artscapeレビュー
新聞家『川のもつれホー』
2016年01月15日号
会期:2015/12/02~2015/12/06
2015年1月の前作『スカイプで別館と繋がって』には驚いた。一人の役者がきわめて複雑な抑揚とともにこれまた言葉づかいの複雑なセリフをしゃべる。そのしゃべりのリズム(音楽性)にも驚いたが、なにより役者の身体性には目を瞠るものがあった。役者の身体には独特の質があった。セリフの難解さのみならず、床に置かれたスマホに役者は自身のまなざしを固定し、重そうなオブジェを胸に抱えていた。多重な縛りが身体に緊張をもたらしていた。その緊張は豊かな徹底に映った。筆者は、それを「強烈にストイックでモダニスティックな形式主義」と形容したことがある。さて、本作。複雑な抑揚(タイトルの語尾「ホー」に表われているような、意味を切断するような言い回しも含めて)は前作と同じかそれ以上に作り込まれていて、役者はそれを巧みに表象する。聞こえてくる言葉から「川」や「橋」をめぐる家族の話が展開されているようなのだが、抑揚の音楽性が理解を妨げる。すると、目の前に見えるのは役者というよりも一人のヴォイス・パフォーマーなのでは、という気持ちが生まれてくる。ここで起きているのは、クレメント・グリーンバーグがキュビスムを論じる際に、ピカソやブラックの試みた独特な立体性の効果がいつのまにかたんなる模様になりかけていると指摘したのに似た事態に思われる。前作にあったオブジェやスマホのような枷がないぶん、身体の立ち上がりが弱く感じられる(それにしたって、大抵の演劇に比べれば、身体の集中は強烈なのだが)。たんに前作を踏襲するのでは満たされなかったのだろう。演出の村社祐太朗には、そうあえてした狙いがあったに違いない。ただし、筆者にはその狙いは、演劇の形式主義の徹底というよりは、演劇の消滅を帰結するように見えたのだ。絵画がたんなる模様と化すのに抗して、キュビスムは、いったん消した表象(意味)作用をあらためて採用したり、キャンバスにダイレクトに壁紙を貼り付けたりした。ひょっとして、そうしたアプローチが今後あるならば、新聞家の「総合的キュビスム期」なのかもしれないのだが。
2015/12/04(金)(木村覚)