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村田真のレビュー/プレビュー

今井俊介 スカートと風景

会期:2023/04/15~2023/06/18

東京オペラシティアートギャラリー[東京都]

最初に今井俊介の作品を見たとき、きれいだけど中身がないなあと思ったが、何度か見るうちに、これは一筋縄ではいかない絵画だと感じるようになった。というのも、ストライプを中心とするカラフルなパターンは、ポップアートにも見えればミニマルアートにも見えるし、スカートのドレープに由来するモチーフは具象ともいえるし抽象でもあるし、制作手順もデジタルな作業とアナログな手描きが混在し、完成作品はアートでありながらデザインとしても通用するといったように、絶妙な境界線の上に成り立っていることが了解できるからだ。これはおもしろいかも。

会場には、2008年から現在まで約15年間の作品が並ぶ。細かい図柄の初期作品と色彩の少ない新作を除けば、大半は制作年が特定できないくらい似たり寄ったりで区別がつかない。そのため展示は制作順ではなく、サイズや色合いで決められているようだ。蛍光色のような鮮やかな色彩をふんだんに使っているので、ギャラリーの白い壁によく映えて美しい。遠目にはまるでポップアート展の会場のようにも見える。



会場風景 [筆者撮影]


しかしポップアートがそうであるように、時代が過ぎれば色褪せて見えてくるかもしれない。ポップアートではモチーフが時代遅れになると作品自体が陳腐に見えてしまうが、今井の場合モチーフはともかく、画面の物理的な経年変化に危惧を覚える。ハードエッジな形態に明るく鮮やかな色彩がフラットに塗られているだけに、ノイズが入ると致命的になりかねない。今回も少し気になったが、白の部分にわずかでも汚れがつくと目立ってしまい、興醒めなのだ。

今回タブロー以外に、仮設壁にインクジェットプリントによる壁画があったり、図柄をプリントしたパジャマやスカーフを展示したりしている。昨年は「六本木アートナイト」で、六本木交差点の首都高を支える柱にプリントによる壁画を施したが、タブローよりこうしたデザインを含めたパブリックな仕事に可能性があるような気がする。余計なお世話だが。


公式サイト:https://www.operacity.jp/ag/exh261/j/exh.php

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今井俊介《untitled》──リアリティーがストライプになるとき「森啓輔」|影山幸一:アート・アーカイブ探求(2017年04月15日号)

2023/05/06(土)(村田真)

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没後40年 朝井閑右衛門展

会期:2023/04/22~2023/06/18

横須賀美術館[神奈川県]

朝井閑右衛門(1901-83)というと、名前の響きからも、ちょっと時代遅れの昭和の洋画家のひとりくらいにしか思っていなかった。しかし近年になって、日中戦争において最初の戦争画を描いたり、戦後アトリエ近くの電線をモチーフにしていたことを知り、これはひょっとして電波系の画家かもしれないと思い始めた矢先の回顧展。これは少し遠いけど見に行かねば。

朝井は戦前、ピカソやシュルレアリスムの影響からか、1936年に幻想的な作風の《丘の上》が文展で受賞し、注目を浴びる。翌年日中戦争が始まり、通州事件に取材した《通州の救援》(1937)が第1回新文展に入選。これが日本の戦争記録画の最初の作例とされるが、作品は現存せず。以後、戦争記録画の制作に携わり、何度も中国とのあいだを往復する。今回の出品作品には明白な戦争記録画は見当たらないが、海岸風景を描いた《大王崎》(1944)はよく見ると沖に何隻か戦艦が停泊しているのがわかる。一方《豊収(誉ノ家族)》(1944)は、荒野を背景にした母子像だが、「誉ノ家族」は夫を戦争で亡くした母子家庭のことなので、どちらも広い意味で戦争画の一種といえるだろう。

また、3年前に練馬区立美術館で開かれたユニークな「電線絵画展」では、朝井の電線絵画が水彩を含めて6点も出ているうえ、彼自身「ミスター電線風景」と称されていたので、戦後は電線風景ばかり描いていた画家かと思ったらそんなわけがなく、今回は3点しか出ていなかった。それにしてもなんと力強い電線だろう。朝井には電線を走る電磁波エネルギーが見えていたのかもしれない。結局、電線絵画は1950年代に取り組んだモチーフのひとつにすぎず、本人はむしろ「人物画家」を自負していたらしい。確かに三好達治、草野心平、室生犀星、萩原朔太郎ら文士を描いた肖像画は味わい深いものがある。でも晩年は、所有していた絵壺やフランス人形、バラの花など洋画の定番モチーフばかりになってしまったのが残念。


公式サイト:https://www.yokosuka-moa.jp/archive/exhibition/2023/20230422-741.html

関連レビュー

電線絵画展─小林清親から山口晃まで─|村田真:artscapeレビュー(2021年04月15日号)

2023/05/04(木)(村田真)

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前本彰子展 花留姫縁起

会期:2023/04/24~2023/05/06

コバヤシ画廊[東京都]

ここ数年、毎年のように前本彰子の1980年代の旧作が紹介されている。今回は、1986年に青山のスパイラルで開かれた「アート・イン・フロント86 世紀末芸術の最前線」に出品された作品を中心とする展示だ。

