artscapeレビュー
篠田千明『非劇 Higeki』
2015年12月01日号
会期:2015/11/27~2015/11/29
吉祥寺シアター[東京都]
20145年にこじきのロボットと人間が空港で出会う物語。齋藤桂太の脚本はつぎはぎ感があり、すっと理解ができるわけじゃないから、わからない部分4割を残しながら芝居の時が過ぎていく。けれども、あるときハッとしたのは、まさにこれは『非劇』なのだ、ということ。劇にあらず。役者たちが登場し、一見ある物語を進めているかに見えるのだが、役者たちの役は一人を残してロボットばかり。一般的な劇が人間の心の姿をベースにお話が進むとするならば、ロボットたちのお話はそこに心の姿を探しても、うまく像が結べなくて当然なのだ。死を回避する手術を施された人間たちが(擬似的)死を体験したいがために、テロをあちこちに起こしていくという話も出てくるが、これもヒューマニズムを基にした共感のうちに落とし込むわけじゃなくて、だから、心を消した者たちの姿が淡々と描かれる。こんなことが可能なのは、乱暴な説だが、篠田が福留麻里やAokidといったダンサーを役者として起用したことと関連があるのではなかろうか。「共感」とは異なる仕方で、舞台が揺れ動き、その揺れ動く時間を成立させようとすれば、それは行為(役者たちの身体の運動)それ自体がその場を埋めていくということになるだろう。そして、その際、場を質的に満たすには、身体が放つ説得力に訴えるほかない。「劇にあらず」であるならば、「じゃあなにか」というとそういうことになる──ということはどういうことか。岡田利規の『God Bless Baseball』も捩子ぴじんの参加で、独特の時間が生まれていた。演劇が演劇を突き破って、その場でしか起きないことに賭けるとき、ダンサーの身体が起用される。現況において、演劇に比してダンスの分野は元気がないかのようにも見えるけれど、いや、けっしてそんなことはないはずだ。ダンスはいまむしろ求められている。けれども、それはオーセンティックな、ゆえに言語に近いダンスではなく、得体の知れない、非社会的で、言語から程遠い身体の密度を示すダンスだろう。舞踏をはじめ、ある種のダンスたちが取り組んできた「非人間性」の露出への要請が、現在の舞台芸術のなかに起きているのではないだろうか。
2015/11/29(日)(木村覚)