artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
チン・ユウジュウ「軍歌と恋歌」
会期:2017/04/12~2017/04/23
元・淳風小学校[京都府]
「台湾語の流行歌が日本語の軍歌に改変された」という史実を基に、歴史、ジェンダー、文化的アイデンティティへの考察を織り交ぜた秀逸な映像作品。左側の画面には、無表情のまま遠くへ視線を送る若い女性たちが映され、右側の画面には、海から見た陸地、都市の河辺、波の打ち寄せる浜辺、そして穏やかな水面が淡々と映し出されていく。日本と台湾両国で撮られた、女性たちと水辺の情景の上に流れるのは、懐かしさとエキゾティックな印象を与える甘美な歌声である。逢えない恋人への思慕を月夜に歌う台湾語の歌が流れた後、同じメロディに乗せて日本語で歌われるのが、戦死の覚悟を決めて海の向こうへ出征した夫への想いと、「泣きはせぬ」という軍人の妻としての覚悟である。この2つの歌は、1933年に作曲された台湾語の流行歌「月夜愁(月の憂愁)」が、日本統治時代の台湾で1937年に始まる皇民化教育によって、日本語の軍歌「軍夫の妻」へと変えられた史実に基づく。
「恋歌から軍歌へ」というこの改変は、享楽的な世相を軍国主義へと塗り替えるとともに、支配者の言語へと同一化する、という二重性をはらむ。だが重要なのはそれだけではない。この改変から透けて見えるのは、巧妙に内包されたジェンダー的な意味づけである。「軍夫の妻」の歌詞は、確かに軍国主義的な要請によるものだが、「遠く隔てられた男女の別れ」という切ないシチュエーションを女性の視点から歌う、という点では元の「月夜愁」と同質である。元の流行歌の甘いメロディが勇壮な歌詞には向かなかったという事情もあるかもしれない。だが、単に勇壮で愛国的な歌詞に書き換えるよりも、恋愛感情を通して「国への忠誠」にすり替える操作は、より巧妙なジェンダー的仕掛けをはらむ。そこには、「国に従う夫」に従う妻、つまり国家>夫>妻というヒエラルキーが内包されているのであり、この歌を聞き、口ずさむ女性は、恋愛イデオロギーと国家イデオロギーの両方への奉仕を要請されているのだ。
だが、チン・ユウジュウの本作に登場する女性たちは、どこか彼方へと視線を送るものの、その口元は閉じられている。現在の日本、台湾の風景の中に佇む彼女たちは「歌ってはいない」のだ。そのことに気づいたとき、本作は、文化の改変・剥奪とジェンダーの巧妙な利用という歴史への注視とともに、それへの抵抗点として立ち現われるはずだ。
2017/04/21(金)(高嶋慈)
伊島薫「あなたは美しい」
会期:2017/04/15~2017/06/11
京都場[京都府]
80年代より広告やファッション写真で活躍しつつ、アーティストとしての発表も行なう伊島薫の作品は、「写真、女性、美」をめぐって極めて両義的である。代表作の《死体のある風景》シリーズは、ハイブランドの華やかな衣装をまとった女優やモデルが、都市空間や室内、自然の中で「死体」を演じる様子を撮影したものだ。このシリーズには、以下のような「解釈」が可能だろう。完璧なメイクと最先端のファッションを提示する商業写真に、タブーとされる「死(死体)」を組み合わせることで、ファッション写真のフォーマットを利用しつつ、それが規範化する「美/醜」の基準それ自体を撹乱する。「ファッション写真/凄惨な事故現場写真」といった写真ジャンルの区別を無効化させる。あるいはここに、目を閉じて横になる女優をひたすら写した《眠る 松雪泰子》を加えるならば、それらの写真は、「眠り」と「死」の写真における弁別不可能性を示唆し(写真=瞬間的な死)、写された光景がフィクションかどうかを判断する手立ては、写真それ自体には備わっていないことを自己批判的に提示する……。
こうした「美/醜」の基準や写真ジャンルの自明性への疑い、写真というメディアへの自己参照性を読み取ることが可能な一方で、これらの伊島作品は、写真におけるジェンダー的な視線の不均衡をより増幅・強化させる両義性を構造的にはらんでいる。「殺される無垢で美しいヒロイン」というイメージは、死体写真よりも映画のスチルを想起させる。《死体のある風景》シリーズは、シンディ・シャーマンの《アンタイトルド・スチル・フィルム》をより過激化かつ美的化かつ性化を推し進めたものなのであり、しばしば大きく脚を開き、争った痕跡のように衣服をはだけ、低いアングルから窃視的に写される彼女たちは、「眠れる美しい死体」として男性の欲望の視線に供されているのだ。そこで再生産されているのは、西洋絵画における「眠る女性」という主題とエロティシズムの結びつきであり、「死体を演じている」という設定を取り払えば、被写体が取るポーズはポルノグラフィックなそれと同質である。
