artscapeレビュー
磯江毅=グスタボ・イソエ──マドリード・リアリズムの異才
2011年10月15日号
会期:2011/07/12~2011/10/02
練馬区立美術館[東京都]
磯江の名前も作品も知らなかったし、彼が浸かったスペイン・リアリズム絵画にも興味はなかったが、ただひとつ、彼がぼくと同じ1954年生まれ(2007年に死去)というだけの理由で見に行く。磯江は予備校でデッサンや油絵を学ぶが、日本の美大に進むことなく渡西し、スペイン特有の細密なリアリズム絵画を習得。モダンアートが袋小路に陥っていた当時、なぜ彼が極端なリアリズムを追い求めたのか、なんとなくわかるような気がする。ミニマリズムやコンセプチュアリズムにおおわれた70年代、美術を続けるなら思考を研ぎ澄ませて素材や技法を極限まで切りつめるか、もしくは正反対に髪の毛1本1本まで描き出す徹底したリアリズムに走るか、およそ両極の選択肢しかなかったように感じられたからだ(もっとも両者は自己表現の抑圧という点では表裏の関係にあったが)。しかし、ミニマルやコンセプチュアルとは違ってリアリズム絵画はある意味わかりやすく、商品化しやすいため、怪しげな画商や美術評論家がはびこりやすい世界でもあった。昨今のリアリズム絵画になにか胡散臭さを感じてしまうのは、そんな面もあるからだ。もちろん磯江本人は純粋にリアリズム絵画を追求したかっただけだろう。そのひとつの頂点ともいうべき作品が、タイトルがすべてを語っている《鮭“高橋由一へのオマージュ”》だ。しかしこの絵に描かれた荒縄の一部に本物のワラが使われているのを見て、リアリズムの限界を感じたのも事実。これはすでにリアリズム絵画を超えて、トリックアートの領域に入っているではないか。また、背景に新聞紙を描いた作品も何点かあったが、リアリズムを徹底させるのであれば1文字1文字まで描かなければ(書くのではなく)ならないはずだ。そこまでいくともはや狂気と裏腹の世界だが、磯江の場合そこまでは描いていない。それゆえに「絵画」には踏みとどまっているともいえるだろう。リアリズム絵画の矛盾と限界を教えてくれる展覧会でもあった。
2011/09/15(木)(村田真)