artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
レーピン展
会期:2012/08/04~2012/10/08
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
レーピンというのは美術史的にどのように位置づけられているのか、落としどころのわからない画家だ。生まれは1844年だから印象派と同世代(ほんの少し若い)で、パリ留学中に印象派の旗揚げに接し大きな影響を受けたものの、画風はそれ以前のリアリズムに徹していたからモダニズムの文脈からは外れる。また、社会的弱者や革命運動を描く一方で、帝政ロシアの貴族や文化人の肖像画も手がけたというのも一筋縄ではいかないところだ。芸術も社会もイケイケの前衛だったロシア革命時には70歳をすぎていたが、当時はどのように見られていたのだろう。亡くなった1930年は社会主義リアリズムが真っ盛りで模範的画家と見なされていたようだが、ソ連崩壊後どのように評価が変わったのか。彼の生きた19~20世紀のロシアほど大きく変動した社会もないから、自分は変わらなくても時代によって保守的と見られたり革新的と見られたりしたんだろう。まあ彼自身はリアリズム絵画しか描けない職人画家だったのかもしれない。
2012/08/19(日)(村田真)
福島現代美術ビエンナーレ2012
会期:2012/08/11~2012/09/23
福島空港[福島県]
郡山からバスに乗って福島空港へ。なんでこんなローカル空港でビエンナーレが開かれるんだ?ってより、そもそも福島でビエンナーレをやってること自体つい最近まで知らなかったが、もうすでに5回目らしい。企画運営を担っているのは福島大学の渡邊晃一准教授と学生たちで、おそらく予算も人手も足りず、広報まで手が回らないのだろう。だいたい直前に立ち寄った福島県立美術館でさえポスターもチラシも見かけなかったし。とくに今回はヤノベケンジ、オノヨーコ、河口龍夫らそうそうたるアーティストが出品しているだけに、もったいないの一言。展示は空港ビルのロビーや空きスペース、空港向かいの庭園、国際貨物施設(ここには椿昇らの作品があるらしいが見逃してしまった)など。なんといっても目立つのは、空港ビルのエントランス脇にそびえ立つヤノベケンジの《サン・チャイルド》。福島原発事故後に制作した高さ6メートルの巨大な子どもの像で、黄色いアトムスーツに身を包みながらもヘルメットは外し、顔は傷だらけだけど目はキラキラと輝いている。まさに福島のビエンナーレのためにつくられたと錯覚しそうな作品だ。ヤノベはほかにもアトムスーツを着たフィギュアをあっちこっちにまぎれ込ませて空港ビルを制圧したが、予算がないためサポーターを募って資金をつくり、ようやく実現したという。ヤノベ以外では、暗箱をのぞくと向こうの風景が絵画のように切りとられて見える母袋俊也の《絵画のための垂直箱窓》を、場所を意識した作品として特記しておきたい。
2012/08/11(土)(村田真)
ルーヴル美術館からのメッセージ:出会い
会期:2012/07/28~2012/09/17
福島県立美術館[福島県]
石巻からの帰りに福島県立美術館を初訪問。ここでは宮城県美術館、岩手県立美術館に続き、ルーヴル美術館が被災3県にコレクションを貸し出す巡回展が開かれている。ルーヴルのコレクションといったって緊急に貸し出しを決めたものだから、そんなたいした作品は来てないだろうとタカをくくっていたが、たしかに作品そのものはあまり知られてない小品が大半を占め、点数も24点と少ないものの、古代エジプトの石像から中世の写本、ルネサンスの彩色皿、17世紀オランダの風俗画、ロココ彫刻までじつに幅広く選ばれている。なにより「出会い」のテーマの下、必ずふたり以上の人物が描かれ、人間の関係性を際立たせた作品を選んでる点が泣かせる。とりわけイタリアの陶製食器には、人物は描かれていないけど握手する手のみが描かれ、人間同士のつながりが強調されている。さすがフランス、シャレた真似を。んが、これだけでは物足りないと感じたのか、巡回3館がそれぞれ数点ずつコレクションをつけ加えている。舟越保武の首像とか、北川民次の戦時中の家族の肖像とか、橋本堅太郎の木彫の女性像とか、各館自慢の作品かもしれないが、ルーヴルの古典的作品に比べて明らかに見劣りがするし、「出会い」というテーマからはずれたものも少なくない。残念ながら蛇足というほかない。
2012/08/11(土)(村田真)
絵のパレード
会期:2012/08/10
石巻商店街[宮城県]
7月にナディッフ・ギャラリーで開催した「一枚の絵の力」展が、宮城県石巻市の日和アートセンターに巡回することになり、いちおう出品作家のひとりであるぼくも便乗させてもらった。昨晩、遠藤一郎のバス「未来へ号」に作品と作家たちを載せて秋葉原を出発、朝方石巻に到着。仮眠後、展覧会のデモンストレーションを兼ねて作家がそれぞれ作品を抱え、街中を練り歩いた。この「絵のパレード」はやはり出品作家の幸田千依さんのアイディア。作品を搬入していたとき絵を持って歩くのがおもしろいと感じて始めたという。なるほど、絵が歩くというのは動産美術であるタブローでしかできない話。しかも大きすぎたら持てないし、小さすぎたら絵が目立たないし、ちょうど胴体が隠れて頭と足が出るくらいの大きさがいい。しかし見せられるほうは、いきなり絵が次々と表われて目の前を通りすぎたり、自分を取り囲んだりするわけだから、かなり戸惑うと思う。商店街といっても被災地だから開いてる店も人通りも少なかったけど、自分の絵をこうやって白昼堂々と人目にさらすというのは必要な経験かも。パレード終了後アートセンターに戻り、みんなで飾りつけ。
2012/08/10(金)(村田真)
与えられた形象──辰野登恵子/柴田敏雄
会期:2012/08/08~2012/10/22
国立新美術館[東京都]
辰野と柴田? どういう組み合わせだろうと不思議に思ったが、東京藝大油画科の同級生と聞いて少し納得。でも同窓会じゃあるまいし、ただそれだけの縁で組ませたとしたら企画力ゼロだが、展覧会を見てなるほどと感心した。タイトルどおり、たしかにふたりは「与えられた形象」で共通しているのだ。辰野は70年代にグリッドやストライプのミニマルな平面でデビューしたが、80年ごろから筆触もあらわな表現主義的絵画に移行。次第に鮮やかな色彩の装飾パターンが表われ、90年ごろから立体感や陰影のある形態が見られるようになった。このモコモコっとしたりカクカクっとした抽象とも具象ともいいがたいイリュージョナルな形態は、もう20年以上も見続けているはずなのにいまだぼくのなかでは抵抗感がある。で、このモコモコカクカクの立体感が、まさに柴田の写真に共通する形態だったのだ。柴田の写真に感じられるのは、ダムや擁壁のような凹凸のあるヴォリューム感を使っての抽象志向であり、作為なき作為ともいうべき土木造形への偏愛だ。その作品に初めて接したときに生じた“萌え”のような感覚は、辰野作品に感じる抵抗感と対照的だが、それはおそらく写真と絵画というメディアの違いに由来するものかもしれない。この両者のメディアを超えた共通性は偶然のものとは思えないが、それが彼らの世代特有のものなのか、それとも藝大での彼らの活動に由来するものなのか、判断がつきかねるところ。
2012/08/07(火)(村田真)