1986年というと、欧米の新表現主義の影響もあって、にぎやかなニューウェイブが最盛期を迎え、ちょっとしたアートブームが訪れた時期。美術雑誌で前本を含む「超少女」が特集されたのもこのころだ。前本はBゼミ在籍中の80年代初頭から発表を始め、この年までに早くも「今日の作家展」やシドニー・ビエンナーレへの出品を果たし、この後も西武美術館の「もの派とポストもの派の展開」展、全米を巡回する「アゲインスト・ネイチャー」展などに選ばれていく。いわば80年代アートを象徴する「ニューウェイブ」「超少女」の中核を担ったアーティストのひとりであり、彼女自身もっともノッていた時代だった(ただし「ニューウェイブ」も「超少女」も一部のマスコミが騒ぐだけで、作品はほとんど売れなかったはず)。

スパイラルの展覧会のために前本がつくったのは、赤と青に彩られた表面にラメを散りばめたドンゴロス製の巨大な自立式ドレス。だが、スパイラルガーデンの中央に華々しく設置されたこの大作は、出品作家のひとりムラカミ・ヤスヒロのインスタレーションによって無惨にも覆い隠されてしまう。ムラカミは彼女の作品の周囲に黒い角材を組み上げて、隙間からしか見えなくしてしまったのだ。この日のためにきれいに着飾ったお姫さま(のコスチューム)を、黒々とした魔手が取り囲んでしまったかたちだ。そのオープニングの晩に前本が会場で泣いていたこと(実は泣いた理由はほかにもあったらしいが)、それを写真家の安斎重男さんが慰めていたことを、37年後のこの日、前本さんと思い出して笑った。彼女もたくましくなったもんだ。

その後この作品は日の目を見ることなく倉庫に眠っていたというので、実に久しぶりの公開となる。赤と青の色彩は若干褪せたのかホコリを被ったのか、ほんの少しくすんでいるものの、ほぼオリジナルの姿を保っていた。ちなみにタイトルの《花留姫縁起》はこの作品ではなく、壁に飾ったレリーフ状の新作のほうだ。



展示風景 [筆者撮影]



公式サイト:http://www.gallerykobayashi.jp/exhibition/2023/

2023/04/28(金)(村田真)

桜を見る会

会期:2023/04/08~2023/04/29

eitoeiko[東京都]

新宿御苑での集会が中止になった2020年から、会場を同じ新宿区内のeitoeikoに移して(?)開催されている「桜を見る会」も、早4回目。ただ桜の開花が年々早まっているため、開催時にはもう花は散っているが、花見をしそこなった人には絶好のチャンス(なわけないか)。今年はメキシコからの2人を含めて7人の展示。

初登場のMESは、国会議事堂の外壁に強力なレーザーポインターを使って巨大な中指を立ててみせた。中指を立てるのはアイ・ウェイウェイやマウリツィオ・カテランらが作品化しているし、建物に批判的プロジェクションをする試みもウディチコやゼウスがやっているので珍しくないが、さすがに国会議事堂に中指というのは初の快挙といっていいだろう。なぜこんなことができたのかというと、中指を立てたかたちをそのまま映し出すのではなく、あらかじめ中指の輪郭線をプログラミングしたレーザーポインターで数秒かけて描き出したからだ。それを数秒間の露光で撮影すれば中指が浮かび上がるって仕掛け。もちろん何度も試し描きできるわけではないので、周到な準備を重ねたうえでの行動だったことがわかる。

「桜を見る会」常連の(というとアレだが)岡本光博の作品は、相変わらず冴えている。今回は「表現の不自由展」をテーマにした2点で、ひとつは「表現の不自由展 中止に」という朝日新聞の記事をプリントしたボックスの上に、3台のミニチュア街宣車を置いたもの。街宣車の車体には旭日旗や日本地図が(北方四島だけでなく千島列島も)描かれ、ナンバープレートには実際に会場に押しかけた街宣車のナンバーが極小数字で記されている。その隣には「有罪確定 ろくでなし子不屈」の新聞コピーをプリントしたピンク色のボックスを並べており、ろくでなし子が「表現の不自由展」から外されたことへの不満の表明と見ることもできる。



展示風景 岡本光博作品 [筆者撮影]


藤井建仁による安倍元首相夫妻の鉄面皮彫刻は、第8回岡本太郎現代芸術賞展(2004)で準大賞を獲得した作品の一部。どうりで髪型は若いが、人相は相変わらずよろしくない。併せて、コロナ禍のひきこもり生活で安倍氏が星野源の曲に合わせて撫でていた愛犬も彫刻化。今回はメキシコからも、日本の招き猫とメキシコの心臓を合体させて桜色に染めたイレアナ・モレノ、手彩色のエロマンガを陶器に焼きつけたアレハンドロ・ガルシア・コントレーラスが出品。ふたりとも展覧会の意図をよくわかっているようだ。


公式サイト:http://eitoeiko.com/exhibition.html

関連レビュー

桜を見る会|村田真:artscapeレビュー(2022年06月01日号)

