artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
メタボリズムの未来都市
会期:2011/09/17~2012/01/15
森美術館[東京都]
メタボリズムとは1960年に菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦、榮久庵憲司ら建築家やデザイナーによって提案された理論で、要約すれば、建築・都市は新陳代謝を通じて成長・変化していく有機体でなければならないという説。しかし無機物のかたまりである建築を成長・変化させていかなければならないというのだから、根本的に無理がある。そのため荒唐無稽な未来が信じられていた時代には夢物語として話題を集めたものの、万博あたりを境に忘れられていった。たしかに建築が成長・変化していくのは不自然だが、しかし建築の集合体である都市は有機体のように成長・変化していかなければならない、というのは感覚的によくわかる。だから、メタボリズムに先行する丹下健三を含め、彼らの多くはひとつの建築としてではなく、都市レベルでのツリー状の集合建築を設計したのかもしれない。このような有機体としての都市という理念は、ある種の不気味さをともなうのも事実だが、3.11以降見直す価値が出てきたのではないか。震災によって会期がずれ込んだが、それだけに重要性を増した展覧会といえる。
2011/09/16(金)(村田真)
千代田芸術祭2011
会期:2011/09/03~2011/09/19
アーツ千代田3331[東京都]
展示部門のアンデパンダン展に、ステージ部門とマーケット部門が加わったアートフェスティバル。でも見たのは展示部門だけ。出品は約300人(組)ほどで、大半は素通りだが、いくつか目に止まった作品もあった。都市風景を描いた菅野裕子の絵画は、とくに目立つわけではないけど、凡百の作品の海のなかでは輝いて見える。また、スカートのなかをのぞいてオナニーする少年少女像を彫った柳瀬はるかの《ままごと》は、木彫の存在感と夢幻的な内容の落差が衝撃的。ほかに、マンガをモチーフにした作品がけっこうあったが、なかでも、アーティスト志望の女子が画廊で個展を開くまでをコマ割りマンガにしてキャンバスに描いた増田ぴろよ、岡崎京子の『ヘルタースケルター』の主人公を自分の顔写真に貼り替えて製本した山田はるかがおもしろい。どちらもつい読んでしまった。こういう作品て最近よくあるのかしら。
2011/09/15(木)(村田真)
磯江毅=グスタボ・イソエ──マドリード・リアリズムの異才
会期:2011/07/12~2011/10/02
練馬区立美術館[東京都]
磯江の名前も作品も知らなかったし、彼が浸かったスペイン・リアリズム絵画にも興味はなかったが、ただひとつ、彼がぼくと同じ1954年生まれ(2007年に死去)というだけの理由で見に行く。磯江は予備校でデッサンや油絵を学ぶが、日本の美大に進むことなく渡西し、スペイン特有の細密なリアリズム絵画を習得。モダンアートが袋小路に陥っていた当時、なぜ彼が極端なリアリズムを追い求めたのか、なんとなくわかるような気がする。ミニマリズムやコンセプチュアリズムにおおわれた70年代、美術を続けるなら思考を研ぎ澄ませて素材や技法を極限まで切りつめるか、もしくは正反対に髪の毛1本1本まで描き出す徹底したリアリズムに走るか、およそ両極の選択肢しかなかったように感じられたからだ(もっとも両者は自己表現の抑圧という点では表裏の関係にあったが)。しかし、ミニマルやコンセプチュアルとは違ってリアリズム絵画はある意味わかりやすく、商品化しやすいため、怪しげな画商や美術評論家がはびこりやすい世界でもあった。昨今のリアリズム絵画になにか胡散臭さを感じてしまうのは、そんな面もあるからだ。もちろん磯江本人は純粋にリアリズム絵画を追求したかっただけだろう。そのひとつの頂点ともいうべき作品が、タイトルがすべてを語っている《鮭“高橋由一へのオマージュ”》だ。しかしこの絵に描かれた荒縄の一部に本物のワラが使われているのを見て、リアリズムの限界を感じたのも事実。これはすでにリアリズム絵画を超えて、トリックアートの領域に入っているではないか。また、背景に新聞紙を描いた作品も何点かあったが、リアリズムを徹底させるのであれば1文字1文字まで描かなければ(書くのではなく)ならないはずだ。そこまでいくともはや狂気と裏腹の世界だが、磯江の場合そこまでは描いていない。それゆえに「絵画」には踏みとどまっているともいえるだろう。リアリズム絵画の矛盾と限界を教えてくれる展覧会でもあった。
2011/09/15(木)(村田真)
モーリス・ドニ──いのちの輝き、子どものいる風景
会期:2011/09/10~2011/11/13
損保ジャパン東郷青児美術館[東京都]
ドニというとゴーガンの下に集まったナビ派の主要メンバーであり、装飾的な画面で知られる一方で、敬虔なクリスチャンとして聖書や神話を主題にした宗教画を残した画家でもある。とりわけモダニストにとって重要なのは、「タブローとはヌードや風景である以前に色彩におおわれた平面である」といった主旨の彼の言葉であり、ここから形式(フォーム)を重視するフォーマリスティックな抽象表現が導かれていくことになった。だが、そんな美術の基礎知識をもって同展を訪れると肩すかしを食らう。描かれているのは神でもヌードでもなく、自分の子どもをはじめとする家族の肖像だからだ。あれれ?と思ってチラシを見ると、サブタイトルは「いのちの輝き、子どものいる風景」。なるほど、日本でのドニの知名度の低さを考えれば妥当なテーマ設定かもしれない。「装飾」とか「信仰」とか、ましてや「平面性」などでは人は入らないからね。
2011/09/13(火)(村田真)
寺内曜子 展
会期:2011/08/29~2011/09/10
表参道画廊[東京都]
ギャラリーの壁のところどころに、さまざまなかたちに切り抜いたストライプ模様の布が貼ってある。はて、なんのかたちだろう? 国か都道府県か、どこか島の輪郭かとも思ったけど、該当する地形が思いつかないし、貼ってある場所にもかたちにも規則性があるわけでもない。いちどギャラリーの入口に戻ると、そのガラス面に同じストライプ模様の大きな布が貼ってあり、ところどころ穴があいていた。この大きな布をぐしゃぐしゃに丸めて一部をハサミで切り取り、その断片を壁に貼っていたのだ。ああ、やっぱり寺内曜子だ、と納得。彼女の作品を初めて見たのは30年近く前、ロンドンのギャラリーでだ。その後、かんらん舎といういまでは伝説的なギャラリーでも発表していたが、今回はおよそ20年ぶりの再見。基本コンセプトが当時とまったくといっていいほど変わっていなかったのがうれしい。このチャラいポストモダンの時代気分のなかで、揺らぐことなく一貫したコンセプトで制作を続けることの困難さを思う。
2011/09/10(土)(村田真)