本展で展示された《あなたは美しい》もプロブレマティックな作品だ。超高精細のデジタルカメラで撮影された女性のヌードが、10mを超える巨大な画像へ引き伸ばされ、目の前に屹立する。一枚の画像を拡大するのではなく、9分割して撮ったそれぞれを引き伸ばすことで、より高精細な画像が得られるのだという。ここでは、作品との距離の取り方によって、「見えるもの」が変化する。全体が一望できる十分な距離を取れば、無防備でありながらも非人間的なスケールで威圧感を与える、モニュメンタルな大きさのヌード像が出現する。9分割のフレームは、まるで檻の中に閉じ込められているような印象を与える。一方、作品に近寄ると、修正を一切加えていない画像には、剥がれたネイル、毛穴、吹き出物の跡、体毛の一本一本までが精密に写し取られており、「ヌード写真=美」という(男性の視線にとっての)価値観を裏切っていく。
だがそれは、デジタル修正が常識となったTVや広告写真に対して、「ありのままの肯定」を訴える素朴なものだろうか。「メディアに流通する、修正された美」へのアンチを提示したいなら、ここまで巨大化させる必然性はどこにあるのか。むしろ本作は、「超高精細のデジタル巨大写真」というアート市場における「商品」と、「女性ヌード」という「商品」という2つの魅惑的な商品をハイブリッドに掛け合わせ、対峙する者を「見ること」の終わりのない往還のうちに誘い込もうとするのだ。
2017/04/21(金)(高嶋慈)
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 山城知佳子「土の唄」
会期:2017/04/15~2017/05/14
堀川御池ギャラリー[京都府]
山城知佳子の近作から、最新作《土の人》までを紹介する個展。全体を貫く通奏低音として、「声と身体」というキーワードを強く感じた。
《あなたの声は私の喉を通った》(2009)は、サイパン戦の生き残りである老人が、目の前で家族が自決した光景について震え声で語る証言を、山城が身体的にトレースする映像作品。男性の語りに合わせて口の動きを模倣する山城の顔が映し出されるが、初めは「口パク」状態で、被せられた男性の声が違和感を与える。涙を流しながら口を動かし続ける山城の姿は、耐えがたい痛みに共感しているのか、他者の記憶を物質的な「声」として身体に入れる苦痛に耐えかねているのか。だが終盤、山城の顔の上にうっすらと男性の顔の映像がオーバーラップすると、2人の声は重なり合い、ラストは山城自身の「声」だけが響く。他者の声の憑依、記憶の共有の困難さと苦痛、そして「声」の回復と継承への可能性を感じさせる作品だ。
また、類似した歴史を持つ沖縄と韓国の済州島で撮影された《土の人》(2016)は、あいちトリエンナーレ2016でも実見したが、本展で強く感じたのは、多言語の声による音響世界の多層性だ。ブツブツと発せられ、死者の声も混ざっているのではと思わせる、聞き取りがたい呟き。歌うような節回しで繰り返される、韓国語の響き。沖縄戦の記録映像に被せてヒューマンビートボックスが発する爆撃音は、いつしか、クラブで爆音でかかるダンス音楽の熱狂へと変貌する(それは、戦争とポップカルチャーという「アメリカ」の二面性を聴覚的に示す)。「ボゴぼごボゴぼご……」という呟きは、言葉遊びを駆使して音響的に戯れながら、地下の湧き水のような豊かな水脈を持つ「母語」について語る:「ことばを持たない自立はない」。
長い眠りから目覚めた「土の人」たちが通り抜ける地下空間や洞窟は、「母語」の空間、共同体的な記憶の空間であり、それは鍾乳洞の内部を撮影した写真作品《黙認のからだ》(2012)において、内臓や乳房といった肉体や胎内のイメージとして差し出される。「他者の声の憑依と記憶の継承」から始まる山城の試みは、「声が通りぬけ、蓄積される器」としての身体を、沖縄の鍾乳洞という現実の場所やそれがはらむ歴史と結びつけながら、より神話的なスケールと深度へと拡張してきたのである。そうした作品どうしの関連性と展開の厚みが十分に示された、充実した個展だった。
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 公式サイト:http://www.kyotographie.jp/
関連レビュー
未来に向かって開かれた表現──山城知佳子《土の人》をめぐって|荒木夏実:フォーカス2017/04/21(金)(高嶋慈)