2023/04/28(金)(村田真)

マティス展

会期:2023/04/27~2023/08/20

東京都美術館[東京都]

近代絵画のなかで「わかりにくい」画家というのが何人かいる。その代表がセザンヌとマティスだ。このふたりは近代美術史上きわめて重要な地位を占める割に、日本では同時代のモネやピカソほどの人気はない。要するに「通好み」なのだ。

このふたりに共通するのは、ここだけの話だが、絵がヘタなこと。もちろんヘタといっても、マティスの場合ライバルとされるピカソに比べればということで、今回の展覧会冒頭に展示されている《読書する女性》(1895)を見れば、いちおうアカデミックな描写力を備えていることはわかる。でも見るたびに、なんでこんな雑な塗り方をするんだろうとか、なんでこんな不細工なデフォルメをするんだろうとか、いちいち気になるのだ。でもひょっとしたら、マティスはピカソほど画力がなかったからこそ、色彩表現と対象描写という両立しがたいふたつの要素を結びつけることができたのかもしれない。なーんて思ったりもする。

今回の出品作品は、パリのポンピドゥー・センター(国立近代美術館)から借りてきたもの。会場に入ると、おお《豪奢、静寂、逸楽》(1904)があるなあ、《豪奢Ⅰ》(1907)も来ている。でもヘッタクソだなあ、と見ていくと、《金魚鉢のある室内》(1914)《コリウールのフランス窓》(1914)《アトリエの画家》(1916-17)《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918)が並ぶ一画で足が止まった。みんな窓を描いている。窓はそれ以前にも《サン・ミシェル橋》、以後も《ニースのシエスタ、室内》などにも登場するので珍しくないが、この4点はいずれも第1次大戦中の制作(1914-18)。



展示風景 左:《アトリエの画家》 右:《金魚鉢のある室内》  [筆者撮影]


《金魚鉢のある室内》と《アトリエの画家》はセーヌ河岸のアトリエ風景で、いずれも右上の窓から外の景色が見えている。前者の金魚鉢はガラス製で水をたたえているので、ガラス窓の向こうのセーヌ川と水色でつながっているように見える。後者は画家と女性モデルとイーゼル上の絵が描かれているが、着衣のモデルは画中画と合わせてダブルで登場し、画家のほうは男性らしいが、なぜか裸のようだ。着衣の男性画家と、ヌードの女性モデルという従来の立場が入れ替わっている。

一方《コリウールのフランス窓》と《窓辺のヴァイオリン奏者》は、どちらも観音開きのフランス窓を正面から描いている点では同じだが、中身はまるで違う。前者は、左右を青白色と緑白色および灰色の帯が縦に走り、開口部に当たる中央が黒く塗り込められ、ほとんど抽象絵画。いわれてみれば確かにフランス窓だが、だとすれば窓の外は真っ暗闇なのか。この絵が制作されたのは1914年。第1次世界大戦が始まった年であり、マティスがパリを逃れて南仏コリウールに一時的に滞在したときの作品だ。そんな暗黒時代に暗い気分で描いたから真っ黒なのだ、といわれて真に受けるほど素直ではないけれど、つい納得したくなる。ちなみに「フランス窓(フレンチ・ウィンドウ)」をもじったマルセル・デュシャンの《フレッシュ・ウィドウ》(なりたての未亡人)も、窓のガラス部分を黒くして向こう側を見えなくしている。デュシャンはマティスを参照したのだろうか。



展示風景 左:《コリウールのフランス窓》 右:《窓辺のヴァイオリン奏者》  [筆者撮影]


もうひとつ、1914年といえば、カンディンスキーとモンドリアンが抽象絵画に至った時期でもある。マティスは最後まで再現描写を捨てなかったので、本作を抽象と見るのは無理があるが、多くの芸術家が抽象に向かっていた時代であることは事実だろう。

《コリウールのフランス窓》が開戦の年なら、《窓辺のヴァイオリン奏者》は終戦の年の作品。前者の中央の黒い部分が明るくなり、そこにヴァイオリンを弾く人物の立ち姿が描かれている。この一夜明けたような明るさを、未曾有の戦いが終わったことと関連づけるのは単純すぎるだろうか。それにしてもこの奏者は《アトリエの画家》の画家と同じく斜め後ろ向きで、なんでここまでヘタに描く必要があるのかと訝るほどデフォルメされている。

この4点の前で足が止まったと述べたのは、窓が描かれているからというだけでなく、実はこれらの額縁がほかに比べて装飾のないシンプルなものだったからでもある。シンプルな額はほかにもあるが、この連続する4点の額がまとまってシンプルだったのは偶然とは思えない。西洋ではしばしば絵画は窓にたとえられるが、それは世界を四角く切り取って(フレーミング)向こうを見通す装置だからだろう。だとすれば、窓を描いた絵に額縁(フレーム)をつけるのは屋上屋を架すようなものではないか。そう考えてこれらの作品はシンプルなフレームに抑えたのではないかと想像するのだ。ポンピドゥー・センターの見識というものだろう。


公式サイト:https://matisse2023.exhibit.jp/

2023/04/26(水)(村田真)

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