスポラとして二重化された生と言語を生きるチャ自身の苦痛に加えて、日本の植民地支配により母語を剥奪された母の世代の記憶が語られる。さらに、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と称される三・一独立運動の闘士ユ・グァンスンなど歴史的な女性の名前が召喚され、自伝的要素と世界史的な地平が交錯する。それらは通常の句読法を逸脱した詩的言語に加え、フランス語の書き取り練習(ディクテーション)、翻訳問題、カトリックの教義問答、映画の台本、手紙など多様な文体のコラージュで構成される。さらに、英語とフランス語に漢字やハングルが混じり、多言語が使用された、極めて多層的で異種混淆的なテクストである。
したためによる『ディクテ』では、前作同様、美術作家の林葵衣による舞台美術の力を活かし、テクストがはらむ複数の問題─とりわけ他者の言語によって身体を領有化される苦痛、発話主体の複数性・多重性─を、身体化された風景として可視化していた。俳優たちは、ちょうど顔の高さに張られた、半透明の薄い膜ごしに客席と相対するため、「顔」つまり明確な主体を特定できない匿名的な言葉として発せられる。異言語による侵犯と母語の禁止という二重の苦痛について語ろうとする行為は、発話行為の身体性や物質的側面を露わにする。半透明の膜に強く押し付けられ、くぐもる声。息の振動で震える膜。俳優たちは口を大きく開けたまま凝固し、聴こえない叫びが空間をこだまする。あるいは隣で話す者の口の動きが真似され、口々に発語する声の多重的な音響によって、発話主体が分裂し多重化していく。この傷を縫い閉じられるのか? いや、傷口は閉じられるどころか、「書き取りなさい」と命令する声に従い、文法問題の例文を復唱するいくつもの口によって、半透明の膜(おそらくオブラート)は舌で舐められて溶かされ、食い破られ、ボロボロに千切られていく。


撮影:守屋友樹


俳優たちは、荒野のように石ころが転がる空間の中を、石を口に咥えたままさ迷い歩く。容易に噛み砕けないそれは、声を封じ、重しとしてのしかかる沈黙の強制だが、一方で口に咥えた石は、親鳥がヒナに餌を与えるように、口移しで他の俳優へと渡される。言語は重荷であるが、母語(mother tongue)すなわち口から口へと継承され、分け与えられる存在でもある。また、秀逸だったのが、「わたし」「わたしたち」「あなた(たち)」「彼ら」「彼女」といった代名詞が多用される箇所で、発語された代名詞が、筆記体の英単語の連なりとして壁にチョークで書かれていくシーンだ。一本の線で途切れなく続く「i」「we」「you」「they」「she」は、切り分けられず連続性の下にあることを示す。だがそこに、照明の赤いラインが投射されることで、国境、民族、言語といった分断する線が浮かび上がる。


撮影:守屋友樹


「わたし/あなた/彼ら」として差異化する言葉がボーダーラインとして可視化されること。そこに、朝鮮戦争と軍政を契機に故国を離脱し、アメリカ国籍取得後、後年になって韓国を訪問した際に、「外国人」扱いされたチャの苦い経験が重なる(露骨な「身体検査」のシーン、とりわけ2人の男優に挟まれた女優がスカートをまくり上げられるシーンは、ジャンヌ・ダルクの「処女検査」を連想させ、性的な視線とともに女性の身体へ向けられる暴力を可視化する)。国籍の離脱と、故国で味わう差別。それは、「故郷を二度失う」体験である。「お母さん、禁じられた言語があなたの母語」「母語はあなたの隠れ家」とチャは母に呼びかける。満洲の朝鮮人集落へ日本語教師として赴任したチャの母もまた、母語=故郷を剥奪されて生きる者だった。
では、そうした母語=故郷の「二重の喪失」という傷を刻まれ、英語という他者の言語で書かれたテクストを、「日本語=母語」で発語する舞台は、「故郷としての母語」の内に安住したままではないのか? という矛盾・アポリアがここで露呈する。おそらくこの点が、『ディクテ』というテクストに対して、言葉を扱う「演劇作品」として対峙する際に立ちはだかる、最大のクリティカルポイントである。したための『ディクテ』は、「他者を体内に容れる」という身体的経験について俳優が実況的に話すという構造や発語主体の交換可能性の中に、一種のメタ演劇的な性格を有していた。だが、二重の喪失に抗って話す「膿みうずく苦痛」に対して、母語の内部という安全地帯に留まるのではなく、それを内側から食い破り、傷を付けて押し広げ、内破するだけの力を持っていたか? チャレンジングなテクストに挑んだからこそ、あえて批判を呈したいと思う。

2017/06/23(金)(高嶋慈)

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