プレビュー:akakilike『家族写真』
会期:2017/05/19~2017/05/21
京都芸術センター[京都府]
客席空間の壁際で、あるいは一番奥で、暗闇に身を潜めて三脚を構えた写真家が、舞台上のパフォーマンスを撮影する。その時、写真家の身体は(上演中の舞台にとっても観客の意識においても)限りなく消去され、「不在」のものと化している。ところが本公演『家族写真』は、写真家も「出演者」として舞台に上がり、ダンサーや俳優らと「家族」の一員を演じつつ、舞台上で同時進行的に「撮影」を行なうというものだ。写真家の「撮る」身体や行為の露出・前景化がまずは企図される。この作品は、演出家、振付家と写真家が共同制作する企画『わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした』のひとつとして、2016年8月に京都のアトリエ劇研で上演された。また、舞台上で写真家・前谷開が撮影した写真作品は、個展「Drama researchと自撮りの技術」として、12月に京都のDivisionで展示された(それぞれの詳細は、下記のレビューをご覧いただきたい)。
再演となる今回は、前回の出演者6名に加え、ダンサーの佐藤健大郎が新たに参加する。演出の倉田翠によれば、出演者たちが同じようにテーブルを囲みつつ、少しずつ変化が入ってきて、物語が「家族」の外に広がり、再演というより再制作の形に近いという。「家族」という単位のフィクショナルな危うさと強固さ、それをメタフォリカルなレベルで支える「簡易テーブル」という舞台装置、団らん/葬儀といった集合的な行為や依存/苛立ちといった愛憎的な感情を抽象化した運動、さらには写真家の「撮る」身体の露出・前景化、「見る」視線と「見られる」客体との往還、「フィクション」とその記録行為の併存、舞台のフレームと写真撮影のフレームの二重化/ズレなど、本作の魅力は尽きないが、そこにどう新たな変化が加わるのか、非常に楽しみだ。
関連レビュー
前谷開「Drama researchと自撮りの技術」|高嶋慈:artscapeレビュー
2017/03/29(水)(高嶋慈)
大﨑のぶゆき「マルチプルライティング」
会期:2017/03/28~2017/04/22
ギャラリーほそかわ[大阪府]
絵具で描画されたイメージが溶け出し、おぞましくも美しく崩壊していく映像作品。一見何も描かれていない白いキャンバスだが、下地の上に特殊調合したエマルジョン塗料でイメージが描かれ、経年変化による黄変によって潜在的な像が未来において結像する「見えない絵画」。それらの傍らに置かれた円形の鏡の作品《観測者》は、刻々と変わる「現在」の相をその表面に映し出す。
大﨑のぶゆきの本個展において、いずれも問題となっているのは、「表面」とその複数性(表面の物質的な同一性とイメージの現われの複数性)であり、「絵画」というメディウムに不可逆的な時間性と現象性を導入することで、それは映像的な皮膜へと近づいていく。大﨑の関心はおそらく、「過去/現在/未来」という時間のあり方とともに、メディウムの差異とその撹乱にある。描画が溶け出す映像作品《untitled album photo 2017-01》は、何かの行事の記念に撮られた、晴れ着を着て自宅の傍に立つ男の子のスナップ、つまり「写真」を下敷きにしている。つまりその描かれたイメージは、「写真」を原資としつつ、描画材の流出という操作を仕掛けることで、イメージが変容/消滅する時間性を胚胎させている。像の輪郭がぼやけ、曖昧に溶けだしていく様子は、時とともに薄れゆく記憶のプロセスの追体験を思わせるとともに、個人の生のかけがえのない一瞬が、匿名的で交換可能な「記念写真」「家族スナップ」の集合的な性質へと溶解していく過程も想起させる。一方、溶け出した絵画をスチルとして撮影した写真作品も制作されている(変容/消滅へと向かう時間の流れの一時停止)。また、上述の「見えない絵画」は、数十年後、100年後の未来において徐々に像が現われるものであり、可視化すなわち「現像」までの時間が極端に引き伸ばされた「ネガ」であると言えるだろう。このように、いずれの作品も、絵画/写真/映像という媒体の性質を互いに含み持つことで区分を無効化し、判断を宙吊りにしてしまう。
本個展は、これまで個別のシリーズとして発表されてきた大﨑の試みに新たな試みを加えて編集的な視点から見せるものであり、複数のシリーズの並置によって、メディウムが相互浸透する界面と時間の関わりに大﨑の関心軸があることを示していた。
2017/03/28(火)(高嶋慈)